邯鄲の夢エッセイ








東日本大震災の記録(エッセイ)は、こちらから。


 2011年3月11日午後2時46分に発生した三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の巨大地震と、それに続いて東日本の太平洋岸を一斉に襲った大津波は、今なお忘れられない禍々しい記憶である。それとともに、この大地震と津波により、東京電力福島第一原子力発電所の6つの原子炉は、第1から第4号機までが全電源喪失という未曽有の危機に陥った。その処理をひとつ間違えると、1986年4月26日に旧ソ連で起こったチェルノブイリ事故にも匹敵する原子力の大災害が、この日本それも首都圏に近い福島県で発生しかねないという絶体絶命の危機であった。私は原子炉が冷却できないと聞いた瞬間、かつて見た映画「チャイナ・シンドローム」を思い出した。原子炉が制御不能になり、溶融した核燃料が地面を溶かして地球の中心に向かって落ちて行き、地下水と反応して水蒸気爆発を起こすというものである。まさか、そんなことが自分の住んでいる東京の近くで起ころうとは、夢にも思わなかった。しかも、危機に陥っている原子炉が4つもあるというではないか。

 ところが、毎日の官房長官や原子力安全・保安院の記者会見を聞いても、どうも状況がよく分からない。原子力の建屋が爆発して吹き飛んだとか、あるいは自衛隊のヘリコプターが海水を投下したとか、消防車が到着して動き始めたなどという外形的事実は報道や発表で分かるものの、果たしてそれがどういう意味や効果を有しているのか、そもそも炉心が溶融しているのかしていないのか、冷却水が注入出来ているのかいないのかなどの肝心の事実がさっぱり分からないのである。そのため、私はついつい、万が一の被害のことを考えて疑心暗鬼に陥った。考えは、悪い方へ悪い方へ、そして大袈裟な方へ大袈裟な方へと向かうのである。その一方、福島県浪江町、飯舘村、双葉町、大熊町、富岡町などの住民の皆さんには避難指示や屋内退避指示が出され、大変なご苦労の始まりとなった。このような場合は、自分で自分の身を守る必要がある。そこで家族に対しては、最悪の場合を想定して行動するようにと伝えていた。

 このとき、同福島第一原子力発電所の現場では、吉田昌郎所長が中心となって、東電の社員や協力企業の失礼ながら名もなき皆さんが、身の危険を顧みず、不眠不休で献身的に対応に当たっていた。官邸、経済産業省、原子力安全・保安院、自衛隊、警察、消防、東京電力の本部も同様にそれぞれの立場で一生懸命に対処していた。しかし、何と言っても吉田昌郎所長以下の現場の人たちの頑張りがなければ、東京を含めて東日本一帯が強い放射性物質で汚染されていただろうと思うのである。しかし、それを物語る資料が、この事故以来3年経っても、どこにも見当たらなかったので、それを知るすべが全くなかった。ところが、ようやく2014年5月になって、その吉田所長が政府事故調に対して答えた「聴取結果書」を朝日新聞が入手したという。そして、同新聞の電子版に順次掲載されていったのである。その真偽については議論があるようだが、それに関しては私には何の判断材料もないことから、ここでは触れないこととする。それはさておき、これは実に微に入り細をうがった機微なところまで描かれているので、これを誤報とするには、誠に惜しい気がする。

 したがって以下では、この「吉田調書」なるものがとりあえず真実を表しているとして、私の日記と対比しながら、「あのときは実際には現場ではこういうことだったのか、いやいや、そんなこととは知らなかった。もし、知っていればあんなメールを家族に打たなかったのに」などと、反省するところが多いし、それは無意味ではないと思い直している。なぜなら、あのような未曽有の事態に当たって、自己の知識や経験から絞り出した推理に基づいて、合理的な行動をとろうとするのは当然のことだからである。私はとりわけ、限られた報道や政府発表などから、その当時の事故の様子について自分なりに想像をたくましくして家族とあれこれメールを交換している。こうした極限状態における私の想像や現状分析が正しかったかどうか、「吉田調書」の内容と対比したいのである。いわば私の推理と判断に対する「答え」を知りたいし、それは結局のところ、私自身の分析能力と判断能力を磨くことにもなるからである。なお、朝日新聞で報道されたこの「吉田調書」は、かなりジャーナリスティックに書かれているし、また困ったことに時系列の通りにはなっていないので、その章立ての通りに書くと、かえって分かりにくい上、私のその当時の危惧や不安感や次の展開への推理が伝わらない。だから以下では、「吉田調書」を単純に時系列の通りに並べ直して、その当時の私の考えや家族とのメールのやりとりを比較してみることにしたい。


1-1-10.jpg



3月11日(金曜日)

【私の状況】 三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の巨大地震が起き、東京でもマグニチュード5だった。私のオフィスでは、書棚が倒れてきたが、幸い誰も怪我をしなかった。それにしても家族のことが気になる。

【私から家族あて】 ひどい地震だった。 皆さん、大丈夫ですか?

【家内から】 ただいまの状況、ちょうど外出中です。交通機関が全てストップしているから、日本橋の高島屋1階フロアで、足止めされています。しかし、ここはそれなりに快適で、先ほどは、店員さんからお茶と飴玉の差し入れがあった。椅子も提供されている。余震はまだ続いているが、そろそろ周囲の人達は、それなりに落ち着きを取り戻してきたようです。私も、タクシーがあれば、何とか家に帰れるかなと思案中ですが、みんな同じことを考えるもので、激戦。だから、閉店までいるかも。とりあえず、困ったことはなく、トイレはたくさんあって綺麗だし、明るいし、暖かいです。

【息子から】 父さん、こちらは、無事です。地震発生直後に、家族みんなの携帯宛にメールしたけど、肝心なときにまだ届いていないみたいだね。オフィスから見える東京タワーの上部が傾いていて、びっくりしました。

【 娘から 】 無事ですが、病院の入っているビルにそのまま居ます。電車が止まり、帰る手段がタクシーだけですが渋滞しそうだから夜までここで待ちます。最悪泊まるかも。携帯つながらない。地震で揺れてる最中だけ、たまたまシッターさんに電話がつながり、息子は昼寝中でした。帰って顔を見るまで心配です。

【私から家族あて】 ああ、やっとメールがつながった。さきほど、運転手さんに送ってもらって、帰宅しました。お母さんも帰って来ています。家の中は、パソコンなど、位置がずれているものが2〜3あったけれど、大丈夫でした。


【吉田調書】 吉田は地震直後、「GM」すなわちグループマネージャーに安否確認をするよう指示を出し、午後3時ごろには、ユニット所長、発電部長、保全部長らとともに、免震重要棟2階の緊急時対策室に入った。すると、まず、運転中の1号機、2号機、3号機が無事スクラムしたとの報告が上がってきた。スクラムとは、核分裂反応を抑える働きがある制御棒が一斉に核燃料の間に挿入される動作のことだ。大きな揺れを感じると自動的に挿入される仕組みで、これがうまくいったとの知らせだ。核分裂反応はとりあえず収まり、原子炉は核分裂反応が連続して起きる臨界状態から脱する。原子炉は最初の手続きを正常に終えた。一方、発電所への外部からの電源供給が途絶えたらしく、バックアップの非常用ディーゼル発電機が起動したとの報告が入った。後に送電線の鉄塔が地震で倒壊したのが原因とわかるが、その瞬間は、非常用の発電機が動いたのだから外部電源はどこかでいかれたのだろう、というぐらいのことしかわからなかった。続いて、福島第一原発を大津波が襲った。免震重要棟は海岸線から少し離れた丘の上にあるため、吉田はこれも何が起きたのかすぐには状況をつかめなかった。「1号機の非常用ディーゼル発電機が止まり、すべての交流電源が失われた」。「続いて3号機でも」。「今度は2号機です」。情報はぽつりぽつりと舞い込んだ。それらがつなぎ合わされ「ということは発電所全体が津波に襲われたのではないか」と推察された。発電所内のすべての電源が失われることもありうる。吉田は、ここでようやく大変なことになったと気付いた。(第3章第2節)



3月12日(土曜日)

【ニュース】 気象庁によると、11日午後2時46分、三陸沖を震源とする地震が起き、宮城県北部で震度7を観測した。マグニチュード(M)は観測史上過去最大の8.8(暫定値)を記録。同3時15分にもM7.4の余震があり、茨城県南部などで震度6弱を観測した。同庁は北海道から徳島県までの太平洋岸に大津波警報を発令、仙台新港に高さ10メートルの津波が到来したほか、同50分に福島県相馬市で同7.3メートル、同4時52分には茨城県大洗町で同4・2メートルの津波を確認するなど、北海道から沖縄県まで広い範囲に津波が押し寄せた。午後10時現在、確認された死者は69人に上っている。福島県によると、自動停止した福島第1原発2号機の原子炉内の水位が低下。このまま低下し続けると、燃料棒が露出して放射能が漏れる可能性があるとして、国は原子力災害対策特措法に基づき、同原発半径3キロ以内の大熊町と双葉町の住民に避難指示を出した。東北電力女川原発も運転を自動停止した。

【私の状況】 この日の午後、私は内閣法制局へ出勤して、地震と津波関係の緊急の案件を片付け、夜には帰宅した。しかし、まさかその「自動停止した福島第一原発」が、その後、福島県の地域社会はもちろん、日本全体の運命に、あれほどの大問題を引き起こすとは全く知る由もなかった。


3月13日(日曜日)

【私の状況】 この日も出勤して、夜中まで地震と津波関係の緊急案件の処理をしていた。それが終わった真夜中、原子力発電所の建屋が爆発したというテレビ報道を見て大いに驚き、家族あてにメールを送った。

【私から家族へ】 (第1報) 福島県の原子力発電所で、冷却施設が稼働せずに核燃料のメルトダウンが始まったらしい。そこで原子力容器の爆発を防ぐために、放射性物質を含む排気を排出する作業が始まった。しかし、それだけでなく、先ほど、また地震があって、その頃に、原子力発電所の建屋が爆発したようだ。かなり高い放射性物質が放出された模様で、福島県内に避難指示が出ていますが、風向きによっては、東京にも到達するかもしれない。なるべく外に出ないで、換気扇も止めて、今日と明日は、出来るだけ家の中にいてください。やむなく家を出る時は、濡れたマスクを使って放射性物質を肺の中に吸い込まないようにしてください。また、テレビをよく聞いておいてください。 (→ 「濡れたマスクを使って放射性物質を肺の中に吸い込まないよう」なんて、今から思うとあまりの無知さ加減で我ながら赤面するほどである。)

 (第2報) 夜になったこともあり、建屋の爆発で原子炉格納容器まで飛んでしまったかどうかはまだわかりません。ただ、今後の注意点を挙げておきますと、原子炉格納容器が爆発したのなら、既に大量の放射性物質が吹き上げられた可能性があります。具体的には、その放射性物質は、目に見えないほどのチリの形で飛んできます。これを口や鼻から吸い込むと、肺の中に入って一生、放射線を出すので最も危険です。これを避けるためには、さきほどのメールにあるように、外に出ないことですが、やむなく外に出る時には息をするときに、湿ったマスクで鼻と口を覆うことです。また、皮膚に付いたときには洗い流すこともできますが、完全ではないので、なるだけ皮膚を露出させないよう、長袖、帽子、手袋を着用します。なお、この場合は風向きが大事で、この季節は寒いときは西から東、暖かいときは南から北に風が吹くことが多いので、まあ関東地方まで飛んで来る可能性は低いと思いますが、一応、これまで述べたような対策をとっておいてください。

【家内から】 息子は、お父さんのメールをちょうど受け取ったところだったから、状況もよく理解できて、それなら、このまま友人宅に泊めてもらうとのことです。なお、お姉さん(娘)には留守電の形ですが、連絡しました。

【私から家族へ】 実は、爆発の理由や被害の程度についてはまだ何もわかってなくて、ただテレビで外から建屋を見ると、骨組みだけが、残っている状況で、たいへんな被害です。これだけから見るとさきほどのメールのように、原子炉内のものが露出して空中にばら撒かれたという最悪の事態を想定した方が良いでしょう。

【息子から】 お父さん、ありがとう。友人家族とご飯を食べている最中だったので情報を共有しました。助かります。

【私から家族へ】 いま、官房長官が発表しているとおり、充満した水素で原子炉建屋は爆発したものの、それは外壁のコンクリートだけだったようでして、原子炉格納容器まで飛んでしまったわけではないようです。このまま原子炉格納容器の温度が次第に下がっていくなら、大丈夫です。念のため、海水まで注入するといっているから、何とか事態は収まりそうです。


【吉田調書】 東日本大震災発生2日後の2011年3月13日未明、福島第一原発3号機は最初の危機を迎えていた。運転員が午前2時42分に、原子炉への次の注水手段がうまくいくのか十分確認しないまま、それまで炉に水を注ぎ込んでいた高圧注水系と呼ばれるポンプを手動で止めたことで危機は生じた。吉田に知らせず行われた操作だった。注水が止まった3号機は、炉の水位がぐんぐん下がった。午前5時14分、福島第一原発技術班は、午前7時半ごろに核燃料が損傷し始め、午前9時半ごろには炉心溶融するとの1回目の予測を報告した。福島第一原発は原子炉への新たな注水方法を検討した。高圧注水系ポンプの再起動は、必要なバッテリーが調達できず断念した。代わりに吉田が選んだ方策は二つ。炉が高圧でも注入できるホウ酸水注入系のポンプで注水する方法と、原子炉圧力容器についているSR弁という弁を開けて炉を減圧したうえで消防車のポンプで注水する方法だった。ホウ酸水注入系は高圧で水を入れられる切り札的存在だが、ポンプを動かすには480ボルトの交流電源が必要だ。福島第一原発は地震で鉄塔が倒れ、外部からの交流電源が失われている。そのため、福島第一原発にかけつけた電源車が発電した6900ボルトの電気を、被災を免れた4号機の配電装置につないで480ボルトに降圧し、3号機までケーブルで引っ張ってくることにした。一方、消防車を使った減圧注水のほうは、SR弁が開き次第、消防車で海水を入れると、吉田は決めていた。午前5時42分、消火栓につながるタンクがすべて空だとの報告があり、淡水は足りないと考え、決断した。(第2章第1節)



3月14日(月曜日)

【吉田調書】 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日未明、福島第一原発3号機は、13日朝に続き、危機に見舞われていた。原子炉に入れる水の水源が枯れそうになっていることに気付くのが遅れ、1号機ともども、炉の冷却ができない事態となった。この頃、福島の現場では、1号機と3号機の原子炉に海水を注入していたが、この時点では目の前に無尽蔵にある太平洋の水を入れているわけではなかった。3号機の海側にある逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみが津波をかぶり、たまたま海水がたまったので、消防車のポンプでくみ上げて使っていた。そのピットの海水がほとんどなくなり、原子炉に注ぎ込めなくなってしまったのだ。注水が止まった3号機では、原子炉の水位が見る見るうちに低下した。核燃料は完全に水からむき出しの状態になり、自ら発する高熱で、前日に続き、損傷し始めた。出てくるガンマ線の量から、午前4時20分には核燃料の25%がすでに損傷していると評価された。原子炉格納容器の圧力も急激に上昇し始めた。放っておくと壊れた核燃料から発生した水素が格納容器から漏れ出て1号機のように爆発し、原子炉建屋を吹き飛ばしてしまう。格納容器自体が圧力の高まりで壊れる可能性もある。そのため福島第一原発ではまず、格納容器の気体を圧力抑制室経由で抜く、ウエットベントを試みた。格納容器の中の気体を抜くベントには2種類のやり方がある。下部の圧力抑制室から抜くウエットベントと、上部のドライウェルから抜くドライベントだ。ウエットベントは、気体を圧力抑制室のプールの水にブクブクとくぐらせたうえで外に放つので、水に溶けやすい放射性ヨウ素は99%取り除くことができるとされている。しかし、ウエットベントは効かず、格納容器の圧力は逆に上がってしまった。仕方なく、放射性ヨウ素を大量に出してしまうドライベントの準備を始めた。午前6時23分ごろの話だ。東電本店保安班はこれを受け、自社の装置でドライベントをやると放射性ヨウ素がどれくらい拡散するか予測を始めた。文部科学省が結果を公表せず問題になった放射能拡散予測装置スピーディに似た装置だ。結果は、原発の北方20kmの地点、福島県相馬郡あたりが、3時間で250ミリシーベルトになるというものだった。このように人為的に放射性物質をまき散らすこともあり得る状況になってきた。(第2章第2節)


【娘から】 休暇を取って、親子三人で取り敢えず静岡の親類宅に向かおうとしていますが、先方に電話がつながらない。

【私から娘へ】 朝にお母さんが静岡に電話して受け入れをお願いしました。先方も、もうそのつもりでいるから、大丈夫です。また、お母さんも、孫の面倒を見がてらご一緒しようと、いま、新幹線に乗るために東京駅に向かっている頃です。

【娘から】 我々も駅に向かっています。新幹線に乗れるかどうか分かりませんが、取り敢えずいきます。

【息子から】 こちら、ビルに入っているトンカツ屋の弁当でした。お姉ちゃん一家とお母さんは大丈夫そうかな?

【私から息子へ】 お姉さん一家は、静岡に着きました。お母さんはというと、いま東京駅で切符を買っているみたいで、携帯に電話したら、ひどく混んでいるようです。


【吉田調書】 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午前11時01分、福島第一原発の3号機が爆発した。分厚いコンクリート製の建屋を真上に高々と吹き飛ばしたところを無人テレビカメラに捉えられ、ただちに放映された、あの爆発だ。・・・3月12日午後の1号機の爆発に続き、日本史上2度目の原発の爆発も、ここ福島第一原発で起きてしまった。外で作業にあたっていた人が怪我をした。当時、原子炉への注水は、3号機の海側にある逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を、消防車で汲み上げておこなっていた。その屋外作業に大勢がかかわっていた。また、自衛隊がちょうど給水車で原子炉に入れる水を補給しにきていた。作業をしていた6人は被曝し、何人かは怪我もした。福島第一原発では所長の吉田昌郎以下、所員の落ち込みようは激しかった。吉田はサイト、すなわち発電所のみんなの声を代弁し、午後0時41分、テレビ会議システムを使って、声を詰まらせて東電本店に次のように訴えた。「こんな時になんなんだけども、やっぱり、この……、この二つ爆発があってですね、非常にサイトもこう、かなりショックっていうか、まあ、いろんな状態あってですね」社長の清水正孝の答えは、次のようなものだった。「あの、職員のみなさま、大変、大変な思いで対応していただいていると思います。それで、確かに要員の問題があるんで、継続につき検討してますが、可能な範囲で対処方針、対処しますので、なんとか、今しばらくはちょっと頑張っていただく」東電本店はヒトだけでなくモノの面でも福島第一原発を孤立させていた。・・・福島第一原発では、いまや原子炉の冷却の主軸である消防車のポンプを回すための軽油も、中央制御室の計器を動かすのに必要な電気を発電するためのガソリンも、ベントなどの弁を開けるのに必要なバッテリーも足りなかった。所員はこれらの必要物資を、10km離れた福島第二原発、20km南のスポーツ施設Jヴィレッジ、場合によっては50km南の福島県いわき市の小名浜コールセンターまで取りに行っていた。東電本店は福島第一原発まで運ぶよう運送業者に委託するのだが、3月12日に1号機が爆発し、避難指示の区域が拡大してくると、トラックがその手前までしか運んでくれなくなったのだ。トラック業者だけでない。福島第一原発は、同じ東電の福島第二原発からガソリン入りのドラム缶をもらうときも、中間地点にあるコンビニエンスストア、通称「三角屋のローソン」や、ホームセンター「ダイユーエイト」の駐車場にそれぞれが運搬車で乗り付けて、引き渡してもらっていた。福島第二原発としては、福島第一原発に直接行ってしまうと、運搬車が放射性物質に汚染され、除染しないと乗って帰れなくなるからだった。注水の作業なんかは・・・「南明さんとかですね。ほとんど会社としては退避されたような形で、個人的に手伝ってといったらおかしいんですけれども、そういうことは聞いております」 がれき撤去のため「間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです。・・・6号への道が途中で陥没したりしていたんです。その修理だとか、インフラの整備を最初に嫌がらずに来てくれたのは間組です。なぜ間組に代わったかというのは知らない。結果として間組がやっているという状況だったので、たぶんいろいろお話をして、一番やろうという話をしてくださったんだと思います」・・・交流電源を失った福島第一原発1〜3号機では、用意していた緊急炉心冷却システムがどれも動かず、消防車とホースを使って原子炉に水を入れ、核燃料を冷やしていた。3月14日午前の段階では、水源は3号機のすぐ海側の逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみの水だった。消防車がその水を吸い上げ、ホースを使って1号機と3号機の送水口から原子炉に注入していた。午前11時30分からは、3号機への注水量を絞り、1号機への注水量を増やすという現場作業を予定していた。それが、午前11時1分に起きた3号機の爆発で、できなくなってしまった。現場から逃げるときにホースが破れているのを見たという作業員がいる、との報告も入った。(第1章第3節)

【吉田調書】 「どういう情報が入ってきたというよりも、1号機のときと同じく、結局、爆発しているわけですから、注水ラインだとか、いろんなラインが死んでしまっている可能性が高いわけですね。1号機の注水、3号機の注水を実施していますし、それが止まっていると。それ以外のいろんな機器も壊れている可能性が高いわけですから、一通り確認して死亡者がいなかったことと、傷病者についてはJヴィレッジに送って手当てしてもらうということをした上で、そのときにみんなぼうぜんとしているのと、思考停止状態みたいになっているわけです」「そこで、全員集めて、こんな状態で作業を再開してこんな状態になって、私の判断が悪かった、申し訳ないという話をして、ただ、現時点で注水が今、止まっているだろうし、2号機の注水の準備をしないといけない、放っておくともっとひどい状態になる。もう一度現場に行って、ただ、現場はたぶん、がれきの山になっているはずだから、がれきの撤去と、がれきで線量が非常に高い。そこら辺も含めて、放射線をしっかり測って、がれきの撤去、必要最小限の注水のためのホースの取り換えだとか、注水の準備に即応してくれと頭を下げて頼んだんです」「そうしたら、本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです。勝手に行っても良くないと逆に抑えて、この班とこの班は何をやってくれ、土建屋はバックホーでがれきを片付けることをやってくれというのを決めて、段取りして出ていって、そのときですよ、ほとんどの人間は過剰被曝に近い被曝をして、ホースを取り替えたりとかですね」「やっとそれで間に合って、海水注入が16時30分に再開できたんですけれども、この陰には、線量の高いがれきを片付けたり、かなりの人間が現場に出ています。11時1分〜12時30分は何も書いていないのが腹立たしいし、この前に私がちゃんと退避をかけたのも書いていない。どういう時系列なのか、よくわからない」(第3章第1節)

【吉田調書】 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後6時。福島第一原発2号機は、重大な危機にさらされていた。1号機、3号機でも手こずった原子炉格納容器のベントが、2号機では本当にどうやってもできなかった。原子炉の中心部である圧力容器の水蒸気を逃がす「SR弁」を人為的に開けて、圧力が下がったところで消防車で注水し原子炉を冷やす試みも、なかなかうまくいかなかった。「・・・完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」「これで2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」(第1章第2節)


【今から振り返ると】 この3月14日が事故対応の最大の山場だったことがわかる。交流電源による冷却が止まるとただちに原子炉の冷却水が蒸発していって核燃料が露出していくというのは頭では分かっていたが、それにしても水がこんなに早く1日足らずでなくなって、しかも引き続いてあれほど激しい水素爆発が起こるとは知らなかった。何しろ原子炉は、正しく物理の法則に従って夜も昼も休息も食事の類もなしに突っ走る。それに対して人間は、1日24時間をワンサイクルとして生活するし、休息と食事は必要不可欠である。しかも問題の原子炉は4つもあるのだから、これを制御して暴走を止めるのは、極めて困難としか言いようがない。それを東電の社員、協力企業の南明興産などやゼネコンの間組などの人たちが、飛んでくる高線量の瓦礫をものともせず、自主的にその役目を果たしてくれた。こういう人たちには、これまでスポットライトが当たったことはないが、真の隠れたヒーローだと心から思う。なお、注水作業をした自衛隊、警察、そして東京消防庁の皆さんも、放射能という未経験の大きな恐怖の中、よく作業をしていただいてその任務を遂行し、国民の士気を高めた。それはそれで立派なことであり、大いに評価したい。しかし、吉田調書による評価は、東電本社からのものを含めて「実質的な、効果的なレスキューが何もない」と感じるほど、つらくて孤独で困難な作業であったことがよくわかる。まあ、それもそうだと思わないわけでもない。そもそも原子炉の何かも、むろんその設備の詳細も全く知らない素人集団が、このような一刻を争う非常事態に臨んで、うまく対応できるはずもないのである。その点、吉田所長は、交流電源をすべて失った福島第一原発で、原子炉を緊急に冷やすポンプがすべて使えない状態になっていたことから、その代わりに思いついたのは、消防車を使って外から原子炉に注水する方法だった。かくしてこの世界初の試みがうまくいって、危機一髪でこの絶体絶命のピンチを切り抜けた。それにしても、吉田調書を読んで思うのだが、原子炉は物理の法則に従って時と場所を構わずに秒単位で暴走する。これに対して我々がテレビや新聞でその情報を耳にするのは、1日遅れである。私は家族に、「まだ時間がある」とか、「すぐに放射性物質は飛んで来ない」などとメールを送っているが、報道までのタイム・ラグというものを全然考慮に入れていなかった。我ながらその点は、大きな反省材料である。それにつけても、福島の事故対策に当たっておられた現場の所長が「死んだと思った」というくらいの極限状況の中にいるというのに、東京で勤めている息子はトンカツ屋の弁当の話をするなど、全くのんびりしている。かくして、状況を知らされていないというのは、恐ろしいことではある。しかしその反面、そうした非常事態の時にこのように現場の所長が呆然自失するほど絶望的な状況だという情報が知らされていたならば、それこそ首都圏に住む3000万人の住民が争って脱出を図るなどの大混乱をもたらしかねないことも事実である。公表と報道というものがいかに難しいかが良くわかった。


3月15日(火曜日)

【ニュース1】 東京電力福島第1原発2号機(福島県大熊町)について、同社は14日午後7時45分、冷却水が大幅に減少し、約4メートルある燃料棒がすべて露出したと福島県に通報した。原子炉は2時間余にわたって「空だき」状態になったとみられる。その後、原子炉内に海水が注水されたが、午後11時ごろに水位が急落、再び核燃料棒が露出した状態になった。核燃料の一部が溶ける炉心溶融が起きた可能性が高いという。経済産業省原子力安全・保安院や東電によると、同原発2号機は同日午後、隔離時冷却系と呼ばれる原子炉の冷却系統が機能しなくなった。冷却水は午前9時の時点で、核燃料棒の上部から3.9メートル上まであったが、徐々に減少。同社は同日夕から、ポンプで海水をくみ上げ、炉内に注入する作業を始めた。しかし、途中でポンプの燃料が切れて動作が止まり、水位はさらに低下。午後6時半ごろには、燃料棒がすべて水面から露出する事態に至った。担当作業員は他の号機のポンプの監視も兼務していたため、再起動に時間がかかったが、同社の武藤栄副社長は「現場はぎりぎりのところでやっている」と述べ、人為ミスの可能性を否定した。東電は午後8時すぎ、ポンプの燃料を入れ直し海水の注入を再開。午後9時34分の時点で、燃料棒の下半分まで水位を回復させた。しかし、午後11時ごろ、原子炉容器の弁が閉まり、内部の圧力が高まったため注水ができなくなった。このため、水位が下がり、再び燃料棒がすべて露出した。15日午前0時すぎには、圧力を下げるため外側の格納容器の弁を開放した。(2011/03/15-02:27)/ 午前1時には、弁は開けられたが、午前3時になっても、燃料棒はまだ露出していて、水位は戻っていない。なお、外部には、放射性物質は漏れていない。

【ニュース2】 東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発2号機(福島県大熊町)で15日午前6時14分、爆発音があった。東電によると、原子炉格納容器の一部の圧力抑制室(サプレッションプール)が損傷したとみられる。今回の震災で、放射能を封じ込める格納容器の一部損傷が明らかになったのは初めて。菅直人首相は記者会見し「今後さらなる放射性物質漏えいの危険が高まっている」と述べ、既に避難を指示した周辺20キロ範囲の住民に加え、20〜30キロの住民に屋内退避を呼び掛けた。枝野幸男官房長官は3号機付近で毎時400ミリシーベルト(1ミリシーベルトは1000マイクロシーベルト)の非常に高い放射線量が確認されたとし、「人体に影響を及ぼす可能性のある数値であるのは間違いない」とした。原子力安全・保安院によると、2号機は爆発音後、格納容器内の圧力が保たれており、格納容器が大きく壊れたとは考えられないという。同原発の正門付近の放射線量は午前8時31分、1時間当たり8217マイクロシーベルトを記録した。自然界で人が1年間に浴びる放射線量は2400マイクロシーベルト。今回の量はその3倍を1時間に浴びる計算になるが、保安院は「健康に直ちに影響を与える量ではない」としている。正門付近の放射線量は約3分後、2400マイクロシーベルトに下がった。爆発音の後、東電は第1原発の職員について、約50人を残し退避させた。2号機では炉内の圧力を逃がすため、比較的高濃度の放射性物質を含む蒸気を放出。この影響で、福島県内をはじめ茨城、千葉、東京、神奈川など各地で通常値よりも放射線量の上昇がみられた。(2011/03/15-13:46)


【私から家族へ】 2号機の燃料棒が露出し、爆発音があった。4号機に火災。しかも、400ミリシーベルトの放射能が3号機付近で測定された。汚染の程度としてこれは結構、高いそうだ。このままだと、チェルノブイリくらいの酷い原子力事故になるかもしれない。そのときのヨーロッパ中へ拡散した放射能濃度の地図を添付します。要するに、風向き次第だね。

【私から家族へ】 節電だといって、早く帰ってきたのはいいけれど、夕食を食べようといつものトンカツ屋やスパゲティ屋に行っても、どれも休み。たったひとつ、やっていたのは吉野家です。仕方がないからそこに入って、20歳くらいのお兄ちゃんと並んで牛丼を食べてきました。こんな状況では、ますます美味しくない。帰宅してから、どら焼きで口直し。スーパーに行っても食料は買い占められているし、レストランや定食屋もそんな調子だから食べる物もないし水も心配です。そういう面でも、皆さんは西へ避難して正解でしたね。お休み。


【吉田調書】 福島原発事故は、複数の原発が同時にやられるという人類が経験したことがない多重災害だった。最初に、注水が止まっているのを見逃された1号機が大地震発生の翌日の12日午後に水素爆発。続いて3号機が注水に失敗し14日午前に爆発。その影響で2号機が格納容器の圧力を抑えられない事態に陥り、15日に今回の事故で最高濃度の放射性物質を陸上部分にまき散らした。同日は4号機も爆発。核燃料プールの水が抜けることが懸念された。もしそうなっていればさらに多くの放射性物質がまき散らされるところだった。・・・東日本大震災発生から4日目の2011年3月15日午前6時15分ごろ、東京電力福島第一原発の免震重要棟2階にある緊急時対策室。所長の吉田昌郎が指揮をとる円卓に、現場から二つの重大な報告がほぼ同時に上がってきた。 2号機の「サプチャン」すなわち原子炉の格納容器下部・圧力抑制室の圧力がゼロになったという知らせと、爆発音がしたという話だった。・・・爆発は、2号機でなく、無警戒の4号機で起きていたことがわかった。定期検査中で、核燃料が原子炉内でなく燃料プールに入っている4号機の爆発は、原発の仕組みを知る世界の人を驚かせた。・・・2号機もおとなしくしていなかった。午前8時25分、2号機の原子炉建屋から白煙が上がっているのが確認された。45分には湯気が見られた。午前9時45分には原子炉建屋の壁についている開放状態のブローアウトパネルから大量の白い湯気が出ているのが確認された。午前10時51分には原子炉建屋で大量のもやもやが確認され、原子炉建屋の放射線量は150〜300ミリシーベルトと報告された。白いもや、湯気、白煙は、1号機と3号機が爆発する少し前に見られたことから、東電は原子炉格納容器内の気体が漏れ出す兆候として最も警戒していた事象だ。福島第一原発の西側正門付近で測った放射線量の時系列をたどると、爆発音が聞こえた午前6時台は73.2〜583.7マイクロシーベルトだった。それが所員の9割が福島第二原発に行ってしまった午前7時台に234.7〜1390マイクロシーベルトに上昇した。4号機が爆発していたことがわかり、騒然としていた午前8時31分に8217マイクロシーベルト、そして午前9時ちょうど、今回の事故で最高値となる1万1930マイクロシーベルトを観測している。その結果、・・・この日は福島第一原発の北西、福島県浪江町、飯舘村方向に今回の事故で陸上部分としては最高濃度となる放射性物質をまき散らし、多くの避難民を生んだ日となってしまった。(第1章第1節)



【今から振り返ると】 この3月15日は、今回の事故の最も危険な場面で、最大1万1930マイクロシーベルトと観測された放射能汚染を排出している。1号機から3号機までが次々に爆発し、無警戒の4号機までが爆発したから当然の結果とはいえ、福島第一の現場にいる吉田所長たちは、まるで命が縮まるような気持ちを味わったに違いない。私もこの日あたりから、本件震災対応で極めて多忙になった。


3月16日(水曜日)

【ニュース】 (ついに、福島原子力発電所の格納容器が損傷した模様で、放射能が漏れ始めたようだ。)枝野幸男官房長官は16日午前の記者会見で、福島第1原子力発電所から白煙が確認されたことについて、3号機の格納容器の一部から水蒸気が放出されているとみられると語り、格納容器が損傷した可能性に言及した。一方、経済産業省の原子力安全・保安院も同日正午すぎに記者会見を開き、同原発の正門付近で放射線の数値が上昇したため、午前10時40分ごろに作業員を退避させたことを明らかにした。


【私から家族へ】 報道を見る限り、原子炉の現下の事態は深刻だ。いま官邸、保安院、自衛隊、警察、消防、本部と現場の東電社員や協力企業の皆さんなどが一生懸命に押さえようとやっているが、原子炉はあたかも大魔王のごとく物理の法則に従って大暴れしながら突き進んでいるから、対策は後手後手に回っている。放射能が高くなってきたので、そもそも原子炉に人が近づけない。これはちょうど、私が昔見た映画のチャイナ・シンドロームとそっくりです。しかもそういうコントロール不能な原子炉が4機もあるから、始末が悪い。このままでは現下の危険な状況を解決できそうにも思えなくなってきました。最悪の場合、この連休前にも水蒸気爆発を起こして放射能を大々的に撒き散らすのではないかと本気で心配しています。風向き次第だけれど、チェルノブイリの前例からすると、本当に安全なのは、神戸より西、できれば岡山(750キロメートル)以西ですね。実は、お母さんとお姉さんのいる静岡も、まだ危険な区域内です。東日本がこんなことになるなんて、未だに信じられない思いですが、物理の法則に従えば最悪のケースはそうなるでしょう。これを止めるには、文字通りの決死隊を作って全員が死ぬつもりでプラントに行って操作や作業しないといけないが、そんなことができるかどうかです。私と同じことを考えて、明日から東京を脱出する人が増えると思います。しかし、まだ何の発表もないし、あやふやな推測で、更に西へと避難をお勧めするのが良いかどうか、ためらっています。もう少し、様子見をしようとするかな。私のような年配の者は、いくら放射能を浴びてもどうせ先は長くないから、東京脱出は最後の組でも良いけれど、あなた方のような若い皆さんは、出来れば手遅れにならないうちに早く遠くへ避難してほしいと思っています。こんな状況ならば仕事にならないので休みがとれるだろうから、連休の前でもあり、東京にいるより、関西方面へ旅行に行ったらどうですか。


3月17日(木曜日)

【ニュース1】 スイス政府は16日、東日本大震災による福島第1原発事故を踏まえ、東北地方や東京・横浜圏にいるスイス人に安全な地域に移るよう避難勧告を出した。AFP通信によると、民間航空便で出国できない場合、スイス政府はチャーター便を用意する方針。(2011/03/17-06:01)


【家内と娘から】 静岡から、博多に旅行してきます。(家内と娘が孫を連れて博多に向かう新幹線に乗った。そうしたところ、小さい子供連れの母親たちで新幹線の車内が一杯だったとのこと。これらの人は、放射能が心配だといって、西の方に避難しているというのである。また、博多に着いたら、もうあちこちのホテルや宿は関東や東北から避難してきた人たちで、ごった返していたそうだ。とりわけ、中国人や韓国人などの外国人は、もう怯えに怯えていたそうで、ある中国人から面と向かって「原子力発電所があんなことになっているのに、なぜ日本人は、そんなに平静でいられるんだ」と呆れた顔で言われたそうな。)

【私から家族へ】ただいま、福島原子力発電所で、機動隊の放水車が位置についた。午前中の自衛隊による空からの水の投下に続き、今度は地上からの放水です。ただ、余り勢いよく放水したりすると使用済み核燃料が倒れて臨界状態に達し、めちゃくちゃになるので、心配しています。なかなか始まらないなぁ! 自衛隊ヘリコプターによる水投下作戦も、放射能が高いといってやらなくなったし、打つ手がなくなった。このままでは、明日かあさってには、使用済核燃料が水蒸気爆発を起こす可能が高まった。その場合、原子炉の中の汚染度が高い放射性物質が空高く吹き上げられると思う。そして風の具合によっては広範囲に拡散するので、特に連休が終わるまでは、できるだけ室内にいてください。


【ニュース2】 東京電力福島第1原発で事故が発生している最中の2011年3月17日にあった日米首脳会談で、オバマ米大統領は、事故が「破局的事態」になりかねないことに懸念を示す一方、日本政府の対応に「官僚的障害」があることを示唆し、菅直人首相(当時)に改善を求めていたことが日本外務省の記録でわかった。事故の正確な情報が入らないことへの、当時の米政府のいらだちを示したものとみられる。 東日本大震災の発生後、12日未明に日米首脳会談があり、17日は2回目。情報公開法に基づき外務省が朝日新聞記者に開示した記録によれば、17日の会談は米側からの申し入れで、午前10時22分から33分間、電話で行われた。 オバマ氏は、事故対応で支援の用意があることを伝えたうえで、「破局的事態を回避できることを願う」と強い危機感を示した。さらに「外国の援助に対する官僚的障害を撤廃し、支援が実現されることを願う」と、日本政府の対応に不満をにじませた。米政府は当時、使用済み燃料を保管する4号機のプールから水が失われたとみていた。米国のルース駐日大使(当時)は17日未明、福島第一原発の周囲約80キロ圏内の米国人に避難を勧告していた。会談で菅氏は「我々には『撤退』という文字はない。全力を挙げて対処している」と応じた。さらに各原子炉や燃料プールの状況を説明し、会談の直前に「自衛隊のヘリを使用し、(3号機の)プールへの水の投入を実行した」と報告。両国政府の原発担当者が17日未明まで議論し、そのなかで「4号機のプールにまだ水があるという映像も見てもらった」と伝えた。「日米専門家の間では包み隠さず情報共有を行っている」と連携を強調した。



【吉田調書】米国の懸念の中心は福島第一原発4号機の核燃料プールだった。在日米国大使館は2011年3月17日、福島第一原発から50マイル圏内の米国民への避難勧告を出した。50マイルはメートルに換算すると80キロメートルになる。日本政府が出していた避難指示の、距離で4倍、面積にすると16倍に及ぶ。日本の避難指示が不十分だと言わんばかりの勧告だが、根拠がないわけではなかった。米原子力規制委員会のグレゴリー・ヤツコ委員長が前日の16日に、プールの水は空だ、と発言していたことだ。4号機の核燃料プールには、新燃料204体と使用済み核燃料1331体が入っていた。うち548体はつい4カ月前まで原子炉内で使われていた。そのため、4号機のプールの核燃料の崩壊熱は、例えば3号機のプールの核燃料より4倍も高かった。プールの核燃料は、原子炉装着中と違って、鋼鉄製の圧力容器および格納容器に守られていない。さらに、外側の原子炉建屋は3月15日に水素爆発で吹き飛んでいるため、冷却が止まって発火し燃え上がると、プルトニウムやウラニウムなど猛毒の放射性物質をそのまま外部環境に放出してしまう。そうなると福島第一原発はもとより、わずか10キロメートルしか離れていない福島第二原発も人が近づけなくなり、2つの原発にある核燃料入りの原子炉と核燃料プールがすべて制御不能になると恐れられた。・・・東日本大震災発生5日後の2011年3月16日午後11時33分。東電本店にある政府・東電の福島原子力発電所事故対策統合本部で、自衛隊のヘリコプターに乗った東電社員がこの日午後5時前に撮影したビデオの上映が始まった。吉田が17日の午前中にと言ったのは16日の夕刻の誤りだった。ビデオは、米国が空っぽだという4号機の核燃料プールに水面が見えた瞬間が映っているということで、急きょ分析することになった。「トラスの溝がちょっと水面に映っているのが見えるんですよ。だからここのところまで満水している」統合本部にいた人間で、 激しく揺れ動く映像を見て、最初に4号機の燃料プールに水は残っていると断言したのは、東電顧問の峰松昭義だった。・・・峰松によると、原子炉の真上の原子炉ウェルという部分に張ってあった水と、原子炉ウェルにつながる「ドライヤー・セパレーター・ピット」と呼ばれる放射線を発する機器を水中で管理するプールの水が、核燃料プールと原子炉ウェルの境にある仕切り板にできたすきまから、核燃料プールに流れ込んだ。仕切り板は核燃料プールの水が満水状態だとその水圧でピタッと押し付けられすきまができることはないが、核燃料の崩壊熱で満水状態でなくなったために押し付ける力が減ったか、爆発の影響で板が少しずれてすきまができたという。原子炉ウェルとドライヤー・セパレーター・ピットの水は合計で1440トン。核燃料プールの1杯分強もある。峰松の言う通りだとすると、アメリカがとことん心配する4号機の核燃料プールの危機は去る。検討の末、4号機の核燃料プールは水が十分残っていると判定された。固唾を飲んで見守っていた首相補佐官の細野豪志は、水面が確認されたとき、統合本部内に「おーっ」との声が上がったのを覚えている。でも、原子炉ウェルは、普段は水が張られない空間だ。どうしてそんなところに水があったのだろう。(エピローグ)



【今から振り返ると】 福島第一原発4号機をめぐるこの奇跡的な水位の元は、1978年の運転開始以来32年間ずっと使われていた原子炉内部のシュラウドと呼ばれる構造物の初の交換工事用に、原子炉ウェルとセパレーターピットに張った1440トンの水である。本来この水は、2011年3月7日つまりこの事故発生の4日前に抜かれることになっていたが、たまたまシュラウドの工事の予定が2週間ほど延びたためにそのまま放置され、それが地震か爆発の影響で仕切板が壊れて核燃料プールに流れ込んだためだという。いずれにせよ、これは元寇のときの神風のようなもので、これにより東日本の広範な地域が放射能汚染にさらされるということがなくなった。


3月18日(金曜日)

【私から家族へ】 今日はまだ大丈夫だから、私のことは心配しなくていいです。アメリカは、日本にいる自国民に、福島原子力発電所から、80キロメートル以上に退避するように勧告している。東京は250キロメートルくらいだし、たとえ爆発があっても風向や風速によっては放射能はすぐには飛んでこないから、発表があってから室内に退避する時間はあると思います。いずれにせよ、昨晩、3号機にはちょっと水が入ったらしいから、今日は大丈夫だと思うので、安心してください。実は私は、昨日、自衛隊も警察も水を入れるのに失敗したときは、もう観念して放射能の広域拡散は時間の問題だと思ったけれど、東電の現場が消防車で少し水を入れたと聞いて、安心したのは事実です。今日、東電が外部電源を原子力発電所に繋ぐ予定で、もしこれが6つ全部の原子炉の冷却装置を動かすことが出来れば問題解決です。しかし、地震でやられたせいで、そのうちのいくつかは動かないと思います。それでも少し動いてくれれば壊れている原子炉に集中出来るので、それだけも助かるから、多少は状況が改善されると思います。


3月19日(土曜日)

【ニュース】 東日本大震災で冷却機能を失い、大量の放射能漏れが懸念される東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)では、東電社員らが19日午前、外部電源をケーブルで1、2号機に接続する作業を行った。東京消防庁のハイパーレスキュー隊は同日未明、3号機の使用済み核燃料プールへ放水。正午ごろから再び放水する見通し。自衛隊は同日早朝、大型ヘリコプターで同原発上空から温度と放射線量を測定した。放水は3日目。大阪市消防局も総務省消防庁の要請を受け、緊急消防援助隊の派遣を検討。同日午前、自衛隊や東京消防庁との調整のための先遣隊として職員6人を福島県に向かわせた。東電と経済産業省原子力安全・保安院は、1、2、3号機の炉心が海水注入作業で比較的安定しているため、冷却水が蒸発している3、4号機の同プールへの放水を優先。損傷した燃料棒からの放射性物質放出を抑えれば、周囲の放射線量が下がり、作業しやすくなるメリットもある。一方、東電は東北電力の送電線からケーブルを各号機に引き込み、本来の冷却装置を動かすことで、プールと炉心を安定して冷やす方針。電源を接続できても各種冷却ポンプが故障している可能性があり、事故対策は正念場を迎えている。(2011/03/19-10:26)


【私から家族へ1】 原発は、昨日の朝までよりはコントロールできそうな様子です。相変わらず相当あぶないけれど、昨晩、午前1時ころに、東京消防庁が、3号機に50トンの水を入れた。これとともに外部電源につなげようとしているので、あと、4〜5日間このままで持ちこたえれば、コントロールできるようになると思います。

【私から家族へ2】 明日の日曜日も、リスクは続くけれど、まだそう早まって決断しなくてよいと思います。今日も放水するようだから、状況は悪化しているわけではなく、原子炉は延命しています。明日も、たぶん大丈夫でしょう。/ レストランもスーパーでも食料が手に入らないので、帰宅してカップ麺を食べました。さほど美味しいものではないね。万が一、福島第1原発が爆発したら、アメリカのスリーマイル島の場合は周囲10キロメートル、ソ連のチェルノブイリの場合は最大700キロメートルだが、福島の場合は格納容器があるから、チェルノブイリほどは飛び散らないといわれていますが、それよりも格納容器から核燃料が出されている4号機が心配だ。


3月20日(日曜日)

【私から家族へ】 やっと、ヒーローが、出てきた。昨晩の東京消防庁レスキュー隊の記者会見はよかったですね。3号機への注水で、自衛隊も警察機動隊も、たった50トンの放水で逃げ出したのに、東京消防庁レスキュー隊は1000トン以上も放水してくれたのだから。隊長は、出発前、奥さんに「福島に行く」とメールしたら、奥さんは、「日本国民の期待に答えてください」と返信してきたそうだ。こういうヒーローが何人か出て来ないと、今回の事故には対応できないですね。何しろ、わずかひとつの原子炉でこんなに苦労しているのに、あと5つも原子炉が残っているのですからね。しかもそれぞれ破壊された程度と事情が異なる。これからの対策は、外部電源を通して冷却装置を動かす必要があります。全部の原子炉にいちおう電源は通したらしいけれど、まだ冷却装置のポンプや配電盤をチェックする必要があるとのこと。これらは、明日になると、目処が立つでしょう。それが何とかなると、まず安全です。しかし、チェルノブイリのときのように、核燃料が高温で溶融して地下水に触れ、水蒸気爆発を起こし、放射性物質を空中に大々的に撒き散らすというような事態が起こる可能性はまだ相当残っているます。ただその場合でも、撒き散らされる放射性物質の拡散地域は、従来思っていたよりはかなり少なそうだと考えられるようになってきました。このまま、様子を見て、連絡します。






(平成26年6月15日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生・邯鄲の夢





悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2014, All rights reserved