今まで、「センチメンタル・ジャーニー」などと聞くと、そんなことは暇な年寄りのやることだと馬鹿にしていたが、自分自身が歳をとっていざやってみると、なかなか良いものである。なぜそのような気になったかというと、私は、父親が全国を股にかけて動く転勤族だったために、子供の頃は、関西から北海道にかけて引越しと転校を繰り返した。だから、故郷といえる地は、もう住んで40年となる東京をおいて他にはないのであるが、それでも中学・高校という多感な年頃を名古屋で過ごしたことから、人に出身地を聞かれれば、愛知県名古屋市と答えることにしている。 その名古屋の地で、ごく近所に住んでいて毎朝一緒に中学校に通い、共に難関の高校入試を突破して同じ進学校に通って同一クラスとなった友がいる。別に図った訳ではないが、気が付いてみると大学も一緒で、そして東京での勤め先まで交差点のはす向かいにあるという有り様。これはまた、お互いよほど縁があるなあということで、お人柄もほのぼのとしているということもあり、人生の節目節目で親しくお付き合いをさせていただいている。 彼は私と同様に東京圏でマンションを購入し、長年そこに住んでいたが、定年近くになって退職したと思ったら、故郷の名古屋で私立大学の学長さんになって、いわば里帰りの形で帰っていった。折にふれて元気にしているかなあと思っていたところ、たまたま今回、大事な用で名古屋に帰る機会があった。そこで、入試で多忙な時期だろうけれど、会えないかなと思いながら連絡をとった。すると、「その日は大丈夫、通った中学校や高校のルートを辿る二人だけの同窓会をやろう」というありがたい返事をもらったのである。 泊まったホテルは名古屋ヒルトンで、名古屋駅から地下鉄東山線で一つ目の伏見駅にある。構造やら装幀、設備、アーケードなどは、当たり前だが新宿ヒルトンによく似ている。当日朝10時に車で迎えに来てくれるというのでホテルの玄関で待っていると、来た来た。まあ何ともはや・・・可愛いらしいというほかないライトスカイブルー色の新型プリウスでやって来た。「やあ、しばらく」という簡単な挨拶をして乗り込んだ。 最初に城山中学校の通学路に行こうということになり、千種区に向かう。そして通学の途中でよく出会った坂の下の椙山女学園前に行き、車を停めた。そこは、道の真ん中の中州のようなところで、松の木に囲まれて石碑があり、銅板に長文の漢文が書かれている。我々が中学生の悪童だった頃はそんなものに見向きもしなかったが、それから半世紀も経ち、読んでみる気になった。すると、石碑には創立50周年記念と書いてあり、その後ろの銅板は紀元2,600年に関係するものだった。 はあ、そうだったのかと言いながら城山中学校に向かって歩き出した。両側の家々はそのほとんどが建て替えられているが、それでも道の佇まいは昔とそっくり同じで、懐かしい。脇道から今にも同級生が飛び出して来そうだ。歩きながら、「Aくんはどうしてる?」、「ああ、彼は元気だよ。全く変わりがない。それから、元々、家が豆腐屋だったBくんは、後を継いでまだ豆腐屋をやっているよ」などとたわいのない話をしていたら、彼も私も、頭の毛は薄くなったり後退しているとはいえ、心と記憶は半世紀の時を飛び越えて、一気に中学生に戻ってしまった。それからというもの、自分でも驚くくらいに昔の記憶が次から次へと甦り、自分の頭のどこにこんな記憶が眠っていたのかと思うほどだ。 私が「ここは坂を下ったところだが、近くに電柱があって、そこには伊勢湾台風浸水位置という赤い線が引いてあったのだけれど、それが中学生だった自分の目の高さだったから驚いた」というと、彼は、「それは知らなかったが、あの台風は酷かった。近くの家では屋根が全部飛ばされていたよ。自分の家でもトタン部分が飛んでしまった。それでも翌朝、母から学校に行きなさいと言われて仕方なくランドセル背負って外に出てみたら、もう辺り一面が水浸しでいろんな物が転がっている。近所のおばさんから、『こんなときは学校は休みだよ』といわれたりした」。「へえー、それは厳しいお母さんだったね。でも、あのときは一晩で6,000人近くが犠牲になったから、今から思うと阪神大震災並みの大災害だったんだよね。」 細い通りから大通りに出るところの道角に来た。「確かここに、剣道部のYくんの和風の家があったはずだね。玄関の格子戸が風情があって良かった。10年くらい前にはまだあって、Yくんの表札が掛かっていたけど、まだあるかね」と言いながら見てみると、その家は既になくなっていて、とある会社の無機質なコンクリートの建物に変わっていた。彼の家は母子家庭だったが、そんなことを振り切るように一心不乱に剣道に打ち込んでいた彼の姿が、まざまざと目に浮かんできた。 ここでも、正門から入れてもらったが、校舎に入ってすぐ左手にたくさんの優勝旗などが飾ってある。よく見るとどこか見覚えがある。覗き込んで眼をこらすと、その大半は一中時代のものだ。ということは、私たちの時代にもこれがそのまま飾ってあったのかと気がついたら、何だか愉快になってきた。校舎のあちこちに美術作品が飾ってあったのは、美術部の作品だろうか。そうそう、我々の同級生Oくんがこの母校旭丘高校の校長になって、大いに活躍したそうな。結構なことだ。
本日は実に良き友と、有意義な一日を過ごしたものだ。それにしても、彼のように、中学高校大学と一緒の友達とは、何を話してもお互いに通じる共通の話題があるから、ただそれだけで嬉しくなる。人生で持つべきものは、良き伴侶と良き友である。
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