1.沖縄への旅
このお正月、2日から5日まで、娘一家を含む家族で、沖縄旅行に行ってきた。もちろん、5歳になったばかりの初孫ちゃんも一緒である。人数が多いのでそれだけ賑やかな旅であった。振り返ってみると、この娘が2〜3歳の頃、やはり家族3人で同じように沖縄に旅行したので、それから30年ほど経って、その娘の子を連れて、またこうして同じ地へと旅行が出来るとは思わなかった。その頃の沖縄は本土へ復帰直後で、こういっては申し訳ないが、目抜き通りである国際通りの建物は貧弱で、米軍人やその車両ばかりが目立ち、道行く人たちからは決して豊かな感じは受けなかった。観光地といっても、首里城は沖縄戦で粉々に破壊されて、守禮之門しか残っていなかったし、玉泉洞も文字通り地の底にある荒れ果てた感じだったことを覚えている。南部の戦跡も、ひめゆりの塔をはじめとして、涙なしには巡ることが出来なかった。
それに比べて今回は、沖縄の復興と発展が目に見えてわかり、往時のことを振り返れば隔世の感があって、とても嬉しい思いがした。モノレールの「ゆいレール」から始まり、本島中部に行くまでの高速道路は良く整備され、途中に見かける家々もなかなか立派で、自家用車もかなりの数が走っている。30数年前の記憶は、もう過去の遺物となったかのごとくである。もちろん、今でも基地の負担は重く、沖縄の皆さんの背負う負担には大変なものがあるが、少なくとも外見からすれば、復帰直後と比べれば、生活水準、社会資本の整備その他の点で雲泥の差があるといってもよいであろう。
今回の旅行は、11月の下旬になって急に思い付き、JTBに駆け込んで宿を探したが、もうその時点では有名な所のほとんどは、予約で完全に埋まっていて、ほんの2〜3のホテルしか空いていなかった。美ら海水族館に行きたかったので本島中部に泊まろうとしたら、その付近のホテルはたったひとつしかないという状況であった。ではまあ、残り物に福があるかもしれないと期待して、その残波岬にあるホテルにした。後から沖縄出身の友人に聞くと、そこは一流ホテルとは言い難いということだが、やんちゃ盛りの5歳の男の子を受け入れてもらったのだから、それだけで良しとしよう。
飛行機の出発は午前のゆっくりした時間で、JALだった。わずか2時間半の空の旅で、申込が遅かったから座席をまとめて確保することが出来ずに、2組に分かれて離れて座った。初孫ちゃんは親と一緒だったのに、私たちのところに来てしまい、膝の上で何だかんだとおしゃべりをする。幸い、ベルト着用のサインは出なかったから良かったものの、もし出ていたら大変困ったことだろう。途中、エア・アテンダントから飛行機の模型をもらった初孫ちゃん、とても嬉しがる。これまで、この子の世界は新幹線などの鉄道だけだったが、これに飛行機が加わったようで、親にこんな質問をしたらしい。曰く「飛行機って、羽根が動かないのにどうやって飛ぶの?」これに困った親が、「おじいさんに、聞いておいて、何でも知っているから」と追い出したらしい。
確かに、こういう機構を分かり易く説明するのは、なかなか難しい。そこで、絵を描いて「ほら、翼の両脇に、ジェット・エンジンというものが付いているでしょう。これは空気を吸い込んで、燃料を燃やして勢いよく吹き出して、その力で飛んでいくんだよ。でも、そのままだと、まっすぐ飛んで行ってしまって、地面の上は凸凹だから何かにぶつかるでしょ。そうならないために翼があり、(その断面図を描きながら)。ほら、上のカーブより下のカーブの方が緩いでしょ。ここに空気が流れるから翼には上向きの力が加わって、それで飛ぶんだよ」と話をした。その場では「ふーん、そっか」という答えだったが、翼とか、ジェット・エンジンという単語は頭に残ったようで、後から会話の中で使っていた。こういう風に、子ともが興味を持った時に真面目な回答をしていけば、何か少しでも記憶の片隅に残り、それが何十年後にまた頭の中から甦って使える知識になるものと思って気長に付き合うしかないと考えている。
那覇空港に着いた。初孫ちゃんがお腹を空かしているようなので、沖縄らしい食事をしようとしたが、あまりレストランの選択肢がないようだ。そこで、手荷物受取所近くにあった一番手近な店に入り、沖縄そば定食なるものを注文した。トッピングには、チャーシューではなくて、豚の三枚肉が出てきた。敢えていうと、客家料理の「東坡肉(トーロンポウ)」に似ている、もっとも、あれほどしょっぱくなくて、あっさり目の味付けである。麺はというと、これは蕎麦ではなくて、黄色い中華麺そのものである。小麦だというから、間違いない。全員で、おいしく食べた。初孫ちゃんは、例のとおり豚の三枚肉と麺だけ食べて後は適当に逃げようとするから、無理やり野菜を食べさせた。最近の初孫ちゃんは、弁が立つようになったから困る。こういうのも、交渉事になってしまうからである。
たとえば、レタスが何枚か小さく切られていて、「それを自分で食べなさい」というと、「だってぇ」と渋る。そこで、一番大きいかけらを箸で取って口元に持っていき、「これを食べなさい」というと、首を左右に振る。「では、こちらにするか?」といってやや小さいかけらを指さすと「うんうん」と頷く。そして気が変わらないうちに、それを口に押し込む。実は最初の大きいかけらは単なるフェイントで、本命は食べさせた方だった。これがバーゲニング方式だとすると、そのほか、ゲーム感覚でリズムよく次々に食べさせるという手も、なかなか有効である。
それやこれや、あの手この手のテクニックを駆使して、ひと口ずつ押し込み、一番最後に、最初のフェイントのダシに使った大きなかけらを2等分してそれらも口へと押し込み、やっとサラダ皿を完了した。この子の親はいずれも理科系で、こういう弁の立つ子に弁で対抗するという高等(口頭)テクニックを特に持ち合わせているわけではないから、こうした場合には、あまり役に立たない。そればかりか、「早く食べろ」というばかりなので、子供はそっぽを向く。取扱いの難しい年頃なのである。
那覇空港から送迎バスに乗って、赤嶺のトヨタレンタカーに行った。実に手際よくさばいてくれていて、セダンを一台借りて、出発した。私も運転しようかと免許証を持って行ったが、娘が「お父さんは20年ぶり、私は10年ぶりだから、私が運転する」というものだから、お任せして後部座席に体を沈めた。ところが、この10年間で車は色々と進歩している。「トランクが開かない」から始まって「エンジンはどうやってかけるの」、「サイドブレーキが解除できない」など、難問が続出。トランクを開けるバーは昔通り、運転手席の右脇にあったが、その前にボンネットを開けたり、給油口を開けたり、いろいろとやってくれた末に発見した。エンジンは、鍵を車内に置いて、ブレーキを踏み、それでボタンを押して始動できた。これは、レンタカー会社の人に教わった。さあ発進という段になって、サイドブレーキのバーがない。いや確かに、シフト・レバーの脇にはないな・・・。窓を開けて、レンタカー会社の人を再度呼んでみたら「一番左の小さなペダルがそうですよ」とのこと。そういうことで、出発前から運転者の娘は汗だくになっていた。
これにカーナビの操作が加わって、ますますややこしいことになった。しかしこれは、慣れるまで面倒だったが、5分ほど触ってみていったん操作方法がわかると、実に便利だった。施設名、電話番号、住所などで目的地を検索して、その通りに運転していけばよい。「あと150メートルで斜め左です」などといわれてその通り運転するだけだ。「あと600メートル先に渋滞が発生しています。通過に5分かかります」などと言われる。これも良いのだけれど、いつもどこでも「通過に5分」と言われては、あまり信ずる気が起こらない。それに、高速道路に乗って行きたいと思っても、一般道路ばかりを行ったりする。もっともこれは、もう少し慣れれば、選択の余地があるのではないかと思う。つまり、道路標識を見て高速道路の方へと運転すればよいだけである。すると、カーナビさんが再度計算してくれる。とまあ、そういうわけで、外国に長期間行き、10年ぶりに帰ってきて、技術の進歩にびっくりしたようなものである。初孫ちゃんもいるから、空港周辺の観光はまた後日にすることとして、とりあえず残波岬へと直行することにし、カーナビさんに案内してもらった。途中、1か所で曲がる所を間違えたが、カーナビさんが再計算をしてくれて、大過なく元の道に戻ることが出来た。途中、それまで日本一、人口が多かった岩手県滝沢「村」が昇格して「市」になったということで、それまで人口2位だった「読谷村」が棚ボタ的に1位となったというその読谷村中心部を通って、目的のホテルに到着した。なお、カーナビだけだと現在地がどこかよくわからないので、これにiPhoneの地図のGPS現在地情報を併せてみるとよい。青い点で現在地を示してくれるし、それを拡大縮小すれば、どこにいるのか一目瞭然である。
ホテルには、お正月の飾りつけがしてあった。設備としてはプールがあり、その周囲にイルミネーションがあり、露天風呂があり、お土産の売店も充実していて、なかなか良かった。肝心の食事は、バイキングにしても、特に中華料理店にしても、我々の口に合うものが出てきて、家族一同、満足した。初孫ちゃんが大浴場に入るのは生まれて初めてで、どうかなと思っていたところ、女湯の方に行って先にママが入っていたら、もう自分で服を脱ぎ始めたそうだ。ただ、やはり風呂の中で走って、2回ほど尻もちをついたそうだ。ただ、頭は打たなかったので大事には至らなかったけれども、これは、あらかじめ注意しておけばよかったと反省した。露天風呂の方は、最初はおそるおそるという感じだったものが、いったん入るとすっかり好きになり、お湯の温度が低いということもあって、入りびたり状態だったとのこと。機嫌よく部屋に帰り、途中、ゲームコーナーで電車の運転手の役をやってますますご機嫌になり、敷いてあった布団に入ると、すぐに寝入ってくれた。私は、ホテルの舞台で午後9時から沖縄民謡や舞踊をやっていると聞いて、ひとり部屋から抜け出して見に行った。この晩は、民謡の方で天宮実来さんという歌い手が、なかなかの美声を聴かせてくれた。沖縄の方言はわからないが、あらかじめ説明してくれたので、理解して聴くことが出来た。
2.美ら海とフルーツランド
翌朝は、沖縄美ら海水族館へと出発した。カーナビさんのおかげで大過なく到着して、あっけないほどだ。ハイビスカスとブーゲンビリアの花が何とも言えず美しい。水族館の中の水槽を見て回る。初孫ちゃんが私にくっついて来ると、左手でその手を引き、時には抱っこをしながら、右手でカメラのシャッターを押すということになり、大変だ。カメラのシャッター速度優先などという操作をしている間もないから、Pモード、つまりプログラム優先の自動撮影モードですべて通した。それでも、魚が結構はっきりと良く写っていたので、意外だった。カメラの性能がそれだけ良いということだろう。水槽内の魚たちをよくよく見ると、東京の水族館の魚のように、せかせかと慌ただしく動くようなことはなく、皆比較的落ち着いてゆったりと泳いでいる。これというのも、近くの海から連れて来られた地元の魚からかもしれない。普通のPモードでもちゃんと撮れていたゆえんであろう。
さて、いよいよ美ら海水族館の一番の売り物の大水槽中のジンベイザメである。近づいてきた。ああ、かなり上をいくなぁと思ったら、それは3匹のジンベイザメ中の一番上を泳ぐもので、3匹が上中下と住み分けて泳いでいるらしい。それを見て初孫ちゃんが呆然としている。「大きいでしょう」というと、「うん」と首を縦に振った。怖かったのかもしれない。そこで、気を落ち着かせるために、大水槽前にあるカフェテリアで食事とアイスクリームを食べた。大水槽を見上げながらよくよく見ていると、マンタもいるし、マグロのような大型魚もいるし、イワシの大群も中心部にいたりして、なかなか見応えがあった。
水族館の建物から出て、海岸に行ってみた。砂浜があり、初孫ちゃんが靴を脱いで喜んで走り回る。水は澄んで綺麗だ。オキちゃん劇場に行って、イルカショーを見ることにした。何しろ初孫ちゃんは、エプソン水族館で、1日3回もイルカショーを見たという強者だから、「ここは、イルカに乗らないの?」とか、なかなか目が肥えている。それにしても、大きなゴンドウイルカがバシャーンと跳ねてはるか上の色つきボールを蹴り、またドッシャーンと水中に戻って行く様は、なかなかの見ものである。
少し、雨模様になってきた。そろそろ美ら海水族館を離れる時間である。他にいろいろと子供の喜びそうな観光施設があるが、室内で遊べそうなところとして、沖縄フルーツランドというものが帰り道にあったので、立ち寄ってみた。すると、パパイヤ、スターフルーツ(上の写真)、バナナ、レモン、カニステルなどの果物が生っていた。このカニステルという果物は、私は初耳だったが、熱帯アメリカの産で、エッグフルーツともいわれ、食感は蒸したカボテャのようなものらしい。そのあと、建物の中で、パイナップルに盛られたフルーツの盛り合わせを食べてみた。なお、シーサー(神社の狛犬のような魔除け)を模したような素焼きの素朴な人形があり、思い思いの自由な格好をしていて、なかなか可愛かった。
ホテルに戻り、その夜は沖縄舞踊を見た。花笠を被った宮廷風舞踊があると思えば、農民風の衣装や、本土の剣劇のような格好とか、なかなかバラエティに富んでいた。初孫ちゃんのためにママが買ってきた半袖のTシャツに印刷された文字が面白い。「ほっとけ 俺の人生だ」、「少々理由(わけ)あり」。特に、家族写真を撮ろうとして全員横に整列している場面で、初孫ちゃんがひとり拗ねて背中を見せるようなとき、これまでは「ほら、前を向きなさい」と皆で説得していたのに、このシャツを来ていると、ひとり背中を向けていても、「少々理由(わけ)あり」という文字が見えて、思わず笑ってしまうということが多かった。
3.首里城と玉泉洞
さて、次の日、どこに行こうかなという話になって、沖縄に来た以上、新装なった首里城と玉泉洞は見て来なければということになり、まず首里城に向けて出発した。なんなく着いて、「昔はこれしかなかった」といいながら守禮之門をくぐり、歓会門を経て、瑞泉門に至った。その脇で国王一族の大切な飲み水である龍樋を見てこの門をくぐり、漏刻門に至って広福門から御庭、そして首里城正殿へと入っていった。色鮮やかな朱色に彩られた世界で、琉球王国の繁栄もかくやと偲ばせるものがある。中の展示物のひとつに、正殿の前の御庭で琉球王朝の百官が並んでいる模型があり、初孫ちゃんが「ああ、こうなっているの!」と声を上げたのが印象的である。
首里城を出て、まず玉泉洞を見ようと南下していくと、「おきなわワールド文化王国玉泉洞」というものになっていた。その玉泉洞だが、全長5000メートルの鍾乳洞で、秋吉台に次ぐ規模だそうだ。そのうち800メートルを歩けるようにしていて、まるで地底探検のごとくである。娘一家の初孫ちゃんたちが前を行っていたが、いつの間にか姿が見えなくなった。家内と、「どうしてるのかねぇ、怖がっているのかもしれない」などと話していたら、初孫ちゃん、別に泣かなかったが、やはりかなり怖かったようで、一刻も早く出て行きたいと、さっさと走るように行ってトンネルを出たという。私は、鍾乳洞そのものは見慣れているが、むしろ出口近くに展示してあったこの中で生きている魚というものに興味が湧いた。テラピアや琉球闘魚など、玉泉堂が出来たという30万年前近くに先祖がこんな場所に閉じ込められ、それからずーっと代々、子孫をつむいで地底の川で生きてきたとは、生命の神秘としかいいようがない。
最後の日の朝になり、飛行機の時間はお昼の12時半だが、レンタカーを返却する手間もあって少し早めに午前8時半に出た。嘉手納基地の脇の道を通って順調に南下し、10時前には那覇空港に着いて搭乗券をもらったのが11時前である。はて、どうするかと思って、空港から出ている「ゆいレール」にちょっと乗ってみることにした。結局、「旭橋駅」まで行って戻って来たのだけれど、東京の新橋から出ている「ゆりかもめ」をやや小ぶりにしたもので、高いところから市内を眺められて、観光客としてはなかなか良かった。ということで、久しぶりにお正月に行った家族旅行であった。
(平成26年1月 5日著)
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