悠々人生のエッセイ








飯能まつり( 写 真 )は、こちらから。


飯能まつりの白狐


 11月3日は文化の日なので各地で催しがあり、東京の浅草では東京時代祭りが行われている。これは、浅草寺の創建から始まって歴史の年代に沿い、平安、鎌倉、江戸、幕末、文明開化の時代を経て東京となった現代までを再現している。文字通り壮大な歴史絵巻というわけであるが、もちろん本物ではなくて、まあお芝居の類だ。たくさんの関係者が一所懸命にお金と時間をかけて開催に努力をされているのはわかるのだが、いわゆる観光色が強くて、3年続けて見に行くと、申し訳ないが、いささか飽きが来てしまう。では何かほかに興味を引かれる催しはないかと思ってインターネットで検索しているうちに、埼玉県飯能市で飯能まつりというものが開催されることを知った。今年で43回だそうだ。八王子祭りのように、各町内から山車が出るようだが、花火を景気よく打ち上げてその下を山車が躍動する秩父祭りほどの華やかさはないみたいだ。それとも、川越祭りくらいのものかな・・・いやいや、あそこは小江戸といわれる土蔵造りの街並みこそが売りなのだから・・・いずれにせよ飯能にはそもそも行ったことがないからよくわからないのだが、飯能祭りのポスターを眺めていて、妙なものに気が付いた。それは、まるで鬼のような不細工な赤ら顔をした仮面を付けている演者がいて、何やら不思議な踊りを披露している場面である。頭は毛皮の被り物になっている。そのほかの資料を見ると、山車の上には、ひょっとこ・おかめ・狐・獅子がいて演じているが、それらは普通よく見かけるものだ。それにしても鬼というのは変わったキャラクターだと思い、がぜん見てみたいという気がしてきた。そういうわけで、たまたま晴れ上がった3日に、買ったばかりのカメラ(キヤノンEOS70D)を大事に抱えて、西武池袋線に乗って出かけたのである。

飯能まつり


飯能まつり


 お昼前に飯能駅に着いた。駅前で飯能市観光協会の人から祭りのパンフレットをもらい、それを読んでみると、すべての山車の第一回引き合わせが12時40分から13時の間に、高麗横丁(仲町交差点)であるそうだ。そこで駅前通りをまっすぐ歩き、東町交差点で左に曲がって中央通りをその仲町交差点まで行ってみた。そこにたどり着くまでにはたくさんの屋台が並んでいて、それらをひとつひとつ見て回りながらだったが、意外と早く着いた。繁華街はあまり大きくないようだ。途中、居囃子というらしいが、ちょっとした台の上でお囃子に合わせ、ひょっとこや白狐が演じている。お祭りの気分を盛り上げるには、なかなか良い。また、目指す高麗横丁に向かう山車の何台かにも行き当たり、おかめなどの舞台をじっくりと見させてもらった。

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 高麗横丁には、各町の山車が当番町の原町からはじまって、すべて並んでいた。いただいたパンフレット (1)(2)によると、このうち「原町の山車」は、その屋根に金の八咫烏を抱える神武天皇の人形があるのが目印で、遠くからでもすぐにわかる。この山車は、明治15年(1882年)に建造され、同25年に人形師3代目法橋原舟作のこの神武天皇の人形が乗せられたそうで、歴史は古い。その囃子も小田原囃子若狭流として有名だそうだ。ところで原町の山車が「會所」という建物を通るときに、下の台はそのままで、上の台だけ建物の方向に90度回転する「廻り舞台」を使った。この上下2重構造の廻り舞台を持たない山車は、山車本体そのものを建物の方向に斜めに傾けるしかない。だからこの廻り舞台がある山車は、なかなか便利な上に優越感にひたることが出来そうである。次いで「双柳の山車」は、平成2年に富山県井波で建造された単層向唐破風屋根白木造りの屋台というそうだ。井波は、欄間などの木の彫刻で有名な町だから、龍など随所にその彫刻が見られる。乗演は双柳囃子連保存会(神田囃子大橋流)とのこと。「中山の山車」は、昭和53年(1978年)に単層向唐破風屋根の廻り舞台付きで建造され、乗演は中山囃子連(小田原囃子若狭流)。

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 原町の山車が神武天皇であるのに対し、「二丁目の山車」は、神宮皇后の人形を乗せ、元々は江戸末期の建造の屋台らしい。この二台が並び立つと、非常に豪華絢爛な印象を受ける。二丁目の乗演は通弐親和會(神田囃子大橋流)。「柳原の山車」は、昭和22年に地元の大工が建造し、平成に入って大改修して天女彫刻を施し、廻り舞台などを付けたそうだ。乗演は通弐親和會(神田囃子大橋流)。「一丁目の山車」は、大正9年に単層向唐破風屋根の廻り舞台付きで建造され、舞台が一番広いそうで、乗演は飯能一丁目囃子保存会(神田囃子大橋流)。「前田の山車」は、昭和22年に四重高欄唐破風屋根付囃子台の廻り舞台付きで建造され、盛留には諌鼓鶏があり、乗演は前田囃子保存会(小田原囃子若狭流)。「宮本町の山車」は、大正14年に単層向唐破風平屋根の廻り舞台付きで建造され、確かに繊細で緻密な彫刻が素晴らしい。乗演は宮本町囃子連(小田原囃子若狭流)。「三丁目の山車」は、明治中ごろに取得した八王子型山車を大正4年と平成25年に改修したもの。乗演は三丁目共鳴会(神田囃子大橋流)。「本郷の山車」は、平成19年の単層向唐破風平屋根で、真新しい。前方向かって左に昇降龍の彫刻がある。乗演は本郷囃子保存会(小田原囃子若狭流)。なお、このほか「河原町の山車」があるが、今年は不参加だそうだ。

飯能まつり


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 整列していたこれらの山車は、それぞれの町内お揃いの衣装に身を包んだ皆さんが曳き縄を一斉に曳くと、中心部に向かって一台ずつ動きだした。その先頭には、何人かの女児のお稚児さんが旅支度で歩き出す山車もある。そのお化粧の仕方も、町内ごとに違うのが面白い。また何よりも、舞台で演じるひょっとこ男、おかめ女、獅子、白狐、鯛を釣ってそれを抱える大黒様まで演じられる。ああ、鬼がいた、いた。人形劇まである。私には、これが何とも魅力的に感じた。というのは、まず鬼のお面そのものがどこそこ笑えてくるくらいに滑稽なのである。次に、その仕草がまたユーモラスなのだ。たとえば、両手を両側に並行に上げて、さあ注目してくれといわんばかりの格好をしたと思えば、次に体を低くして斜に構えてまるでいじけているようなポーズをとる。とても、面白い。関東には色々とお祭りがあって同種の演者があるかどうかは知らないか、いずれにせよこの鬼は、お祭り中の白眉ではないかと考える。いやあ、良いものを見物した。

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 ところで、こうして各町内の山車が街の中に散らばったが、また14時から「山車総覧」なるものが行われて、すべての山車が一堂に会するという。ただし、舞台で演じられることはないそうだ。それでも近くに寄って山車そのものをつくづく観察することが出来た。面白かったのは、それが東町交差点で行われ、その交差点の角に並んだのが、神武天皇像を載せる原町の山車と、神功皇后像を戴く二丁目の山車である。その対比が実に絶妙だった。これに加えてもっと面白かったことは、神武天皇の背景の位置にたまたま交差点角のビル2階に描かれた白人女性の大きな顔が来ていたことである。その脇に八咫烏を頭上脇に従える生真面目な神武天皇像が来ると、これまた「ぷっと吹き出したくなるほど」不思議な感覚を醸し出す。ところで、この交差点では、まといと梯子乗りも行われた。特に梯子の上で仰向きになって水平になり、両手両足を放すなど、高度な演技にやんやの喝采が巻き起こった。中央通りの東飯能駅寄りには「おまつり広場」のステージが置かれて、たまたま私が見たときには、和太鼓と、青森の馬っ子のような演技を楽しくやっていた。

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 夕刻以降、各地で「引き合わせ」を行うらしい。これは、辻々で数台の山車が囃子の腕を競い合ういわば対戦型の催しだそうだ。それを楽しみにして、まずは腹ごしらえと思ってとんかつ屋さんに入り、定食を注文してそれを美味しく食べた。外に出るともう暗くなっていた。広小路と飯能駅前交差点を結ぶ銀座通りなるところを歩いていると、ここには露天の屋台は置かれていないようで、元々の商店街を見ることができた。しかしそれが、まあなんというか、なかなかレトロな雰囲気なのである。東京でいえば青梅辺りの商店街のような感じがするが、あそこまでレトロに徹しているわけではないが、大正の雰囲気を味わいたい人には、最適ではないかと思う。私はそこまで年寄りではないが、私が覚えている昭和30年代の商店街を彷彿とさせて、実に懐かしい気がした。

飯能まつり


 しばらくしてとっぷりと日が暮れて、街のあちこちで山車どうしの「引き合わせ」が行われはじめた。さっそくそこに行って、素晴らしい演技の数々を撮ろうとした。白狐が歌舞伎役者みたいにテープを四方八方に投げたり、いやいやこれだけ派手だと嬉しくなる。そうかと思えば、獅子舞、鬼、おかめひょっとこもいずれも素晴らしい。真っ暗になった中でのそうした動き回る舞台風景を、買ったばかりのEOS70Dが手持ち撮影のフラッシュなしで撮れるのものだろうかと思ったが、これが案外、撮れるのである。連続した動きではなくて、歌舞伎のように「決める瞬間」さえ押さえておけば、なかなか良い写真となった。さて、別の場所に移動してもっと撮ろうと思ったとたん、運の悪いことに雨がぱらついて来た。買ったばかりのカメラにはよろしくないと思い、後ろ髪を引かれる思いで帰途に着いたのである。

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 ところで、八王子祭りのときにも書いたが、こうした伝統ある祭りの準備や当日の演技には時間と手間とお金が必要で、とても大変だろうと思う。とりわけ、若い人に技を伝授してそれを連綿と続けていかなければならない。場合によっては、なぜこんな町内に生まれたのかと思う人もいるだろう。しかし、こういう伝統ある役割を担えることは、めったにない幸運のようなもので、たとえば外部の私などは絶対に出来ないことである。そういう意味で、良い町内に生まれてこういう役割を担うことになった皆さんについては、非常に羨ましく思う次第である。「武蔵路の 我が祭の彩になる 伝承の芸は 磨いて 子に渡す」という一句が、二丁目の山車の側面に書かれていた。東京のように、世界の最先端を走りながら激烈な競争をし、その過程で常に新しいものを追い求めてやまない世界も経済成長という点では必要だが、その一方でこういう変わらない伝統的な世界というのも、日本にとって実に貴重なものではないかと思う次第である。




(平成25年11月 3日著)
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