関 連 記 事 | |
1 | 初孫ちゃんの誕生 |
2 | 初孫ちゃんは1歳 |
3 | 初孫ちゃんは1歳4ヶ月 |
4 | 初孫ちゃんは1歳6ヶ月 |
5 | 初孫ちゃんもうすぐ2歳 |
6 | 初孫ちゃんは2歳2ヶ月 |
7 | 初孫ちゃんは3歳4ヶ月 |
8 | 初孫ちゃんは3歳6ヶ月 |
9 | 幼稚園からのお便り(1) |
10 | 初孫ちゃんもうすぐ4歳 |
11 | 幼稚園からのお便り(2) |
12 | 初孫ちゃん育爺奮闘記 |
13 | 初孫ちゃんは4歳3ヶ月 |
14 | 初孫ちゃんは4歳6ヶ月 |
15 | 孫と暮らす日々 |
初孫ちゃんは、4歳6ヵ月となった。3ヵ月ほど前に書いたこのシリーズのエッセイでは、「最近、初孫ちゃんが東京に戻って来て前よりも頻繁に会えるようになった」と述べたが、それからというもの、頻繁どころかしょっちゅう顔を出すし、お泊りもするようになった。そのような機会を通じて私も家内も、初孫ちゃんをじっくり観察した結果、ああ、これは色々と矯正しなければいけない生活習慣が多々あるということに気付くようになった。そこで最近では、初孫ちゃんをお客さん扱いをすることはもう止めようということになって、まるで自分の子供のように「躾け」をすることにしたのである。 というのは、これまでは両親は共に多忙を極めていたことから、子育てはついついベビー・シッターと幼稚園に任せきりであったようだ。すると、子供は両親とはあまり触れ合う時間がないので、両親の前で過ごすその貴重な時間は良い子を演じ、世話する人が両親からベビー・シッターなどに代わった瞬間、スイッチが切り替わって我がまま一杯モードになり、そうするとまるで手が付けられないという状態となっていたようだ。ベビー・シッターも、同じ人がずーっとやっていてくれるのならまだ良いのだけれど、そういう人が見つからずに派遣会社から入れ替わり立ち代わり違う人がやってくるというシステムだ。そのやってくるベビー・シッターの皆さんも、このままではいけないと薄々感じていたとは思うし、しかも皆さんそれなりの有資格者だから何とかしてあげたいという気はあったとしても、そこは両親とは立場が全く違って、子供が悪いことをすればこれを強く叱って躾けをするということは出来ない。それどころか自分の持ち時間だけは無難に過ごしたいという責任回避モードに入ってしまって放置をする。そして、雇い主である両親に対するレポートには、まるきり表面的な良いことだけしか書かない。かくして当然のことながら、我々からすると生活習慣が身に付かずに我がまま一杯に育ったのではないかと思える仕儀となった。加えて一人っ子ときているから、中国でいう「小皇帝」状態だ。まあこの手のことは大なり小なり、ほとんどの共稼ぎ家庭で起こっていることではないだろうか。 実例をあげれば、たとえば、次のようなことである。とある休みの日、初孫ちゃんを一晩預かり、朝起きてきたので朝食を出したら、ご飯や魚を食べただけで、いつまで経っても、おかず(菜っ葉、人参、ゆで卵)に手を付けない。それどころか何だかんだと無駄なおしゃべりをしたり立ち上がったりしてこちらの気を逸らすような行動をとり、全く食が進まない。仕方がないので、食べさせようとしてスプーンに食べ物を入れて持っていくと、両手を口に当てて「ゆきどまりーっ」とやる始末。それを何回となく繰り返して1時間半以上経ってしまった。その日は、息子の家に行く約束があって、その出発時間まであと10分というギリギリの時となった。とうとう堪忍袋の緒が切れて「おしゃべりばかりしないで、早く食べろ」と一喝した。そうしたら、わずか5分で一気に食べた。その気になると出来るのに、なぜこんな態度をとるのだろうと本当に不思議である。甘えているのかなぁとも思うが、そんな風にも思えない。ご飯の時間はきっちり座って集中して食べるという生活習慣が出来ていないのである。 そんな風にして慌てて出かけた息子の家で、家内と私、息子夫婦の4人で楽しく談笑しているときに、初孫ちゃんが「食べているときは、お話しをしないの」と何回もいうので、ムードが悪くなった。まるで先ほどの意趣返しをされているようだ。しかし、ともあれ人前だから、あまり強くは叱らずに、「ここにいる皆は、食べ物をちゃんと食べてからお互いに楽しんでお話ししているので、それはいいの。あなたは、食べないでおしゃべりしてばかりいるから、さっきは怒られたの」といった。でも、どうもまだ、わかっていないみたいだ。 家の外でも中でも、軽く転んだり誰かとぶつかったりという、ちょっとしたことでもすぐに「ウ・ウ・ウェーン」と大袈裟に泣く。そこで、「男の子ならそんなちょっとしたことで泣くのは止めろ。泣いていいのは、血が出たり骨を折ったりした大怪我のときだけで、そんな軽いことでいちいち泣くと、他の子から軽く見られてイジメられるから、男なら泣くな」といった。これについては、かなり納得したようだ。その後、私がいなくてグランマ(家内)と一緒のときにやはりコケて、指を軽く擦りむいた。家内によれば、そのとき一瞬、泣き顔になったが、「血が出ていないから、ボク泣くかないもん」と、健気に言っていたそうだ。 まあ、そういう調子で3ヵ月ほど我々なりの「躾け」を続けてきたところ、かなり改善されてきた。やれば普通に出来るではないかと思うことの連続である。特に困っていた食事の習慣、とりわけ野菜を食べない、おかず全般を食するのに時間がかかるという点については、トマト、ナス、じゃがいも、セロリ、豆と次第に食べるレパートリーが増えてきたし、また夕食にかかる時間も1時間半から1時間内、そして今では早ければ30分以内程度に短縮された。これは目に見える大きな進歩である。やはり、どの子供も元々素材としては悪くないのだから、ちゃんと躾ければ、それなりに育つことを実感した。 千駄木の駅の近くに「菊見煎餅総本店」というレトロ調でなかなか風情のある店がある。明治八年の創業で、白砂糖、抹茶、醤油の三種類の四角いお煎餅を売っている。初孫ちゃんはこれが大好きで、特に白砂糖煎餅には目がない。幼稚園バスから降りると、「お腹が空いた。菊見せんべいを食べたい」と宣言するや、お迎えのグランマを尻目に裏道をひたすら走って、この煎餅屋まで一気に到達する・・・追いついていくのが大変だ。着いたとたんに、大声で「砂糖のおせんべいを下さい」と叫んでそれをもらうと、今度はお店の前にある緋毛氈を敷いた長椅子に座り、ボリボリと音を立てて食べる。そして道行く人に「これ、おいしいよ」と叫ぶので、ちょっと恥ずかしくなる。まあ、天真爛漫というか、いささか伸び伸び育ちすぎである。 ある日、幼稚園から帰ってきた初孫ちゃんのカバンを整理していたママが、可愛い手紙を見つけた。封印には、女の子の顔写真付きのシールが貼ってある。それを開けて見てびっくり。たどたどしい平仮名で初孫の名前が書いてあって、「いつもありがと。もうだいすき」なんて書いてある。これは、いわゆるラブレターではないか。私なんか、20歳を超えてもそんなもの、もらったことがないし、親類中を探しても、たった4歳でもらうとは、なんとまあ、ませた子だ。それで、ママがあせって、これは返事を書かなければ申し訳ないということで、次の日に何とか返事を書かせて、その子に渡したそうな。しかし、本人はさっぱりその意味がわかっていなかったという。でも、しばらくしてママが幼稚園の遠足に付いていくと、その女の子と手をつないで楽しく遊んでいたそうな。 先日、初孫ちゃんが胸を噛まれるという事件があった。噛んだのは、犬ではなく、3歳くらいの男の子である。近所の児童遊園で遊んでいるときの出来事で、付き添っていたのは私ではなくてグランマである。その男の子には、祖母らしい人が付いていたというが、やんちゃ盛りなのか、それとも我が儘のし放題に育てられたのか知らないが、祖母が何を言ってもヤダヤダを連発していたらしい。その子が初孫ちゃんと二人で滑り台の上に乗っていたときに、初孫ちゃんの激しい泣き声が聞こえて家内が振り返ってそちらの方を見たら、その子が初孫ちゃんの胸辺りに噛みついていたらしい。すぐに飛んで行って引きはがしたそうだが、あちらの祖母らしき人は平謝りに謝って、どこかに消えて行ったそうな。私が家に帰ってその噛まれ跡を見たところ、確かに小さい歯型が付いていた。ただ、服と下着の上から噛まれているから、そうたいした被害ではないし、C型肝炎を心配するほどではなさそうで、ほっとした。これは、いわば通り魔のようなものでアンラッキーな出来事であったが、子供の世界も、なかなか危なくなってきたものである。 これまた先日の我が家での出来事だが、私と初孫ちゃんがテーブルについていたとき、グランマがゼリーのカップがいくつか入った袋をドンと置いた。初孫ちゃんが「ウチ・・・いや、ボクが分けるーっ」と言って、まず私の前にゼリーのカップをひとつ置き、「これは、おじいさんの」といい、次に自分の前にゼリーのカップをまたひとつ置いて「これは、ボクの」という。そこまでは良いのだが、次いでグランマの前に3個めのカップを置いて、グランマにこう言った。「これは、半分はグランマので、残りの半分は、ボクにくれる?いいよね」。そこで私が雷を落とし、「これっ、何を言っている。ひとり一つに決まっているでしょ!」。これに対して、初孫ちゃんは、「やだっ」とか言って、何か反論していたけれど、こういうところが、躾けがまだ行き届いていないところだと反省した。まあ、追々教えていくとするか・・・。それにしても、誰も教えないのにグランマはあまり怖くないと見極めて、これに対して半分よこせと堂々と要求するなんて、本当にけしからぬヤツだ。こんな図々しい人間が果たしているものだろうかと記憶を辿っていくうちに、ふと思いついた。これは、アメリカの弁護士の遣り口だ。昔、特許の交渉をしたときに、この手合いにさんざん悩まされたことがあった。初孫ちゃんはおしゃべり好きだし、まだ小さいのにそれなりに弁も立つし、ちょっと妙なところもないわけではないがビジョンもあり、それに向けての交渉力の片鱗が見られるから、弁護士業をやれば意外と成功するかもしれない。ただ、日常生活でこんなことをやられたら、家族や周りの者が迷惑するから、そういう常識は教え込まないといけないと思っている。まあ、人間いろいろな性癖や趣味趣向があってその中には社会にご迷惑なものもあるものだけれど、それを抑え込んで健全な社会人にするのが教育の力である。これに成功すれば、初孫ちゃんはそもそも地頭が良いので、ひとかどの人物になるのではないかと期待している。 かくして初孫ちゃんとの交流は、当初の「おお、可愛い、可愛い」という愛玩の段階から、「そんなことしちゃダメ、こうしなさい、ああ上手だね」などと躾ける段階を経て、「妙なところを矯め、良いところを伸ばす」という教育の段階に入って来た。本人からすれば好き勝手気儘に過ごしていたのに、ジジババとこうしたやり取りをしなくてはならないから、誠に煩いと思っているかもしれない。しかし、「鉄は早いうちに打て、でないと間に合わない」をモットーに、家内と二人三脚で引き続きこの子をしっかり鍛え上げていこうと思っている。幸い本人は、理屈を順序立てて説明すれば理解しようとするし、また言われたことをちゃんと覚えていてくれるからやり易い。家内に言わせれば、「あれだけおじいさんに叱られているのに、なぜかおじいさんが好きっていっているのよねぇ」ということなので、それなりの信頼関係が出来ていると考えたい。こういう基礎があるので、きっと上手くいくと信じている。 そもそも躾けや教育というのは、周りの大人が寄ってたかって各々の方針で行い、そのおかげで子どもの人柄が練れていって自然に良い子に育つというのが日本の伝統だったはずだ。それなのに、最近では家族間でも個人主義が余りに進んでしまったために、その機能がなくなったのではなかろうか。これがひいては、近年急増している引きこもりやDQN(ドキュン=非常識な人間)に繋がっていくのではないか、そんなことを考えるようになった、今日この頃である。 (平成25年6月10日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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