この1月12日から14日の成人の日までの3連休は、初孫ちゃんを上野公園へ連れて行くという「育爺」の仕事に半日だけ費やしたほかは、おおむねは「137億年の物語」という大部な本をじっくり読んで過ごした。これは文字通り137億年前の我々の宇宙の草創期から始まって地球の歴史、先史時代、人類の歴史が平易に書かれた500ページを超える大部な書物である。普通なら、宇宙物理学、地質学、古生物学、考古学、文明史、アジア史、ヨーロッパ史、中世史、近代史、現代史などの知識を総動員して、やっと書けるかどうかという代物だ。 著者は、クリストファー・ロイドというケンブリッジ大卒の元新聞記者で、中世史を専攻した後にサンデータイムスの記者となり、科学と工学を担当した。それから教育出版社に転職して、たまたま5歳と7歳の子を自宅で教育することとなり、翌年、家族で欧州を一周したときに自然科学と歴史を同時に教える必要に迫られてこの本を着想したそうだ。でも、別の新聞記事によると1年で執筆したというから、まあ新聞記者的にコピー&ペーストをしていったのかもしれない。膨大な情報量だから、パソコンとインターネットとデータベースがあるからこそ、出来たものだろう。 それで、書かれた内容はというと、まあこれは新書のはしがきを寄せ集めてきたようなものであって、これを読んでも決して高度な知識が身に着くという代物ではないという人もいるかもしれない。ただ、これだけの膨大な知識を子どもでもわかるように読みやすくして一冊の本にまとめるというのは、並外れた才能である。それに、理論物理を専攻している人は歴史には詳しくないであろうし、逆に歴史ばかりを論じていても、実はそのときの地球の自然環境は今とはこれくらい違っていたということを知らないと、たとえばなぜあんな生物の大量絶滅が何回も起こったのだろうかなどということの真の原因と理由はわからない。そういう意味で、日本風にいえば文系と理系の知識の融合を目指しているといってもよい。私はたまたま宇宙論が大好きだし、高校の授業では地学を学び、これでも大学入試は生物と世界史と日本史を選択したから、これらがある程度わかる。そういう自分の知識を整理するとともに、大学を卒業して以来のこの半世紀余りの間の古生物学や歴史学の進歩と発見の「さわり」や新しい研究成果に触れられたという意味で知的好奇心をくすぐられ、とてもためになった。中でもいくつか、最新の理論に基づく非常に興味深い仮説や説明がなされている。これによって自分の知識のアップデートをする機会をいただいたのである。記憶に残ったところを順に紹介していきたい。 (1) 地球の生成過程で、なぜ地球の核には鉄があれほどあるのかという点である。鉄の核があると、地球の回りには磁界が出来て、それが太陽風から地球上の生命を守るという重要な効果が生まれる。実はこれは、太陽が輝き初めてから5000万年後に、地球と対をなしてたまたま同一軌道上にいた「テイア」という原始惑星が地球と衝突し、その鉄のコアが地球の核と合体したからだという説があるそうだ。そしてこの衝突は地球の衛星である「月」を生み出し、月は地球の自転軸を安定させたという。ついでにいえば、月は隕石の衝突から地球を守る役割をも果たしたから、地球がテイアと衝突したのは何と言う僥倖だったのかという気がする(16p)。 (2) この地球の地殻はいくつかのプレートに分かれていて、それが移動していくというのが、プレート・テクトニス理論つまり大陸移動説から導かれる理論である。その結果として、大陸が特定の配列になったときに、この地球は気温が下がって全球凍結という状態になったというスノーボール理論がある。過去に何回かあったそうだ。そのひとつに、大陸の移動の結果、8億5000万年前〜6億3000年前の間に起こったこととして、陸地のほとんどが赤道あたりで一列につながりハロディニア大陸というものが出現した。すると、地球上の最も暑い地域に陸地が集中したために集中豪雨が連日続き、それが空気中の二酸化炭素を雨に溶かして炭酸塩として流し去った。その結果、温室効果ガスが減って気温が下がり、地球は雪の玉(スノーボール)になって、これが数百年間続いた。しかし、やがてまた大陸移動の結果、火山が噴火して温室効果ガスが放出されて暖められ、地球環境は元に戻ったそうな。そのたびに生物はいったん大量絶滅し、進化した形で生まれてきて再び繁栄を繰り返すということを続けてきたのが地球の歴史らしい(29p)。 (3) 光合成する植物が繁茂してきたおかげで地球の酸素濃度は当初のゼロから次第に上がってきて、現在では空気の21%を占めるようになった。ところが、今から3億5000万年前の石炭紀の頃には、繁茂した森のおかげで一時的に酸素濃度は35%に上昇したという。すると何が起こったかというと、生物が海から陸へと上がり、昆虫が出現した。その昆虫というのも、たとえばトンボが現在のカモメ程度の大きさになるという巨大生物だった。濃い酸素は呼吸を助け、しかも空気が重たくなって昆虫が飛び上がり易くなった。その中で最強の捕食者となったのは巨大トンボである。しかし、狩りをされる側の小さな昆虫もそれなりに対抗策を持った。それは、イエバエのようにその翅を折りたためるようにして、狭い場所にすぐに逃げ込めるようになったのである。なるほど、これは面白い。盾と鉾のようなものだ(52p)。 (4) およそ2億8000万年前〜2億6000年前に出現した爬虫類の一種のディメトロドンは、体調が3メートルに達する大トカゲであるが、おかしなことにその背中に大きな「帆」のようなものを持っていた。しかしこの時代にこれが生き残りの大きな鍵であったという。この時代には、動物はみな冷血動物であったために、体が温まるまでに時間がかかっていたが、ディメトロドンは背中のこの「帆」をあたかも熱交換器のように利用してその体温をいち早く上げて狩りに出かけることが出来た。そして他の動物がまだ動き回ることが出来ないうちに有利な立場で狩っていたとのこと。妙な形状でも、やはりそれなりの合理的な理由があるわけだ(59p)。 (5) 7万5000年ほど前にインドネシアのスマトラ島で起きたトバ火山の大噴火によって、塵が何年も地球を覆い、氷河期のような状態になったと思われる。おそらくこのせいで、人類の人口が激減し、その当時は世界全体でわずか1000人以上から高々1万人以下になったらしい。というのは、人類ホモ・サピエンスの遺伝子が驚くほど多様性に欠けていて、チンパンジーと比べるとそのバリエーションは10分の1にも満たないことからも推測できるという。ところでそのわずかであったホモサピエンスの人口が、今では70億人にもなっているのは、いかに考えるべきだろうか(120p)。 (6) 人類の農耕の始まりである。約2万2000年前に最終間氷期がピークを迎えた後、気温が7度以上も上昇し、数千年かけて氷河が溶けて、最後のわずか500年のうちに海水面が25メートル上がっていき、世界のあちこちの狩猟に適した土地や森林を飲み込んでいったり、砂漠化していった。そういう頃、今のレバノンの付近にナトゥーフ人が住み着いた。その一帯は豊かな恵みのある土地だったので、狩りをしながら定住に近い生活をしていた。ところがそういう彼らを1万2700万年前に、ヤンガードリアスと呼ばれる亜氷期が襲った。気温が下がり始めてわずか50年間で再び氷河期の気候に逆戻りしてしまった。狩場が海面下に沈み、豊かな森が低木しか生えない不毛の土地と化していったのである。そこでナトゥーフ人は、これまでの狩猟採集民と異なり、土地を耕し、小麦などの植物を植えて農業を始めた。更にナトゥーフ人は、オオカミを飼い慣らしてイヌとした。これを契機に人類は、羊、山羊、豚、牛、馬などを家畜化していったという(140p)。 (7) エジプトがなぜ数千年近くにわたって繁栄したかというと、地軸の向きが変わって上ナイル地方が乾燥して砂漠化し、これが敵の侵入に対する自然の防波堤となったこと、それに、北からエジプトに侵入するには、ナイル川の河口の葦の茂る沼地を突破しなければならないので、これも困難だったことによるという。それにしても、匈奴の侵入に悩まされた中国の王朝が艱難辛苦の末に万里の長城を営々と設けていったことを思い起こさせる。またこうした天然の要塞だけでなく、エジプトが幸運だったことは、エジプトを南北に貫くナイル川の存在である。これが交通の動脈の役割を果たせたのは、下りは川の水の流れにあわせ、上りは単に帆を上げるだけで北から南に向かって吹く風を受けて航行できたからだというのである。そのほか面白かったことは、エジプトには女性のファラオも数名いたけれども、つけひげを付けて男性として振る舞ったという話である(162p)。 (8) 現在、インドと中国が世界で最も多い人口を抱えている理由は、早くから稲作を始めたからだという。米は生産性と栄養価が高いことから、ほかのどの作物よりも多くの人口を支えられるそうだ。また、中国特産の絹は、既にローマ帝国の頃から地中海沿岸の人々の間の最も価値のある贅沢品で、中国に計り知れない富をもたらしてきた。その製法は、本家の中国では長く秘密にされてきた。ところが西暦550年頃になって中央アジアを訪れた2人の修道士が竹竿に隠して蚕の卵を持ち帰り、ビザンツ皇帝に献上した。ところがここでも製法は門外不出の秘伝となった。しかし、12世紀の半ばから13世紀になってノルマン人や十字軍がビザンツ帝国を襲い、ここに養蚕技術はヨーロッパ全域に広まった(191p)。 (9) インドのカースト制がなぜ出来上がってきたのかという説明があった。それは、インド亜大陸をたびたび異民族が襲ったという歴史そのものである。次々に侵入してきた新たな文化集団が、既存のグループと混ざり合うことなくそれぞれの層を作り、ケーキのように積み重なってきたからだという。何度となく移民が押し寄せてきても、この制度があれば、それまでの生活様式を変えることなく既存のカーストの上か下に納まったから、既存の習慣やしきたりを根本から調整する必要がなかった。カーストがあるから、インドでは古代の文化や信仰がそのまま残り、ヒンドゥー教が古代から連綿と続いている理由もそこにあるという(203p)。 (10) この本はユダヤ人の苦難の歴史について、とても詳しい。まずはモーゼによる出エジプトの直前の時代で、それまで400年にわたってエジプトで奴隷にされていた(212p)。紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに襲われて4万人が奴隷となった(213p)。紀元前597年に南のユダ王国がバビロニアに占領されて2万7000人のユダヤ人が捕虜とされた。もっとも、この最後のときはペルシャのキュロス大王によって紀元前539年に解放され、故郷のエルサレムに帰ることが出来た(213p)。次の苦難は第二回十字軍で、ユダヤ人が大量虐殺された(325p)。そのほか、本書にいくつか出てきて、その最悪なのは、もちろんナチスによるホロコーストである。 (11) スパルタというギリシャのポリスが行ったことがすごい。それは、人間の品種改良という過激な実験である。虚弱な赤ん坊は捨てられた。男の子は7歳になると訓練所に送られ、ムチ打ちの儀式で迎えられた。食事は十分に与えられず盗むことが奨励された。戦士のホプリタイと農奴のヘイロタイに分かれ、戦士の訓練の仕上げに農村地帯で日が沈んでから出歩くヘイロタイを殺すことが命じられた。戦い方は、ファランクスという縦4列の密集隊形で盾と槍を重ね合わせるもので、ひとつでも弱い場所があれば隊形が崩れるので、兵士全員が一丸となる必要があった。武勲を上げた兵士は、20人もの女性と交わる機会が与えられた。逆に戦場で失敗した兵士は家族から勘当され、死刑を宣告された。まるで全体主義の悪夢を見ているようである(227p)。 (12) この表現が誠によい。「ローマ帝国はまさにハリケーンのように、誕生後またたく間に巨大に成長し、すべてを破壊し尽し、やがて消えていった。その大きな渦を動かしていたのは、穀物と戦利品と奴隷だった。そして、勢いを支えたのは、富める支配階級が贅沢な暮らしを続けるためにふるった暴力だった」(242p)。なるほど、そういうことかと、一目瞭然にわかる言葉である。ローマ人は、物まねが得意で、つねに外へ目を向けていた結果、良いものは何でも取り入れていったという表現も面白い。ギリシャからは重装歩兵戦術、神話、芸術と建築、ペルシャからは重騎兵や馬術、フェニキア人からはその造船技術というわけだ(243p)。また、ローマ人はかなりの鉛中毒だったという。これは初耳だ。ローマでは、鍋釜、水道管に鉛が使われ、帝政ローマ時代の人骨にはそれ以前のものと比べて最大10倍もの鉛が含まれていた。もしかすると、これが歴代皇帝の狂気にも関係したのかもしれない(249p)。 (13) 5世紀、ゲルマン民族がフン族に圧力を加えられて押し出されるように西ローマ帝国内に侵入し、これを滅亡させた。東ローマ帝国も、イスラム勢力の攻撃を受けて息も絶え絶えとなった。その結果、西暦500年頃のヨーロッパの人口は2750万人ほどであったが、150年後には1800万人へと激減した。加えてペスト(黒死病)が流行した。541年にはコンスタンチノープルでは人口の40%が失われた。その後ペストはヨーロッパ各地に広がり、300年間で2500万人が犠牲となった。その背景には、535年からの556年の間にインドネシアのクラカトア火山が大噴火したことによる急激な気候変動の影響があったと言われている(319p)。しかし、800年頃から1300年頃には温暖期が訪れ、重量有輪犂や三圃農法などによって農業生産力が増したので、西暦1000年頃のヨーロッパの人口は3700万人を超え、1340年には7400万人となったといわれる(324p)。しかしその反面、森林は次々と破壊され、西暦500年頃にはヨーロッパの8割を覆っていたものが1300年には半分を切るほどに激減した。 (14) 1347年から流行したペスト(黒死病)は、ヨーロッパの姿を大きく変えた。イングランドではかつて700万人いた人口が1400年頃にはわずか200万人になっていた(328p)。この頃のヨーロッパ人の平均寿命はわずか17歳だったというから驚く。ところがこうしてペストを生きのびた人々には、まったく違う世界が開けていた。虐げられていた農民は待遇改善を求め、国内を自由に移動するようになった。英語の発音とつづりが違う原因は、このころに生まれたといわれている。ペストが流行する前、「make」は「マク」、「feet」は「フェト」と発音されていたが、ペストを契機に農民が都市に流れ込むようになって母音を伸ばすようになり、そのほか様々な地方の方言が混ざり合って中世英語と近代英語とで発音が異なるようになったとされる(329p)。初めて聞いたが、長年の疑問が解消された思いである。 (15) 14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパは、本当に悲惨な状態であった。北は氷に、西は果てしない海に、東と南はイスラム勢力に囲まれて、まさに八方ふさがりであったし、大飢饉とペストはそれに追い打ちをかけた。起死回生の十字軍による略奪の試みは失敗した。ところがイタリア半島だけは例外で、この時期には交易によってベネチアなどの都市国家が栄え、ルネサンスが生まれた。しかしそれは、ヨーロッパ全体の富には繋がらず、かえって周辺国の嫉妬を引き起こしてイタリア戦争を招いた。そうした中、何とかしてイスラム世界を通らずに東の産物を手に入れることはできないかと試行錯誤を繰り返した結果、西回りで東に行く航路が開拓されて、大航海時代が訪れた。ヨーロッパの国々が覇権を争い、宗教改革が進む中、貧しさと混乱から抜け出そうと人々は新天地へと移住した。ヨーロッパ人はインカ帝国など中南米の古代国家を滅ぼし、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病は先住民に壊滅的打撃を与え、その豊かな金銀などの財宝を奪い取った(339p)。 (16) 新大陸からもたらされた新しい作物は、ヨーロッパとアジアにもたらされた。中でもトウモロコシとジャガイモは、栄養価が高く、痩せた土地でも栽培できることから急速に普及した。しかし、これらが普及するまでには問題もあった。トウモロコシを食べるとペラグラという皮膚病になり、その原因がわかるまで何千人と死んだ。実はこれはトウモロコシばかりを食べるとナイアシン欠乏症になるからで、それを防ぐには石灰や酵母を加えればよいことがわかった。またジャガイモについては、当初はアンデスの先住民が食べるものとして見下されていたが、次第にヨーロッパ中に広まり1800年頃には裕福な人々の間でも食べられるようになった。そして特にアイルランドでは主食になったという。ところがジャガイモを枯れさせる疫病が1846年から49年にかけて猛威をふるい、アイルランドでは150万人が亡くなった。このとき新天地のアメリカに向けて100万人のアイルランド人が大西洋を渡ったのだという(385p)。 (17) 日本について言及されているのは、ごくわずかだ。それは、日本では大和朝廷が出現して中国を手本として国を治めようとしていたこと(307p)、ヨーロッパの大航海時代に敢えて門を閉ざした日本(398p)、福島の原子力発電所の事故(424p)、日本の発展(452p)である。これをみると、日本が世界第二の経済大国になったりしたのはついこの間で、私などはそれを誇りに思って仕事に勤しんで来たのに、それは人類史の中ではほとんど目立たない出来事であったようだ。まあともあれ、日本はアジア諸国の中でタイとともに唯一植民地化を免れ、特に江戸期以来培ってきた国民の力でこの19世紀から21世紀までの激動の時代を乗り越えてきたことは、まずもって瞑すべき事柄と考える。 最後に、これを読んでいるときに4歳になったばかりの初孫ちゃんがやってきた。これ何?と聞くから「おじいさんの絵本だよ」というと、興味深そうに覗き込んで、「あっ、ダイナソー」という。「そうそう、これはね。昔のむかしのそのまた昔に生きていた動物で、この帆のように飾りにはこんな意味があるんだ・・・」と説明したら、神妙な顔をして聞いていた。なるほど、この手の本は幼児の子守にも使える。 (平成25年1月15日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
(c) Yama san 2013, All rights reserved