関 連 記 事 | |
1 | 初孫ちゃんの誕生 |
2 | 初孫ちゃんは1歳 |
3 | 初孫ちゃんは1歳4ヶ月 |
4 | 初孫ちゃんは1歳6ヶ月 |
5 | 初孫ちゃんもうすぐ2歳 |
6 | 初孫ちゃんは2歳2ヶ月 |
7 | 初孫ちゃんは3歳4ヶ月 |
8 | 初孫ちゃんは3歳6ヶ月 |
9 | 幼稚園からのお便り(1) |
10 | 初孫ちゃんもうすぐ4歳 |
11 | 幼稚園からのお便り(2) |
12 | 初孫ちゃん育爺奮闘記 |
13 | 初孫ちゃんは4歳3ヶ月 |
14 | >初孫ちゃんは4歳6ヶ月 | >
15 | 孫と暮らす日々 |
1.育爺の出番 初孫くんは、昨年末にめでたく4歳となった。ところがこの年末年始、娘のところは揃いも揃って業務多忙による過労気味でダウンし、元気良く跳ね回る初孫くんだけがポツンと取り残された。家内はというと、これまた実家の両親のことやらを含めて年末年始に何かと多忙を極めたことから休養を要する状態である。他方、いつもお願いしているポピンズのシッターさんは、どうにも都合がつかないという切羽詰まった局面だ。 よし分かった、今こそ「育メン」ならぬ「育爺」の出番だと思い、1月早々の土日に、初孫くんのお世話を引き受けた・・・とは言っても、一日中お世話するのも堪らないので、初孫くんを午前9時過ぎに引き取って時間をつぶしてからお昼時に日比谷の帝国ホテルのベビールームに連れて行き、そこで預かってもらう。そして夕方にまた迎えに行って一緒に夕食を摂り、午後8時過ぎに送り届けるというものだ。うむ・・・これなら楽だ・・・初心者でも出来る。何しろほとんどがベビールームのプロによるお世話に頼るのだから、必要なのは行き帰りの手間だけというわけである。 とはいえ、これまでのようにママやグランマによるお世話を横で見ているのと、こうして一人で実際にやってみるのとは大違いである。最初の土曜日に初孫くんを帝国ホテルに送って行ってから自宅に帰ったのだが、慣れない育児であまりに疲れたものだから文字通り疲労困憊し、昼食を食べた後すぐに眠くなってそのまま寝入ってしまった。はっと眼を開けるともう外は暗くなっていてお迎えの時間が迫っているという有り様だ。いやまあ、大変だった。その育爺の奮闘した顛末をここに記録しておきたい。 2.水遊び 初孫くんは、水の流れにたいそう興味がある。できれば自然の中にある小川のせせらぎでも見せてあげると非常に喜ぶと思うのだけど、何しろ都会の真ん中にいるからそうもいかない。だから、その代わりともいえる公園の噴水を見かけたりすると、もう大喜びだ。たとえば日比谷公園の大噴水などは20分でも30分でも身じろぎもせずにじーっと見入っているから恐れ入る。やがて単に見ているだけでなく、水のぐるぐると渦巻く流れに自分も参加したくなったのか、どこからか枯れ葉や小さな枝の切れ端などを持ってきて水に投げ入れ、くるくる回ってその流れ行く末を見つめている。とりわけ、噴水が高く上がっているときの水面の大きなざわめきと、噴水が止まっているときの静かな水面とで、枯れ葉の動きが違うことを興味深く見入っている。 噴きあがる水が最高潮に達したとき、目の前の水面からも、自分の背丈以上に高く水柱が立ち上がった。そして叫んだのである。「ああっ、Rainbow!」。どこにもそんなもの見えないのにと思って不思議だったが、しゃがんで初孫くんの頭の位置に私の眼を持っていったら、なるほど噴水の水が風にあおられ、その部分に小さな虹が見えていた。そして私に聞く。「おじーさん、なんでRainbowが出てくるの?」・・・ううっ、それは難しい質問だ・・・取り敢えず「お日さまの光が水の壁に当たって、7つの色に分かれて見えるんだよ」と答えたが、正しかったかどうかは未だに自信がない。ちなみに私がいない局面で同じく噴水を見ていたとき、グランマは「ねえ、なんで噴水は上がるの?」と聞かれて答えに窮したそうだが、これからはそんな質問を連発されそうだから、心しておこう。 そうそう、初孫くんは、ワルガキの片鱗をも見せてくれている。千代田線日比谷駅のホームには、掃除の都合上なのか、水栓がある。水の受け皿に、上向きの蛇口が突き出ている。その固くしまった水栓を、真っ赤な顔をしてぐいと力を入れると、水が迸り出る。最初は遠慮がちにチョロチョロと出していたが、慣れて来ると大胆になってジャーッとたくさん出し、しかもその蛇口の穴を指で抑えるものだから、これは一大事。辺りに水が飛び散ってしまうので、慌ててやめさせた。すると、名残りおしそうに、「もう一回だけ」と懇願するので、「では、ちょっとだけよ」と言って認めると、喜々としてまた始める。水の無駄遣いだから、早々に止めさせたいのだが、なかなかうまくいかない。たまたま乗る電車が来たので、それに飛び乗る形でやっと止めさせた。 3.石拾い 初孫くんは、石を拾うのが最近の流行である。それも、所構わずである。公園では本物の大小の石、工事現場近くではコンクリート片、神社ではこともあろうに玉砂利に手を出し、ホテルのお正月の飾りつけの角松の下に敷いてある白い石に大いなる興味を示す。そういう普通でない石を見かけると、実に嬉しそうに「良い石だねぇ」と年配の人のように言うから、笑ってしまう。ホテルのベビールームの先生に言わせると、「どういうわけか、この年頃の男の子は石に興味を示します。女の子はそういうことはないんですがねぇ」と言っていた。そして石を手にすると、困ったことに、それを持ち帰りたいという。公園の石などは持ち帰っても許されるとは思うものの、やはり清潔とは言い難いからやめさせたい。しかしどうしても言うのであれば、ビニール袋を用意しておいて、それに入れる形で持ち帰り、そっと処理した。やれやれと思っていたら、翌日になって「あの石はどこ?」と聞かれて、答えに窮した。いつもお願いしているベビー・シッターさんも、「このお子さんは、何でもよく覚えていらっしゃるから、誤魔化せないんですよね」と言っていた。まあ、それだけ頭も働き、記憶力も備わっていることを意味しているから、決して悪くはないということだろう。 4.風船とハンカチ投げ 子供の世話なので、いくつか小道具を用意しておいたら役に立つことがあるだろうと思い、ゴム風船とふわふわのハンカチを用意しておいた。この子の家では、ゴム風船をいくつか膨らませておいて、それを地面に落ちないように、「ひとーつ、ふたーつ、みっつ・・・」などと数えながら皆で順番に突いたり叩いたりするという遊びが流行だ。だんだん上手になって、先日は33を数えるまで行ったから、立派なものである。ところがこの遊びは、外では風船が飛んで行ってしまって、あまりよろしくない。そこでこの日は、ふわふわのタオルハンカチを用意して、それを風船代わりに2人で順番に上にあげて相手にそれを掴まえさせるという遊びを、丸の内の地下広場でやった。これを称してハンカチ投げであるが、傍から見ていると、お正月で人通りがほとんどない地下街でお爺さんと孫が妙なことをやっていると思われたことだろう。ハンカチだと、高く上にあげるだけでなく、回転を掛ければ遠くにも飛ぶし、斜めに抛り投げれば、まるで海中を進むエイのごとくである。それだけでなく、柔らかいから顔を目がけて直接投げてもよい。子供は全身で受け止めたり、追いかけたり、地面に落ちる前に掴んだりと、いろいろな動きで出来て、良い運動になる。 それでさんざん疲れたので一服したいと思ったのだけれど、休む間もなくこの子が「おじーさん、かけっこしよう」と挑戦してくるので、丸の内のJPタワー側からオアゾ方向へと全力疾走した。最初に脱落したのは私で、行幸通りの真下辺りでギブアップ。しかしこの子は、そのまま小さい足を高速回転させて、新丸ビルの入り口あたりまで走っていってしまい、あれよあれよという間に、体がとても小さく見えるほどに遠くなった。その付近でニコニコしながら、ゆるゆると引き返して来た。勝ったと思ったのだろう、さぞかし気分が良かったに違いない。 5.ペーパークラフト 初孫ちゃん、ついこの間までは、A4サイズの紙を丸めて筒を作り、それをセロテープでとめたものを大量に作っていた。それを重ねてどんどん上に継ぎ足して行って、天井に届くとか、まだ届かないということをやっていた。ところが最近は、折り紙やA4の紙を使って紙飛行機をたくさん作るのが流行である。一点を中心に放射状に折っていくという単純な飛行機である。それで、作ったものをその作ったそばからどんどん飛ばすのである。あんなもの、飛ぶのかなと思えるほどしごく単純な造りなのだけれど、それが実に良く飛ぶ。部屋の隅から投げて次の部屋に飛んで行ってしまうことも、しばしばである。直線的な構造なので、飛びに無駄がないのかもしれない。 これをツバメだとすると、これに対して私の作る紙飛行機は、アホウドリのようなもので、風に乗って木の葉が舞うようにひらひらと複雑に飛び、左へ行ったり右へ曲がったりしてポトリと落ちてくる。だから直情径行を好む初孫ちゃんには、お気に召さないようだ。半世紀以上前だと、これもひとつの標準スタイルだったのにと思うが、そのうち、直線系だけでなくこうした複雑系の良さというものがわかってもらえる日が必ず来ると思う。 6.おしっこ漏らし 丸ビル地下の商店街で2人で楽しく食事をして、さあ、地下広場へ出ようと手を繋いで歩き始めたとき、初孫ちゃんが情けない顔をして「ああ、漏れちゃった」と言う。「ええっ、ひょっとしておしっこが漏れたの?」と聞くと、ますます情けない顔をして「うん」と頷く。ホテルのベビールームを出るとき、「ついさきほど、おしっこをなさいました」などと言われたのに、何ということだと思った。こちらも、初体験のせいもあって、いささかあせりつつ、「あのトイレまで行こうよ」と言ってまっすぐそちらへ向かった。たまたま我々のいた場所は、丸ビルのトイレに近いところだったので、助かった。もうすぐトイレに着くというとき、ふと初孫ちゃんの方を見たところ、濡れたおむつが気持ち悪いせいか、ガニ股気味によたよた歩いていたので、やはり子供なんだと思わず笑ってしまった。 トイレには、身障者用の部屋があって、それなりのスペースが使える。こういう場合には便利だ・・・脱がせてみると、あれあれ、尿パットだけでなく、おむつもズボンも濡れちゃった・・・。着替えのリュックに手を入れて捜したところ、尿パットとズボンはあったが、おむつがない・・・。仕方がないので、初孫ちゃんに着替えのズボンを履いてもらい、それに新しい尿パットをあてがった。「ごわごわするー」などといって嫌がっていたが、家に帰るまでの間だけ、まあ何とかそれで辛抱してもらえることになった。 7.グリーン車で対決 初孫ちゃんを東京駅に連れて来るとき、横須賀線のグリーン車を使った。最初は大人しくしていたものの、次第に動き回り始めた。幸い、お正月の松の内で、同じ車両には他に乗客がいなかったから、好きなようにさせていた。すると、隣の席に飛び移り始めて、そこで遊びだした。ふと見ると、座席の頭が当たる部分に掛けてある白いカバーがずれた。そこで、気が気でなくなり、私が「それを片付けなさい」と命令口調でいった。すると初孫ちゃんの気に障ったらしくて、私の正面を向いて口を開いた。そして、「ぼくは、そういうの、嫌いなの」と、ませたことを言う。これが自分の子で私が若かった頃なら、「親に向かってなんてことを言う」といって頭をポカリとやり、子供がうぇーんと泣いて終わりという場面だ。しかし、血のつながっている孫とはいえ、こういうときの教育方針を親から聞いていなかったし、今時そういう乱暴なことをやると子供も暴力的になるからいけないと思い、いきなりポカリと実力行使をするようなことはもちろんしないで、代わりに説得することにした。「こういう電車の中で、ここがクシャクシャになっていると、次に乗るお客さんが、嫌な思いをするでしょ。だから、元に戻さないといけないんだよ」と説明すると、案外簡単に従ってくれた。この子は、命令口調には反発するらしい。ああ、面倒だ・・・古き良き昔の単純な世界が懐かしいけれど、これが現代風というものだろう。 そういえばこの子、同じインターの幼稚園に、いつも意見の合わない子がいるらしい。そして私にぼやくのである。「Mちゃんは、ぼくを叩くんだよ。もう嫌だ」。そこで私が、「へーぇ。どんなとき?」と聞くと「おもちゃを持って行くときなんかだよ」という。「へぇ・・・それで、どうするの?先生に言わないの?」と聞いたところ、「先生に言うけど、お話ししなさいって言うんだ」とのたまう。ははぁ、それは難儀なことだ。インターの幼稚園だから日本の幼稚園と違って、正義の裁きがすぐに下るというわけではなくて、まずは本人間の話し合いを優先させるらしい。家内が目撃したところによると、別室で2人でとことん話し合って対決させて、気が付いたら2人で同じおもちゃを使って遊んでいたそうな。そういえば、そんなことが昨年末の幼稚園からのお便りに書いてあったことを思い出した。 8.愛想の良さ 駅の京樽の売場を通りかかったとき、たくさんのちらし寿司が並べて置かれていた。それを3人の女性の売り子さんが売っている。それを見て初孫くん、売り子さんに向かって「美味しそうな食べ物がたくさんあるね」と声を掛けて、笑われていた。そうかと思うと、電車の車内を通りかかった女性車掌さんに対して、必ずニコッとしてV字サインを送り、また笑顔で返されるのを楽しんでいる。どうかすると車掌さんが無反応でそのまま通り過ぎられたりする。そういうときも、女性車掌さんが視界から消えるまで辛抱強くVサインを送っているので、笑ってしまう。ある時は、車両を去る時に振り返った車掌さんに気が付かれて手を振られたから、大満足で私に向かってにっこりした。 しかしこういうことは、男性の車掌さんには絶対にやらない。これって、いったい何なんだろうと思う。女性が好きなのか、それとも男性は気付いても何の挨拶もしてくれないからか・・・。ともかくこの子、稀に見るほど周囲の人、とりわけ女性に対して愛想が良い。これというのも、インターの幼稚園に通っているからかもしれない。それにしても思うのだが、日本の幼稚園の子はこれとは逆で、本当に愛想が悪く、朝晩の挨拶すらしない。たとえば、同じマンションに住んでいる家族の子で、ついこの間まで挨拶してくれていた小さな子が、幼稚園に通い出したとたん、挨拶しなくなって無表情になるのは、いったいどんな教育をしているのかと思う。家内が言うには、最近は物騒な事件が多くて周りの人も信用できないから、なるべく人の注目を引かないために、そういうように教えているのではないかということだが、本当だとすると世も末ではないか・・・日本の雰囲気が暗くなるわけである。 逆にいうと、そういう中で初孫ちゃんにこれほど愛嬌があると、必ずや周囲の人に愛される存在になるに違いないから、将来なかなか有望ではないかと、身贔屓の育爺としては、ついつい考えてしまうのである。これも、親馬鹿ならぬ爺馬鹿の現れかもしれない。いやはや・・・我ながら何をかいわんやだ。 (平成25年1月 7日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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