(1)靖国から三宅坂の桜
靖国から三宅坂の桜(写 真)
前日はせっかくの土曜日なのに一日中大雨だったために出かけられなかったが、きょうは朝から晴れていて、ぽかぽか陽気となった。桜前線は今年は遅れていて、靖国神社内の標準木でみると、東京ではつい前々日に咲いたらしい。そこで家内と二人、まず靖国神社へ行き、それから千鳥ヶ淵の脇を通って、三宅坂にある国立劇場の桜を見に行くことにした。千鳥ヶ淵の桜はすべて染井吉野だからまだほとんど咲いていないはずである。しかし、国立劇場の桜は全国各地のすばらしい桜の木を集めているので、毎年、染井吉野より早く咲く種類の木と、それが咲き終えた頃に咲く種類の木とがあり、しかも花弁の色がより桜色をしているから美しい。東京でも、隠れたお花見のスポットなのである。
そういうことで、千代田線大手町駅で半蔵門線に乗り換えて九段下に着き、地上にあがった。すぐに靖国神社に向かって歩いていくと、大鳥居の両脇からもう屋台が立ち並んでいる。桜まつりだそうだ。両脇の屋台を眺めつつ前に進んでいくと、大村益次郎の銅像の直下辺りで、何かコンサートのようなものをやっている。その脇を抜けていく。
植物を売っている植木屋さんのコーナーがある。あれれ、見慣れない妙な花があると思って近づくと、「みつまた」の木だという。するとこれが、みつまたの花ということか・・・確かに、花の付いている小枝が、三つに分かれている。初めて、見た花だ。そこを通って更に参道を行くと、道に面白いものがあった。それは車止めのポールであるが。その断面が桜の花になっている。こういうものは、なかなか思いつくものではない。さすがに、靖国神社だと妙なところに感心してしまった。
さて、神門をくぐる。菊の紋が印象的だ。靖国の桜についての説明書きがあり、その辺りの木はすべて桜のようだが、残念ながら、咲いているのはさほど多くなくて、染井吉野以外の桜、つまりは山桜なのだろう。花は小ぶりで、可憐な姿をしている。そうした桜の木は、献木によるもののようだ。ちょっと目にしただけでも、「神風特別攻撃隊、第二〇一海軍航空隊、ラバウル海軍航空隊」とか、「海軍一三年櫻」などとあり、戦争の記憶を今にとどめている。先の戦争終結から67年もの歳月が経過したので、関係者の方々は、それなりに歳をとっておられる。だからということでもなかろうが、こういう桜の木という形で人々に思い出してもらって後世に残るという方法も、確かに良いのかもしれない。
本殿に参拝し、戦没者の霊安らかにと心を込めてお祈りをした。そして、すぐに南門から出ようとすると、道端にひっそりと碑が立っていた。今まで、気が付かなかったが、ここは幕末著名三道場のひとつ神道無念流の練兵館跡で、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)などが入門し、なかでも桂小五郎は師範代を務めたという。ははぁ、神道無念流のことは歴史書で読んだことがあるが、それはここかと、しげしげと辺りを見回した。 この調子では、千鳥ヶ淵の桜はまだ咲いていないなと思ったので、そのまま三宅坂の国立劇場へと向かった。英国大使館の手前に小さな公園があり、そこでまた妙なものを見つけた。「健康の路」といって、足のツボの説明と、「はだしで歩いてください」といって、その足のツボがぼこぼこ出ているところがあった。これは、公園の設計者か区の担当者に、相当この手のものが好きな人がいたに違いない。
英国大使館を過ぎて、国立劇場のすぐ手前に、実はときどき立ち寄る店がある。それは甘いもの屋で「おかめ」といって、この季節は、桜おはぎがおいしい。ほのかなピンクという色具合も良いし、また桜の香りがほんのりと漂い、食欲をそそるのである。二人でそれをいただいた。もちろんそれだけでなく、私は甘辛弁当、家内は卵雑炊を食べたが、この桜おはぎに勝るものはない。
国立劇場では、いろいろな桜が満開となっていた。ちょうど「さくらまつり」というのをやっていて、あちこちに緋毛氈敷きの席と赤い笠がさしてあって、お茶とお菓子が供されている。桜の花は、駿河桜(するがざくら)、駿河小町(するがこまち)、仙台屋(せんだいや)、神代曙(じんだいあけぼの)、小松乙女(こまつおとめ)などで、総じて染井吉野よりはピンクの濃い花が多いから、それが青い空の色によく映えて、本当に素晴らしい。たくさんの写真を撮った。これらの花は、染井吉野より早く咲き、しかも花はより長持ちするらしい。まだ咲いていなかった関山という桜の品種は、これは染井吉野よりも遅く咲くそうだ。
考えてみると、染井吉野はいわゆるF1植物で、それ自体には種ができないから接ぎ木という形でしか増やしていく方法ない。だから、花を付けるのにはさほど熱心ではないのかもしれない。また、日本全国の染井吉野は結局のところ同じ木のクローンであるから、同一の気象条件なら一斉に咲き、散るということで、それがかえって桜としての知名度を上げた所以なのかもしれないと思う。
さて、ひとしきり撮った後、三宅坂の最高裁判所の前を通って、国会前庭の桜を見に行った。こちらには、憲政記念館があって、その裏手に桜がある。これは美しいといつも感心している枝垂れ桜はまだ咲いていなかったが、それでもいくつかの桜が開花している。それを撮り回っていたときに、ひとつの銘鈑を見つけた、それには、次のようにあった。
この地は、室町時代末期に太田道灌が「わが庵は松ばらつづき海ちかく、ふじの高根を軒端にぞみる」と詠んだことから、海に面して松原が広がっていたものと思われること、江戸時代に加藤清正が住んでいたこと、寛政年間に井伊家のものとなり、幕末に井伊直弼が住んでいたこと、明治期になって弾正台、ついで参謀本部が置かれたこと、明治24年に日本水準原点が置かれたこと、明治27年に衆議院に移管され、憲政の功労者である尾崎行雄翁を追念して憲政記念館が置かれたことが書かれていた。なるほど、日本の歴史そのものである。確かに、桜田門はここから近いので、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、この地にあった屋敷から出発して殉難したのだろう。そう考えると、桜にまた別の意味があるように思えてきたのである。
おやおや、桜の木を見上げていたら、私も誰かに見つめられているような感覚を味わった。ふと、桜の木の中をのぞき込むと、そこに、私を見下ろしているヒヨドリの顔があった。やはり、これは恐竜の子孫に違いない。顔が怖すぎる。いや、これで思ったのであるが、まさに本日は、桜を愛で、死者に思いを馳せ、加えていつになく妙なものを見た日だった。
(2012年 4月 2日記)
(2) 愛宕神社の桜と鯉
愛宕神社の桜と鯉(写 真)
愛宕神社について私が一昨年の4月15日に書いたエッセイを読み返すと、我ながら非常に良く書けている。しかし、それからの2年間というもの、愛宕神社や桜についての私の知識が増えたというわけでもないので、今年はこれ以上のものを書くことは出来ない。そこで、新しく書き下ろすことは諦めて、その代わり、今年また桜の季節に行ったときに初めて気づいた「愛宕神社御由緒」なる表示板について、少し長くなるが、次に引用してみたい。
「当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。・・・江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に消失しましたが現在のご社殿は昭和35年に再建されました。寛永11年3代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上がり、お社に国家安泰の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ『出世の階段』の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世にいう『桜田門外の変』の集合場所でもありました。海抜26メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴しの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。・・・」
ははあ、よくわかる。私の文よりはるかにこなれていて、脱帽ものである。それにしても、この愛宕山は、日本の近世の歴史の縮図のようなものだ。この説明だけでも、徳川家康による創建、徳川家光と曲垣平九郎のエピソード、桜田門外の変を起こした水戸の浪士の集合場所、江戸城無血開城につながる勝海舟が西郷隆盛の会談の場所、江戸大火災、関東大震災、東京大空襲による消失、それに浮世絵と鉄道唱歌か・・・これから、お参りするたびに、思い出そう・・・そのように決めたとたん、いつになく、歴史が身近に感じてきた。そういえば、先ごろ東京写真美術館で開かれた漂泊の写真家フリーチェ・ベアトが明治期の初めにこの愛宕山から撮った江戸市中のパノラマ写真が目に浮かぶ。眼前には延々と広がる大名屋敷、はるか沖の方に目を転ずれば江戸湾とお台場が見え、文字通り江戸が一望できる。こんな雄大な景色を見て桜田門に出発したり、勝・西郷会談が行われたのかと、何か歴史が分かった気がしてしまう。まあ、そうしたこともあってのことかもしれないが、この神社は地域の人たちに大切にされてきているのは確かである。たとえば、2年ごとに行われる出世の石段祭、つまりあの男坂の急な階段をお神輿が下るお祭りを見てビデオに撮ったが、これには驚いた。ただでさえ転がり落ちそうなあんな急坂をお神輿かついで降りるなんて、それだけでもかなりの胆力が要ると思うが、町内の皆さんがそれを軽々とやってのけている。
池の方に行く。来た来たとばかりに、錦鯉たちがエサをもらえると勘違いして、いっぱい集まってきた。水面にいっせいに口を我先に出して、チュボ・チュボ・チュボという音を立てる。一瞬、阿鼻叫喚という言葉と、芥川龍之介の蜘蛛の糸の場面を思い起こす。しかし今の私は、その糸すら持っていないのである。「ああ、申し訳ないねぇ、今日は鯉のエサを持ってきてないんだよ」と心の中で言うと、あら不思議、「なーんだ、それなら早く言ってよ」とばかりに、鯉たちが一斉に去っていく。この鯉たち、テレパシー能力があって、私の考えることがわかるのか・・・まさか・・・と思ったら、対岸でエサをやり始めた人が現れたので、単にそちらへと向かって行っただけのことだった。
NHKの放送会館がある広場に向かう。その周りでは、皆がのんびりとお弁当を食べている。中には、ベンチで寝ている人までいる。気持ち良さそうだ・・・その上を覆うように、染井吉野の花をいっぱいに付けた桜の木の枝が張り出している。白い桜の花が美しい。さらにその上には、あたかも空を突き刺すように、愛宕山ヒルズがすっくと立っている。ああ、これは良い構図になるとばかりに、そこでまた写真を数枚撮った。ところでNHKの放送会館の脇に2本、ピンク色の濃い桜の木があった。これも、なかなか美しい。とりわけ、青い空と白い雲、そしてこの桜のピンクは、実によくお互いを引き立てているではないか・・・ということでそれもカメラに収めた。この神社の来るたびに思うのであるが、今日は本当に、幸せな良い一日であった。
(2012年 4月 3日記)
(3) 千鳥ヶ淵は桜の王者
千鳥ヶ淵は桜の王者(写 真)
あまりに美しい自然の風景を見て、呆然と立ち尽くすという気分を味わうことは、一生の間でそう多くはないはずだ。私も、すでに還暦を過ぎてしまったが、おかげでそういう経験をしている。たとえばスイスのルーツェルン近郊、イギリスの湖水地方のウィンダミア、ドイツのロマンチック街道、マレーシアのティオマン島、アメリカのグレート・キャニオン、日本なら立山連峰、北海道の摩周湖などが今でも目に浮かぶほどの感動を与えてくれた。しかし、この千鳥ヶ淵の桜も、それらと比べて決して、勝るとも劣らないほどの美しい風景だといえる。
何が美しいのだろうと考えてみると、まずお濠に桜が突出していて、そのピンク色がお濠の薄緑色の水面と非常にマッチしている。それに、お濠の向こう側にも同じように桜が咲いている。加えて、頭の上にもまた、桜が咲いていて、もう頭から目が届く先々に染井吉野の洪水のような桜の花の大群に囲まれるからである。また、ボートが出ていると、それがアクセントになる。加えて、空が青ければ、その補色効果でさらに美しくなる。私はここ千鳥ヶ淵こそが、日本の桜の観光地の王者といっても良いと思っている。・・・とまあ、饒舌はそれくらいにして、ともかく洪水のような染井吉野の桜の花の美を堪能していただこう。もう、言葉や文章では表せないほどの美しさなのである。これがたった1週間で散ってしまうとは、なんともったいないことか・・・いや、だからこそ、美しいのかもしれない。まあ、とくと味わっていただきたい。
(2012年 4月 6日記)
(4) 洗足池畔の水と桜
洗足池畔の水と桜(写 真)
大田区に洗足池というちょっとした湖といっても良いくらいの池があり、この季節は桜が美しいと聞き、それではぜひ見て来なければと出かけることにした。乗換え案内によると、我が家からはJR山手線で五反田に行き、そこから東急池上線なるものに乗って行くとよいとのことで、1時間もかからないうちに着いた。駅の前の歩道橋を渡ると、もう洗足池が広がっている。遠目には、染井吉野が満開であるが、近くの枝垂れ桜は、まだ2分咲きといったところである。
何か目印はないかなと思って見回すと、大田区自然観察路「池のみち」という題名の看板があった。それによると「洗足池は、武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました。池畔の風景は優れ、江戸時代には、初代広重の浮世絵『名所江戸百景』に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていました。昭和3年に池上線が開通すると、公園として整備され、同5年には風致地区として指定されました。面積は周辺を含めると約67,000m2、水面の広さは約40,000m2です。日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松がある御松庵など、日蓮にまつわる伝承も残されています。また、池畔にはこの地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛の留魂祠・詩碑などがあります。池の西北部一帯は桜山と称し、桜の名所で、区内有数の景観に富むところとして貴重です。」(大田区教育委員会)とある。引用させていただいてこう言うのもなんだが、いかにも建築系の方が無理して書いたのではないかと推察される文章で、読んでいて思わず笑みがこぼれてくる。
池は、左手から時計回りに巡っていくものらしい。さっそく、その方向へ足を向ける。今日はまさに快晴で、空の青と池面の水の色とが相互に青さを増幅し合って、美しいことこの上ない。それに湖畔の桜の淡いピンク色が補色となってなんとも綺麗である。池には、たくさんの白鳥型のボートが出ていて、その人工的な白さも我々の目に残る。湖畔を4分の1周ほどしたところに、八幡宮があった。そこの鳥居の前では、猿回しを行っている。かなりの人だかりだ。その鳥居の右側には、青銅製の立派な馬の像があり、「名馬池月之像」とある。
名馬池月とはなんだろうと思って調べてみると、こういうことらしい。関東で挙兵した源頼朝が箱根近くの石橋山の戦いで負け、池の付近に投宿した際、池の水面に映える美しい駿馬が現れたのでこれを捕らえて池月と命名したという。その後この池月は家来の佐々木高綱に贈られた。これにまたがった佐々木高綱は、寿永3年(1184年)の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い磨墨に乗った頼朝家来の梶原景季と先陣を争ったという。それも、初めは遅れをとっていたが、景季に対してその馬磨墨の腹帯が緩んでいると言って締め直すことを勧め、その隙をついて先陣を切ることが出来たというのであるから、現代でいえば、「ずるい」ということになろうか。
池の方に目を転ずれば、桜のピンク色と、空の青さと、池面の水の青さとが実によく調和して美しい。だいたい、外国では池や川の水が泥交じりで濁っているところが多いので、日本に帰ってきたときに、ああ、日本の池や川は良いなぁと思ったものである。こういうところは、日本を出てみないと、わからないことである。それはともかく、池の中ほどに、ちょうど不忍池の弁天堂のような朱色の建物がある。その前を白い白鳥のボートか通り過ぎようとしている。うーむ、これは一幅の絵画となる風景だ。さらに行くと、弁天堂のように見えた朱色の建物は、鳥居があったので、神社だとわかる。おっと、池の中には、鯉がいる。おおむねは黒い野鯉だが、中には緋鯉もいて、優雅に泳いでいる。泳ぎ方を見てもなかなか元気がいいので、こちらも嬉しくなる。
おやおや、池畔の一角に、少し池へ張り出しているところがあり、しかも桜の木に囲まれていて、大勢の人たちが集まっている。昼間から桜の木の下で大宴会を催しているのだ。千鳥ヶ淵や上野公園の場合と違って、家族連れである。これは、とても健康的である。見ていると、飲み物や食べ物を持って次々に人が集まって来ている。このあたり、いかにも日本的である。酒に酔い、そして桜にも酔ってしまっているのかもしれない。そういえば私も、桜が満開と聞けば、何はさておきカメラを手にして撮りにいくというのが習いとなってしまったが、これも、桜に酔っているのではないかと我ながら思うのである。
さて、洗足池を離れて帰ろうとしたら、竹林が立派なお寺さんがあった。ああ、これがかつて日蓮上人が袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松がある御松庵だ。またその近くには、勝海舟の別邸があった場所で、お墓もここにあるそうだ。勝海舟の詠んだ歌がまた良い。これぞ洗足池という気がする。これをもって、今日の締めくくりとしよう。
池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし
(2012年 4月 7日記)
(5) 池上本門寺五重塔の桜
池上本門寺五重塔の桜(写 真)
洗足池畔の桜に酔って気分でいたが、そこからさらに東急池上線に乗って近くの池上本門寺へ行くことにした。池上本門寺のHPによると、こちらは、「日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。」とある。つまり日蓮聖人の入滅の地なのだ。
池上駅から、iPhone片手にその道案内に従って道を渡り、表参道を行く。途中、あの左右に跳ねる力強い字で南無妙法蓮華経と書いてある石碑を見ると、ああこの力強さこそまさに日蓮宗という気がする。総門をくぐると、見上げるような石段坂がある。その数は96段もあるらしい。その左右には薄いピンク色の雲のごとくに染井吉野が咲き誇っている。「ああ、すごいな、きれいだな」と思わず口から感激の言葉が出てくる。ふと右手を見ると、赤味の強いピンク色の枝垂れ桜が咲いていて、その背景の建物の薄緑色のガラスに映えて、これまた綺麗なものである。
その長く続く表参道の石段坂の階段を登る途中で、頭の上に来る染井吉野の桜の花の束を見上げながら撮影し、桜を堪能した。階段の左手には、青銅製の灯篭があり、その真上の染井吉野が満開で、その灯篭を囲むように咲いている。これは、なかなかの景色である。やっと階段を登りきって、ふと振り返ると、あんな急な階段を登ってきたのか・・・いやいや愛宕神社の男坂階段ほどではないな・・・こちらには踊り場があるからかと思ったりする。ちなみにこの坂は、此経難持坂というらしい。何と読むのかわからないのが、ご愛嬌である。書いてあった説明を読むと、この表参道の石段は、慶長年間に加藤清正が寄進したものと伝えられており、法華経宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段とし、偈文の文頭の文字をとって坂名としているとのこと。なるほど、浅学菲才の身には、とても読めないわけだ。此段難読坂とでもしてほしい。
さて、正面には仁王門があり、たくさんの屋台が出ている。きょうはお釈迦様の誕生日で、春まつりということだ。仁王門をくぐり、大堂(祖師堂)に至る。人垣がその右手の方に続いていたので、そちらの方へ行くと、法被を着た人たちが操る纏いがいくつかにぎやかに通り、そしてお坊さんの列が続く。先頭は、その衣装からして、かなりの高僧のようだ。染井吉野の桜に囲まれた五重塔が大きく聳え立つ。一行はそちらに向かい、纏いを操る人たちはそこで止まり、その高僧が五重塔正面の扉を開けて、そこに座る。五重塔特別開帳というものらしい。読経が始まり、よくよく聞いていると、「南無妙法蓮華経・・・その他一切の経は、これを排す・・・」などと私には聞こえたり、また五重塔の四方の角で一斉に読経に加わっていた若いお坊さんたちのカチカチ鳴らす鳴り物入りの読経があったりして、さすが、日蓮宗らしいと思った。
式の最後に、なんとその五重塔のてっぺんから、五色の紙吹雪が舞い散るではないか・・・ああ、桜とマッチして綺麗だなと思ってボーッとしているのは私だけで、その場に居合わせた皆さんは、それを拾おうと右往左往している。特別御守の配布ということだ。でも、なにも慌てることはない。その紙吹雪のような御守は折からの強風にあおられて、五重塔よりかなり離れた場所に相当数が着地した。そこはお墓のあるところで、植木の多いところだ。ゆっくりとそこへ行き、植木の中に入り込んだ御守を拾い上げた。拾った5枚ほどは、すべて色が違う。それを持って元いたところに戻ると、赤ちゃんを抱いた奥さんが空を見上げて、その御守を待っているようだ。たまたま目があったので、赤ちゃんの手にそのうちの1枚を握らせた。赤ちゃんも、お母さんも、大喜びだ。
そして、本堂の方へと行って、参拝しようとした。その正面には、白い象が置いてあって、「お釈迦様の誕生日」とある。そこから建物の階段を上がろうとすると、真ん中に長い列があった。何だろうと思ったら、花御堂がしつらえてある。誕生されたばかりの仏陀の小さな像に、柄杓で甘茶をかけているのだ。ああ、これこそ花祭りだと、小さい頃の懐かしい行事を半世紀ぶりに思い出す。堂内では、手を合わせながら家族ひとりひとりの健康を祈り、何かほのぼのとした平和な気分で帰途についた。
(2012年 4月 7日記)
(6) 伝法院庭の桜とツリー
伝法院庭の桜とツリー(写 真)
日曜日の朝、今日も良い天気だ。青空を背景に隅田公園の桜を撮って来ようと、自宅からバスで浅草北の停留所まで行った。言問橋の向こうに、すっくと立ち上がっているのは、東京スカイツリーである。この5月22日に開場だそうだ。それまであと一ヶ月と少しだから、外形は完全に出来上がっている。そこでカメラを取り出し、青い空をバックにパチリとシャッターを押したが、こちらからだと、逆光になって綺麗に写らない。時計を見ると午前11時なので、とりあえず浅草でお昼の食事をし、それからまたこの隅田川に戻って来ようと考えた。隅田川は対岸も桜が咲いている。
そこで、川岸に出現した染井吉野の桜のトンネルを通り、あちこちで青いビニールシートを敷いて繰り広げられている宴会を横目に見ながら、途中で直角に曲がって、浅草寺の二天門に向かった。こんな宴会をするのは日本人だけかと思ったら、パキスタン人らしき一行もビニールシートを敷いて飲めや歌えの・・・あれれ、ムスリムは禁酒のはずだが・・・大騒ぎをやっていたから、可笑しい。完全に日本化してしまっている。
二天門といえば、8月の浅草カーニバルで出演者が出発するところである。この二天門に通ずる通りは、どうやら観光客を乗せた観光バスが停車して、そこからお客を浅草寺に誘導する場所となっているようで、ひっきりなしに大きな観光バスがやってきて、たくさんのお客をはき出している。そのご一行様たちを旗を持ったガイドが先頭に立って案内している。お寺の境内にまだ至らないというのに、すでにものすごい混みようだ。通りの途中に、浅草履物卸の発祥の地という石碑がある。そんなのをゆっくり見ているゆとりがないほどの混雑だ。二天門の前には、時代屋などの人力車が観光客を乗せてやって来ていて、お客に由来を解説などしているから、ますます混んでいる。
浅草寺の本堂前の広場には、猿回しもいる。縁日そのものだ。本堂に入り、昨日の池上本願寺に引き続いて、またお参りをする。参拝を済ませて本堂の天井をたまたま見上げたら、天女の絵が描かれていた。それにしても、この絵、うまく自然に隠すべきところは隠してある。ところで私の回りの人混みといったら、まるで満員電車の中にいるみたいだ。しかも、その中から聞こえてくる言葉は、日本語はむしろ少なくて、たいていは中国語、それからもちろん英語に、南西アジアのたぶんパキスタン語、それにインドネシア語まであったから凄い。聞きしに勝る国際化である。しかも、本堂の前に置いてある線香の煙を頭にもってくるような手つきを真似てやっている外国人も大勢いたから、笑ってしまう。
その人波に身を任せて動いているとき、ふと何かの気配を感じた。私の真横のちょうど目の高さに、何とブルドックがいたのである。これには、驚いた。男の人が肩に乗せて抱いている。しかもその犬が、私の前に来たとき、口を開けて笑ったような顔つきをしたので、二度びっくりした。すごい顔だが、そういう表情をすると、なかなか愛嬌がある。
おっと、また人だかりがしている。覗いてみると、生まれたばかりのお釈迦様の像に、甘茶をかけているところだ。なるほど、今日こそは4月8日、まさにお釈迦様の誕生日である。それにしても、良い天気だなと思って空を見上げると、飛行船が飛んでいて、それと東京スカイツリーが見えた。写真を撮ると、その画面に鳥まで写っていた。浅草奥山風景と名打って、浅草寺の秘宝と伝通院庭園の公開をしているというポスターが貼ってあった。ああ、新聞に載っていたのはこれだと思い、さっそく列に並んで入ってみることにした。
いただいたパンフレットによれば、「寺伝によりますと、寛永年間(1624〜44年)に幕府の作事奉行を勤め茶人としても有名でありました小堀遠州によって築庭されたといわれています。約1万平方メートルのこの庭園は、回遊式庭園として、園内を逍遙すれば一歩一歩その景観を異にします。池には放生された鯉や亀などが泳ぎ、木々には野鳥が集まり、賑わう浅草にあって閑寂な佇まいをみせてくれます。また、江戸から明治までは法親王ご兼帯寺の庭ということで秘園とされておりました。この都内でも有数の文化財を後世に残していくべく、平成23年9月21日に伝法院庭園が国の名勝に指定されました。」とある。そういえばこれまで公開がされて来なかった庭園である。
五重塔をいつもの裏から見ることになるが、風景とマッチしてなかなか良い。庭の苔も、手入れの良さを表している。ああ、これだ・・・庭に面する建物の脇に、枝垂れ桜があって、濃いピンク色の花を付けている。そこを過ぎると、これまた枝ぶりの良い松があり、その前の池は、水が薄緑色でとても綺麗だ。これは素晴らしい。建物の右手にはもうひとつの枝垂れ桜があり、その桜の木越しに東京スカイツリーが見える。池の向こう岸から見ると、左手には五重塔と枝垂れ桜、真ん中に建物、右手に東京スカイツリーと再び枝垂れ桜という、過去と近未来の風景を一度に観望できるのである。素晴らしいとしか、言いようがない。感動的風景である。
(2012年 4月8日記)
(7) 六義園の枝垂れ桜
六義園の枝垂れ桜(写 真)
この日は休みだったから、朝一番で六義園に行ってみようという気になった。ネットで調べると、午前9時が開門とのこと。その前に行こうと思って自宅前からバスに乗ると、ちょうど8分前に入り口に着いた。しばらく列に並んでいると、思いのほか早く、中に入れてくれた。潜り戸のような門を超えると、眼前にとてつもなく素晴らしい枝垂れ桜が、桜の花を満載した枝を両方に広げて、満開である。背景の真っ青の快晴の天気と実にマッチして、心が躍動してくるようだ。いや、心臓も高鳴るというものだ。
さあ枝垂れ桜の木を撮ろうとすると、カメラマンは皆、行儀良いことに気付いた。こういう場合には、もう必ずと言ってよいほど無神経な人が出るものだ。たとえば、桜の木の下に行ってわざわざ見上げたりして、カメラの邪魔をするという具合だ。ところが今日は、そんなことをする不埒な人はまったくいない。それどころか桜の木を中心として同心円上に並んで、そこからパチパチとシャッターを切っている。これはマナーが良い。それでは私も、写真に入り込む邪魔な人が出ないうちにとばかりに、皆さんに混じってどんどん撮っていった。しばらくして、右手に園の係りの人が現れて「はい、9時となりました。一般の方を入れますので、カメラをお持ちの方、撮影は終了です」と言う。ああ、なるほど、開園前の時間に特に写真を撮りたい人だけを入れて、邪魔者なしで撮影させたのかと納得する。これはとても良い配慮である。一昨年だったか、きょうと同じく朝一番にこの六義園に写真を撮ろうとやってきたのに、この枝垂れにカメラを向けると、どういうわけかわざわざ桜の木の根元まで近づいて見上げている無粋で無神経な人が何人かいて、われわれカメラマンをやきもきさせたものである。それに比べると、この日の園側の整理は、なかなか配慮が行き届いていた。
そういうわけで、枝垂れ桜の全体像を撮るセッションは終わりとなり、いよいよ桜の木に近づいて撮る局面となった。いやまた、これが凄い。桜の花が、何というかまるで花が滝を作るように、あちこちで盛り上がって垂れている。花の塊があちこちにあって、それらがまた、重層的に重なり合っている。背景は、真っ青な空だ・・・いったい、何たる自然の造形美だろう。これに勝る枝垂れ桜はあるだろうか・・・写真でしか見たことがないが、福島県三春町の三春滝桜かなぁ・・・。そのうち、現地に見に行って、比較してみようと思う。
例のとおり、説明板を読むと、こうある。「この枝垂れ桜は、高さ約15m、幅約20mで、『エドヒガン』という品種が変化したものです。戦後に植栽されてから、50年以上が経過しています。開花は『ソメイヨシノ』よりもやや早く、3月下旬頃です。満開の時期、枝いっぱいに見事な花を咲かせた薄紅色の滝のような姿は、圧巻です。」いやまったく、その通りである。毎年、この枝垂れ桜を見るたびに、こちらも元気になる気がする。また、来年も今年のような素晴らしい晴れ姿を見せてほしいものだ。
ああ、ついつい枝垂れ桜ばかりに注目してしまったが、この時期、新緑が芽吹く直前の六義園の姿も、なかなか良いものである。まだ芝生は茶色だが、松の葉の色も良くなってきた。藤代峠から眺めると、その緑豊かな松とともに。特に今日は池面に青い空の色が反射して、それが実に美しい。そうそう、吹上茶屋には、染井吉野もちゃんとあって、白い花を枝いっぱいに付けている。
(2012年 4月 7日記)
(8) 上野不忍池の桜
上野不忍池の桜(写 真)
さて、わずか2日というごく短い期間のうちにあちこち駆け巡って桜の木を撮るという忙しい日程が終わり、浅草からようやく帰途に着くことにした。最後のひとつと思って向かったのが、上野公園である。入り口から桜のトンネルを公園内に行こうとしたが、浅草寺を遥かに上回るものすごい人混みで、その中に混じって少し歩いただけでくたびれた。そこで公園中心部へ行くという方針をあっさりと転換し、すぐに左へ折れて、不忍池を4分の3周して我が家に歩いて帰ることにした。
左手へ曲がるところから不忍池の弁天堂を見下ろすと、これまたひどい人混みがこちらの上野公園に向かって来る。その人の波をかき分けるようにして階段を下り、池の中心にある弁天堂には行かずに、そのまま池の周囲を時計周りに歩くことにした。池畔に着いて、池面を見ていると、隣の女の子がかっぱえびせんの類のお菓子を空中に抛り投げた。すると早速、池にいたゆりかもめが飛んで来て、私の目の前にいきなり現れたので、びっくりした。顔を目がけて飛んできたので、これはいけないとカメラで顔を隠しつつ撮ったのが、この1枚である。いやはや、このゆりかもめという鳥は、遠目では可愛く見えるが、近くで見ると誠に獰猛な顔をしていて、ぼんやりしていると、嘴で突っつかれそうだから怖い。
それから、不忍池の周りを見ると家族連れや職場の仲間のような人たちが座って、思い思いのスタイルで何かを食べたり飲んだりしている。そのすぐ脇には、ものすごい人の波がぞろそろと歩いているというのに、少しも動じなくて口をパクパク動かし、ビールをガフガブと飲んでいる。ははぁ、若い人というのは、とても逞しいものだとつくづく思う。私には、とても出来ない。
そこを過ぎると、池の角を回り込むような形となり、池面に満開の桜の影と青い空が映って、とてもきれいだった。また、逆光から次第に順光となって、青い湖面に飛び交う白いゆりかもめの姿をしっかり撮ることが出来た。また別の種類の桜の木だ。形は、寒緋桜に似ている。これはピンク色が濃いので、もちろん染井吉野とは違うが、近くで見るとなお綺麗に見える桜だった。
さて、不忍池を半周した。すると、手前に青い池面と、その向こうには枯れた蓮の茎が連綿と続き、さらにその向こうには弁天堂と満開の染井吉野の木々が帯のように見えるところに来た。これは素晴らしいと思ったら、目の前の池中の杭に、一羽のゆりかもめがとまった。そして、毛づくろいを始めた。のんびりしたものだ。しかし、その様子は、なかなかシュールな感じがする。
さらに池に沿って進むと、また桜の木の大群であるが、白い染井吉野とピンクの濃い八重桜との競演である。それを見上げるような形で青空をバックに撮ると、非常に美しい。ああ、その中間に緑色の柳の木があるから、これで白、ピンク、緑そして青の4色が楽しめる。これに感心していたら、今度は染井吉野が池面にずーっと張り出していて、その先にはボートがたくさん出ていた。そしてさらに池の回りをめぐっていくと、手前にボート、正面には弁天堂と桜の木、さらにその上には、東京スカイツリーがぽっかりと空に浮かんでいるように見えるポイントがあった。
(2012年 4月 8日記)
(9) 新宿御苑の八重桜(上)
新宿御苑の八重桜(上)(写 真)
もう、東京の染井吉野は昨日の大雨ですべて散ってしまった。では、そろそろ八重桜の季節が到来ということで、新宿御苑に行くことにした。HPを開いてみると、まさにそのとおりで、今は一葉(いちよう)という種類が満開を迎えているという。そこで朝早く地下鉄に乗って、新宿御苑駅で降りたのである。車両の先頭からすぐに地上へ出て、それから散策路を右手に行くと、新宿門がある。そこで案内図をもらって、園内に入っていった。まず、入り口近くにあった染井吉野の花びらは地上に散って、まるで白いピンクの花じゅうたんのようである。
少し進むと、米粒のような小さくて白い花がいっぱい咲いている雪柳の木が並び、その横には、黄色い山吹の花か咲いている。それらが並んでいると、まるで白い垣根と黄色い垣根とが接しているように見える。さて、ああ、大きな八重桜の木があった。これが一葉である。HPの説明によると、「サトザクラの栽培品種。江戸時代後期から関東を中心に全国に広まりました。花の中央から葉化しためしべが1本伸びることが名前の由来です。新宿御苑の桜の代表品種です。」とある。ああ、花のあの中央にあるカブト虫の角のようなものは、葉化しためしべか・・・面白いものだ。
そこからほど近いところに、葉の真ん中に茶色のボールのようなものがある大きな木を見つけた。これはひょっとしてハンカチの木かと思ったら、やはりそうだ。実が成熟すると、この周りの葉は白っぽくなって、ハンカチのように見えるから、そのように名づけられたのだろう。母と子の森に入っていった。雑木林の向こうから、赤ちゃんをバギーに乗せたお母さんが2組、こちらへ向かってくる。ここだけを見ると、まるで軽井沢にでもいるような気分になる。とても大都会の真ん中にいるとは思えない。
日本庭園の上の池に出た。池の周囲には桜が咲き、池の中には鯉たちが悠々と泳いでいる。池に張り出した松の木、堂々とした石灯篭、池畔の柳の木がとても風雅な感じを受ける。橋を渡ったところで、赤みの強い花が満開の木を見つけた。ははぁ、これが花海棠(はなかいどう)だ。通り過ぎるおばさんたちが「まあ、綺麗な桜ね」などと言っている。「よく見なさい。どこが桜だ。」などと言おうものなら雰囲気を壊しかねないので、黙ってシャッターを切っていた。もっとも、花がまとめて下を向いている点とか、花の形などが桜そっくりだと思ったら、こちらもサクラ属と同様、バラ科に分類されるようだ。しかもそれが、リンゴ属というから、面白い。
さらに進もう。あれれ、ピンクと赤の花が、それも同一の木から出ている枝についているのを見つけた。これは・・・木瓜(ぼけ)の花だ。とすると・・・これは木瓜の木か・・・それにしても、こんな2種類の花を一度に同じ木が付けるなんて、本当かと思ってよく見ると、ああやはり同じ木である。ははぁ、木瓜の木というのは、案外、融通無碍なんだ。それにしてもこの木瓜の花、これでもかこれでもかとばかりに花をいっぱいに付けている。その脇に、今度はピンクの花があった。さきほどの花海棠だ。この2つを比べると、木瓜には田舎育ちのワイルドさ、花海棠には都会的な品の良さを感じてしまう。私は、その中間かもしれない。
わあ、大きな枝垂れ桜だと思って見上げたら、その先の方に教会の尖塔のような建物が見える。ああ、代々木のドコモ・タワーだ。近くを通り過ぎるおばさんたちが「東京都庁ね」などと間違ったことを言っているが、こちらはカメラを構えて忙しい。これは、八重紅枝垂れという桜のはずだ。それから次に、山桜の大きな木があった。葉と同時に花が咲くのは大島桜に似ているが、葉の色がもっと茶色なので、あまり自信はないけれど八重左近桜という種類だと思う。そこを過ぎて振り返ると、ドコモ・タワーと桜の木のピンクと、空の青さと周囲の緑との対比が素晴らしい。行き交う人たちも、みな嬉しそうだ。
茶室・翔天亭の前に出た。キノコ風に刈られた松がいくつもある。昔これを見たときは驚いたが、もう慣れてしまった。翔天亭でお弁当を買って、そこで食べていると、横の道にひらひらと桜の花びらが舞い降りていて、道がピンクに染まっていた。こちらの山桜とおぼしき木はまだ一杯の花を付けていたのである。その優雅な花吹雪を見ながら、お弁当を食べることになった。冷たいお弁当の味の不味さを補って、余りある風景である。
わあぁっと声が出そうになるほど、大きな八重紅枝垂れが目の前にあった。みな大喜びで、その下でシートを敷いて食べ出す人、飽きもせずに花を眺めている人、枝垂れの中心に入って花越しに外の景色を楽しんでいる人、それを背景として写真を取り合う人たちなど、さまざまである。私も子供のように、ついついその周りを一周してしまった。
(2012年 4月15日記)
(10) 新宿御苑の八重桜(中)
新宿御苑の八重桜(中)(写 真)
中の池あたりから対岸を見ると、桜と池の水の対比が美しい。桜の花びらがたくさん散っている。そちらに渡ってみると、なだらかなカーブを描く小さな丘に桜の花びらの絨毯が散り敷かれており、そこに外人の家族や職場らしいグループがのんびり寛いでいる。良い雰囲気で、実に楽しそうだ。ああ、子供がシャボン玉を飛ばした。白やピンクや青色のシャボン玉がふわふわ空に向かって上がって行く。
赤い花がたくさん付いている木がある。ああ、これは確か、花桃(ハナモモ)だ。それにしても、真っ赤な花で、綺麗なものだ。青い空にたくさん出ている枝に花が山盛りになっている。近づくと、一面に真っ赤に燃えているような気がするほどだ。いやはや、これはもの凄い迫力だ。赤と白の花が同一の木に咲いている。別の木かと思ってよく見たが、やはり同じ木なのだ。説明を読むと、これは源平といわれている特別の木らしい。なぜ源平かというと、赤い旗と白い旗が源氏と平家を象徴しているそうな・・・。
池を渡って、再び振り返ると、またドコモ・タワーが辺りを睥睨するように聳え立っていて、池の周囲の桜と池面が綺麗だ。 またここで、新宿御苑を代表する桜がいくつか並んでいた。一葉、真っ白な白妙(しろたえ)、そしてやや緑っぽい鬱金(うこん)、ピンクの濃い江戸(えど)、さっぱりとした大島桜である。
さて、そろそろ退出しようとして、新宿門の方へと向かうと、ものすごい人の数が、続々と中に入って来る。私はその人の波に逆らって進んで行く形となっている。入って来たその人たちが、これまた思い思いにあちこちで桜の下に座って、食べたり飲んだりしている。今年は、お酒の持ち込みが厳に禁じられているようだから、酔っ払いのたぐいはいないにしても、この人混みそのものに酔いそうになるほどだ。まあしかし、場所を選べば、あまり人のいないところもあり、こういう場所で、家族で花見というのも、なかなか良い考えかもしれない。来ている人、皆さん、とても楽しそうである。
新宿門を出ようとしたら、右手に売店がある。何か家内にお土産をと思って近づくと、それは追分だんごの出店だった。そこで売っているお団子の種類は、みたらし、黒ゴマ、こしあんなど、どこにでもあるもので、いずれもお値段は160円均一である。ところがその脇に、桜団子250円なるものがあった。値段が高いのに、それにもかわらずよく売れているらしくて、もうあまり数がないではないか・・・。もしこれが美味しければ買って帰ろうと、まず1本、味見をした。桜の香りがプーンと匂ってきて、なかなか美味しいし、甘さも控えめだ。よしよし、合格だ。ではこれに決めようと思い、何本にしようか一瞬迷ったが、ダイエット中ゆえ数は2本として、買って帰った。家に帰ったのが午後3時過ぎで、ちょうどおやつの時間である。家内に、「これ買って来たからどうぞ。私はもう食べた」と言うと、「どうも有難う」という言葉が聞こえたかと思うと、一瞬目を離しているうちに、たちまち、2本とも消え失せてしまっていた。あらら・・・しまった、そういうことなら、せめてもう1本、買って帰るべきだった・・・。
(2012年 4月15日記)
(11) 新宿御苑の八重桜(下)
新宿御苑の八重桜(下)(写 真)
あれから2週間が経ち、再びカメラを持って新宿御苑に出かけた。というのは、新宿御苑の八重桜の最後を飾る関山(かんざん)をぜひ見たかったし、それと桜なのに緑色の花をつける御衣黄(ぎょいこう)を撮るためである。新宿門を入ってすぐに右手に向かう。前回は八重桜をたくさん付けていた一葉(いちよう)はすっかり散ってしまって、もはや見る影もない。ところがその近くにあるハンカチの木が花を付けているというので、それを見物に行った。ボランティアの方の説明が聞くともなしに耳に入ってくる。それによると、この木は植えられてからちょうど20年といういわば青年の木だから今が盛りとのことで、こうやってたくさん花を付けている。ところでこの花は、中国四川省雲南省付近が原産で、プラント・ハンターだったアルマン・ダヴィッド神父が西洋に報告した(西洋世界にとっては、「発見」というわけだ)。このダヴィッド神父は、その意味でパンダも発見したそうで、むしろそちらの面で有名になったそうだ。
あった、あった、関山(かんざん)の花が。なかなか赤みが強い。それがもっこり、ぼとっという感じで咲いている。それだけ花が付いていると重たいのでもちろん下向きに咲いているが、それを下から見上げるように撮ると日光に透かしてとても美しい。しばし、その美しさに感じ入って見とれていた。これだけでも、ここにやってきて良かったと思う。さて、そのまま進んでいくと、もうすぐ5月だけあって、ツツジが真っ赤となっており、これも迫力があって非常に美しい。その向こうには、代々木のドコモ・タワーがあり、これらを合わせるとなかなか近代的な風景だ。ここでもまた、しばし見とれたのである。このツツジという花、集団として見ると非常に自己主張が強い花であるが、近づいていると一個一個の花は誠に単純素朴であるから、その落差が何ともいえず可笑しい気がする。
普賢象(ふげんぞう)という赤味の強い桜の花があった。一見すると、関山(かんざん)のようだが、色がややピンクがかっている。これもまた、満開の時期を迎えている。花弁がひとつひとつ分厚い感じがして、その花びらが地面に落ちたところをみると、ぽっこりもっこりしている。面白いので、その写真もカメラに収めた。
ああ、これも大輪の桜である。関山や普賢象を見慣れていると、これは白っぽく思える桜である。松月(しょうげつ)という名前らしい。眺めていると、誠に品の良い桜に思えてきた。あまり知られていないけれど、染井吉野には飽き足らず、さりとて関山のような本格的な赤っぽい八重桜はどうも、という向きには適している桜である。
うむ、これが鬱金(うこん)というものか・・・淡い黄緑色をしている桜で、しかも大輪の八重咲きである。そもそも桜のうちで黄緑色の花を咲かせる品種はあとは御衣黄(ぎょいこう)しかないが、それにしても珍しい品種である。花弁に葉緑素が入ったということだろうか。ちなみにこの名前は、ショウガ科のウコンの根を染料に用いた鬱金色によるものとのこと。
それでは次に、御衣黄(ぎょいこう)を探さなければと思い、地図を広げる。おっと、行き過ぎだった・・・ということで、御苑の中心部へと戻る。レストハウスの近くで、やっと見つけた。何しろ桜といってもピンク色ではなくて薄緑色だから、周囲の色に紛れてしまうのだ。新聞記事によると、飛鳥山公園にもこれが一本だけあり、「開花が進むにつれて、花の色が淡い緑から黄色、そして最盛期には花弁の中心に紅色の縦線が現れて赤みを帯びる。かつて貴族がまとっていた御衣(衣服)の色と、この花の緑色とが似ていることから名付けられた」という。なるほど、そういうことかと改めてじっくり眺めた。赤色の縦線が現れつつあるので、これは最盛期が近そうである。ちなみに、全国の桜のDNAを調べている先生がいて、その最新の調査結果によると御衣黄も鬱金も、DNAは全く同一だったとのこと。つまり枝変わりのものを育てて行って品種が別のように思われてきたらしいというのである。
あった、ここにあったのか・・・花水木(はなみずき)である。4つの花びらの先端がいずれもタバコで焦げたような色と形になっていて、ほかにこのような花は見たことがないという不思議な存在である。花びらが成長して満開となると、四方に伸びて十字形となるけれど、そこに至るまではひとつひとつの花びらが丸まっていて、まるで両手で頭を隠しているような格好となるから、面白い。ここでは、白い花の木と赤い花の木が隣り合って植えられている。その写真をぱちぱち撮っていると、年配の男性が、「これは、何という花ですかねぇ」と聞いてきたので、「ああ、花水木ですよ。アメリカでは、Dogwoodといいます」というと、「なんでDogwoodというのですかねぇ」と聞くので、「さあ、わかりません。でもこの木は、むかし東京からワシントンDCに桜の木が送ったときに、しばらくしてそのお返しとしてアメリカから送られた北アメリカ原産の木なんですよ」と答えた。ところで、後からWebのウィキペディアで調べたところによると、「dogwoodの語源には諸説あるが、一説には17世紀頃に樹皮の煮汁が犬の皮膚病治療に使用されたためと言われ、他には木製の串(英古語:dag,dog)を作る材料に使われる堅い木であったことからとも言われる。」とのことだった。しかし、これくらいのこと、もうiPhone時代に入っているわけだから、その場で調べればよかった。
最後に、面白い花を見つけた。白くて丸いかわいい花がいっぱい集まって、丸くて愛らしい形をしている。その名も小手毬(こでまり)という。花言葉は「友情」という。
(2012年 4月28日記)
(平成24年4月15日とりまとめ。28日新宿御苑(下)を追加。)
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