秩父の夜祭りに出かけた。京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並ぶ日本三大曳山祭ということなので、是非とも一度は見たいと思っていたら、ちょうど土曜日に行ける都合の良いバスツアーがあった。東京を朝ゆっくりと出て、お昼過ぎに秩父に着いた。早朝は大雨だったので、これは大丈夫かと心配した。ところが、iPhoneで秩父地方の天気予報を見ると、午後からは晴れるとのことだった。それを信じて乗車してものの、途中、こんなにひどく雨が降っているのに本当に予報通り止むのかと思ったりしたものの、あら不思議。バスを下りたその瞬間にぴたりと雨が止んだ。それからは各人の自由行動で、夜遅く午後10時半頃まで続く秩父夜祭りを堪能するというわけである。私はこの祭りについては、ほとんど何の予備知識もなかったが、毎年12月1日から4日までのお祭りの日程だけは、昔から頑固に変えずにやりつづけているということだけは知っていた。それが今年はたまたま土曜日にかかったので、空いていた旅行会社のツアーに申し込んだのである。現地に着いてわかったことだが、このお祭りは、クラブツーリズム社の独壇場である。ざっと見ただけでも観光バス200台近くを送り込んでいて、しかもお祭りを見物する主要な観覧席の良いところをすべて押さえていた。料金を聞くと、私の申し込んだものよりかなり高かった。
私は、秩父という東京に近いところだから、どの会社のツアーでもそう変わりはしないという先入観があった。しかし、私のようなまるで初心者の場合は、まずはこういうツアーを申し込むべきだった。加えて、ちゃんとした写真を撮りたいなら、予めどのようなお祭りで、どんな山車があってどういうルートを巡行するかなどと調べるべきだろう。しかし、昔の私ならともかく、仕事ではない限り、最近はそんな面倒なことはしないことにしている。計画派から、行き当たりばったり派になったということだ。ただまあ、世の中は面白いもので、このごくマイナーな会社が主催するツアーのバスに乘ったところ、たまたま隣り合った初老の男性が、秩父夜祭りの権威のような人であった。だから、バス中でその講義をたっぷり受けたから、秩父に着いたときには、私もこの祭りについて、いっぱしの物知りとなっていた。もう、笑い話のようなものだ。
それで、秩父の元セメント工場跡地という駐車場に着いたのが午後1時である。それから道の駅ちちぶに向けて歩き、その辺のレストランで昼食をとった。それからまず、全ての山車(だし)が上がるという団子坂へと直ちに向かい、写真を撮る席を確保しようとした。お祭りのクライマックスには、この辺り一帯が通行禁止となるので、見物席を確保していない限り、運行する山車(笠鉾屋台)を見ることは出来ないというのだ。市役所前の広場にある観覧席は、あらかじめ行われた抽選になっているらしく、お祭り当日に入り込む余地など全くない。そこの隣を過ぎて、団子坂をちょうど上がりきったところに、とある席屋があったので、そこのおじさんと話をした。ここは、山車と花火の両方を撮ることが出来る最高の席という触れ込みである。ただ一番の問題は、立ったままということだ。夜中になると寒いだろうし、そんな中で最大で5時間立ちっぱなしというのはたまらないから、それは断念した。それで結局、団子坂下のT字路の脇にあるところに、座る席を確保した。席料4千円也だが、最大の問題は、山車は見えるがそれと同時に花火が見えないことだ。でも、パイプ椅子ではあるがともかく座ることができる席があったことは助かる。ちなみに山車(笠鉾屋台)とともに花火も見えるところは、クラブツーリズム社が押さえているようだ。まあしかし、私の選んだところは最前列だし、街灯の具合からして写真を撮りやすそうだ。席が決まったことで安心して、街中にお祭りを見物に出掛けた。
聖人通りをまっすぐ行き、国道299号線に着くと、耳に心地よい祭り囃子の太鼓の音が聞こえてくる。それに惹かれて左に曲がった。すると、百貨店隣の駐車場で、秩父屋台囃子の皆さんが交代しながら華麗なバチさばきをみせてくれる。その中には小さな女の子まで入って、一心に太鼓を叩いている。ああ、一家総出というわけか・・・こういう祭りに一家で参加出来るなんて、何と幸せなことか。すると、バスの中で教えてもらった男性の声が私の耳に響く。「この祭りに参加できるのは、秩父生まれの人だけなんですよ。私の知り合いで、嫁いできて40年になるというのに、未だかつて、秩父祭りに参加したことがないという人がいます。その人の子供さんには、声がかかるんですがね。本人は、祭りの日はいつも留守番なんです」。はあ、そういうものか、田舎のしきたりのようなものなんだ。
それで、道を逆にたどっていった。すると、本町の山車(だし)があった。それに愛嬌のある達磨の絵が描かれている。なお、この地方では後述のように、「山車」ではなく正式には「笠鉾と屋台」というそうだ。ただ、それでは露天商の屋台と間違えやすいので、露天商の方を露店と呼んでおこう。いうまでもないが、もうこの辺りになると、道には、人、人、人があふれている。まるで満員電車の中のようになってきた。後ろから着いてくるおばさんが友達にいう。「もうまったく、何という人混みなの!いつもはこの辺なんか、殆んど人通りがないというのにねぇ」。また、主な通りの両側がほとんど露店で占められていたことにはビックリした。人通りも多ければ、露店もすごく多い。一説によると、千店はあるそうだ。たこ焼き屋、お好み焼き屋、サツマイモのスナック、リンゴ飴屋、お面の露店など、私が小さい頃からお馴染みの露店ばかりだが、一つだけ珍しい店が何軒かあった。それは、ドネルケバブといって、固まりにしたくず肉を回転させながら焼いたものを薄く削ぎ落として、ナンのようなパンに挟んで食べさせるものだ。トルコの本場の味とある。確かにいずれもトルコ人らしき人たちがやっていた。またその人寄せの日本語が上手いこと、上手いこと。その本町の屋台つまり山車の付近は、山車の幅が道の半分を占めているから、道が狭められて人の流れがそれだけ一層ごった返している。そんなところに双子の乳母車を通そうとする人まで現れて、また大混乱。それでも、人々の顔はニコニコして嬉しそう。これが、日本の祭りの良いところだ。
そういう雑踏の中を秩父神社へと向かう。関東屈指の古社というだけあって、既に平安初期の文献に当神社の名があるようだ。そういえば、昔、歴史の教科書で西暦708年に鋳造された日本最古の貨幣のひとつである和同開珎の材料となった和銅は、ここ秩父から献上されたものだと習ったことがある。その当時から秩父地方は鉱物資源が豊かだったらしい。近代には養蚕業が盛んとなり、秩父は絹織物業から生糸業へと転換しながら発展し、それが八王子を経由して横浜港から外国へと輸出された。ちなみに、それで儲けたのが三渓園を作った原富太郎だ・・・戦後は、セメントかなぁ・・・などと考えながら人並みをかき分けていくと、秩父神社が現れた。古式豊かな、いかにも古そうな神社である。以前、羊山公園で芝桜を見物した帰りに立ち寄ったときにはほとんど人がいなかったのに、今日の境内は、見たことのないほどの人の波で埋まっている。いや、すごいものだ。中に入ると、少しの身動きすら、ままならないくらいである。何枚か写真を撮った後ようやくそこから脱出し、そして振り返れば、境内で色づいた銀杏の木と、神社の緋色の対比がこれまた美しい。
秩父神社の境内の中に、一つの山車(宮地屋台)があり、運行練習でもしているのか、あの重たい山車がひざまづくように傾いでいる。そうして、何か車輪あたりに細工をした後、正面の乗り子さんたちが扇を振って「はえーっ」というと、ガガガァーという音を立てて方向転換をする。これを繰り返して、運行していくようだ。乗り子さんたちは、白い襷のようなもので、山車から落ちないようにその柱につながっている。バスの中で教えてもらった男性は、「これは名誉な役で、地元の有力者の縁者ですよ。これがあるから、多少の雨や雪では、中止出来ないんです。」ちなみに、山車には昇り鯉、猩猩、達磨さんなどの派手な絵柄が描かれている。面白かったのは、山車の絵柄を女性用のバックにしたりして、それを秩父神社の山車の周りで売っていたことである。紺色の地でなかなか良いと思ったが、三千円と聞いて、手を引っ込める人も多かった。
ところでこの秩父夜祭りについて、秩父神社のHPによると「重量感あふれる豪華な笠鉾と屋台とが、勇壮な太鼓囃子のリズムに乗って曳きまわされ、屋台歌舞伎や曳き踊りを上演すること。それに加えて冬の寒空に贅沢なほどの、打ち上げや仕掛けの大花火を競演する」とある。なるほどこのお祭りの見所を端的に表現している。他の地方のように「山車」とはいわずに「笠鉾と屋台」というのも、何かしらのこだわりを感ずる。ちなみに、「笠鉾」というが、それがないではないかと思ったら、普段は町内中にある電線が邪魔になるので、外してあるという。しかし、残りの「屋台」だけでも、非常に凝った作りである。「笠鉾と屋台」としては、次の6台がある。
下郷笠鉾(したごうかさほこ)[白木造りで黄金の輝きをもつ]
中近笠鉾(なかちかかさほこ)[全体が黒の漆]
宮地屋台(みやじやたい) [前に階段がなく後幕に猩猩の絵]
上町屋台(かみまちやたい)[前に階段があり後幕に鯉の滝昇りの絵]
中町屋台(なかまちやたい)[前に階段があり後幕に海魚の絵]
本町屋台(もとまちやたい)[前に階段がなく後幕にダルマと宝船の絵]
本来であれば、これらの屋台に張出を付け、芸座を組み立てて上演する屋台歌舞伎の光景を見たいところであるが、この日はそれを探す余裕がなかった。
これら笠鉾と屋台が午後8時頃から順次、私が陣取っている席の目の前を次々と過ぎていき、団子坂を引き上げられて御旅所に集まり、折から羊山公園から打ち上げられる花火と競演して、祭りは最高潮に達する。なぜ御旅所に集まるかというと、これも秩父まつりのHPによれば、「神社にまつる妙見菩薩は女神さま、武甲山に棲む神は男神さまで、互いに相思相愛の仲である。ところが残念なことに、実は武甲山さまの正妻が近くの町内に鎮まるお諏訪さまなので、お二方も毎晩逢瀬を重ねるわけにもゆかず、かろうじて夜祭の晩だけはお諏訪さまの許しを得て、年に一度の逢引きをされる」というのである。よく考え付くと思うほど、ややこしそうなストーリーであるし、いかにも、古代の祭りという香りがする。それほど立派なお話が伝わっているにもかかわらず、その武甲山がセメント材料を作る石灰石の採掘で、階段状に削られている姿を見るのは、なかなかつらいものがある。せっかくの恋物語が台無しというものである。
さて、団子坂の下の席の最前列に陣取って待っている私の話であるが、いよいよ午後8時を過ぎた。そのとき、まず秩父神社の神幸行列ご一行がやってきた。神輿が1基、御神馬が2頭、それに大真榊等をはじめとする神社の行列である。白い衣装を着た氏子さんたちが担ぐ神輿は、白木造りのようだ。神事だから、普通の御神輿のように「わっしょい」あるいは「セイヤッ」などという威勢の良い掛け声は御法度のようで、しずしずと進んでいる。御神馬は、前後に立つ人が綱を持って制御しているが、どうもこのお馬さんは、蹄鉄に何か挟まったようで、しきりにそれを気にして、左前脚を地面に擦りつけていた。
その神事御一行が過ぎてしばらくすると、威勢の良い屋台囃子に乗って、ひとつの笠鉾屋台が姿を現した。綱をおそらく100人近く数の人が曳いている。道が一杯だ。笠鉾屋台は大きい。私は座っているせいか、もう見上げるような姿である。それに日光東照宮のような凝りに凝った彫刻がほどこされ、緞帳にはこれまた精緻な絵が描かれている。文字通り、動く重要文化財である。Tの字交差点の中程に来た。まずは方向転換である。笠鉾屋台が大きく傾くほど傾け、それから乗っている乗り手の皆さんが扇をもって叫ぶと、その方向に回る。それでまた進むという手順である。私の目の前をたくさんの曳き手が通過していく。中には、我々見物人とハイタッチをする法被姿の若い女性もいて、我々も気分が盛り上がる。
その合間に、ポポポーン、ドン・ドーンという花火の音がして、パアッーと辺りが明るくなるが、残念ながら私の席からは直接見えない。それでもたまに端っこの方から尺玉か見えると、もうそれだけで大騒ぎとなる。バババッ、バババッという音は、スターマインか・・・。そうこうしているうちに、次の屋台が曳かれてくる。ああ、これは大きい。白木造りだから、パンフレットによると下郷笠鉾だ。先ほどよりはるかに多い数の曳き手が道一杯に広がる。同じく方向転換をして、皆で一気に団子坂を上がっていく。そういう調子で、合計6つの笠鉾屋台が通り過ぎた。私は、二台のカメラを駆使して、写真を撮るのに大忙しだった。しかし、やはり夜であったことと、しかも三脚を立てる方向が限られていたので主に手でもって撮ったことからブレてしまい、これだという納得のいく写真がなかったのは、残念である。それでもまあ、少しは記念になる写真が撮れたのではないかと思いつつ、家路に着いた。
(平成23年12月 3日著)
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