悠々人生のエッセイ



さくらぽっぷさんイラスト




 毎週末のテニスの試合中に、ボールを深追いしすぎて転び、左手をしたたか打ってしまった。一晩様子を見ていたが、良くならなかった。そこで、翌日仕方なく病院に行き、整形外科で順番待ちをしていたときのことである。2歳くらいの小さな男の子が、バタバタっと走ってきて、私の目の前で止まった。体を動かすことが嬉しくてもう仕方がないようだ。実に楽しそうにキャッキャッと言って身体を揺らしている。ああ、歩き始めたばかりで、歩くこと自体がとても楽しいのだろうな。元気な良い子だ・・・思わず私も、ニコニコした。

 すると、次の瞬間である。血相を変えた若いお母さんらしき人が、長い茶髪をなびかせて飛ぶように走って来た。いわゆるヤンママ(Young Motherの略か?)である。今はやりの短いパンツに、黒いストッキングを履いている。子供の前まで来ると、無言のまま左手でその子の腕を掴み、右手でその子の顔をピシャリと大きな音を立てて叩いた。周りの人が、ビックリして見守る中、その子を抱え上げてそのまま走り去った。あっという間の出来事だった。お母さんの肩越しにチラリと見えたその子の顔は、大きく歪み、べそをかいていた。

 私はその一部始終をたまたま目にして、とっても、その子が可哀想に思えた。だって、やっと歩き始めることが出来て、自由にあちこち行けるようになったばかりだから、それ自体がとても嬉しいことなのである。病院の中で通行人がいくらいようがいまいが、そんなことは関係なく、自由に走り回れることそのものが喜びなのだ。それをいきなりピシャリと叩かれては、何が何だかわからないではないか。ましてや言い聞かせても人の話を理解できる年頃ではないのだから、自由にさせるべきだし、もし危ないと思うなら、手を掴んで離さないとか、いくらでもやり方があるはずだ。

 最近、親に無視(ネグレクト)されて子育てを放棄され、遊びまわっていた親が家に帰ってきたら、子供が餓死していたという悲惨な事件、あるいは子供を虐待して全身痣だらけで死亡させるという信じられない事件が相次いでいる。この病院での出来事は、そういう極端な事件ではないものの、それでも最近の世相の一端を見た思いで、誠に悲しい思いがした。しかし考えてみると、これは単なる一時の子育ての方法の問題ではなく、実はその子の一生の問題を決めてしまうほどの恐るべきことなのだと考えている。

 もとより、子供は、その親にされたようにする。もう20年近く前のことになるが、私の子供たちが通っていた小学校で、とても乱暴な子供がいて、何か気に食わないことがあると、誰かれ構わずに顔や頭を叩くという悪い癖があった。PTAの会合に出て来たその子の母親は、悪びれずにこう言った。「うちは、もうホントに厳しくしていまして、そんなことは絶対にありません。うちでそういうことをすれば、父親が折檻しますから」。これを聞いた周りのお母さんたちは、ああこれが原因かとすぐにわかったのである。家で常に父親に叩かれている子にとっては、問答無用で人を叩くのは、日常的でごく当たり前の世界なのである。

 近頃は、ますますそういう常識のない親が増えた。私の妹が小学校の先生として、クラス担任をしていた頃のことである。ある子供がどうにも手に負えないので、親を呼んで注意しようとした。やって来た母親を見て、二の句がつけなかったという。その母親も、頭がライオンのように爆発しているような形の金髪で、とてもまともな話が出来る相手ではなかったというのである。また別の話であるが、家内によれば、最近こんな光景を目にしたらしい。まだ10代そこそこのような年若い母親が、3歳くらいになる女の子を連れて駅の構内を歩いていた。その子がお母さんを見上げて一生懸命に話し掛けているが、お母さんは知らん振り。そのうち女の子が抱っこと言って両手を差し出したが、それも無視。近くを通っていた年配の女性がたまりかねて「あんた。抱いてやんなさい。この子が求めているんだからね」というと、しぶしぶ抱く真似をしていた。

 これなどは、小さな子供にとっての親というのは、果たしてどういう存在なのか、まるでわかっていないのではないかと思うのである。人格が徐々に育っていくこの小さな時期に、親とよく話をしたり抱かれたりしていれば、成人して他人とどう接してよいかが自然と身についてくる。ところがこの時期にそういう経験をあまりしていないと、大人になって他人にどう話しかけてよいかがわからなかったり、他人と接する一種の勇気のようなものをなくしてしまうのではないか。その結果、さしずめ現代なら、家に引きこもって昼夜逆転のゲーム中毒になるか、あるいは家に帰っても面白くないので夜遅くまで遊び回って犯罪に巻き込まれたりということになってしまうのではないだろうか。

 太宰治は、津軽の裕福な旧家に生まれたが、父親からほとんど無視されて育ち、それが一生のトラウマとなって、非業の死を遂げたのではないかと私は思っている。要するに、幼いときにとりわけ親に愛されたことがない人間は、そもそも人をどう愛してよいのかもわからないというわけである。逆にいえば、子供は可愛がれば可愛がるほど良い子に育つ。そして、子供はそうやって親に愛されることを通じて、人格を親に認めてもらいたいのである。これは万古不易の真理である。しかもそのような親の子供を愛する心、子供を一個の人間として認める気持ちは、更にまたその子の子供に対する態度にも受け継がれ、ひいてはそのまま次の世代にも親の広い意味の愛情として受け継がれていくという好循環が生まれる。人生というものは、ほんのちょっとしたことで大きく変わっていくものだが、自分の子をどれだけ可愛がるかで、その子孫の行く末まで左右するとは、なかなか深遠な意味を含むものだと思う。

 その点、我が一家の一粒種の初孫ちゃん、もうすぐ3歳の幼子はどうかと、いささか気になるところである。つい最近、娘からこんなメールが来た。「いま添い寝しながら『ありがとうね、ママは、あなたが居て幸せだわ』って言ったら、なんとあの子が英語で『You're welcome』と言い、続いて日本語で『ドウイタシマシテ』って言ったんだよ!!すごくない!?」 あれあれ、それはそれは・・・「まだ3つにもなっていないのに、そんな子はいないよ。すごいね」と返信した。ちょっと出来過ぎの話でもあるし、いささか親バカでもあり、加えて爺バカ気味でもあるような気もする。しかし、まあこの調子で子供を自然に可愛がる親子関係を続けてくれれば、まず大丈夫だと思った次第である。



(平成23年11月23日著)
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