私は、本業のかたわら5年前から特に頼まれて・・・というか、一度教壇に立ったら我ながら教えるのが楽しくて・・・早稲田大学の法科大学院等で教鞭をとっている。最初は東京大学でやっていたのだけれど、その任期が終わってから都の西北にある今の法科大学院に移り、それ以来もう3年が経過した。ただ、本業があるので大学当局には申し訳ないけれど、半期で週一回の出講にしてもらっている。こちらの法科大学院は、先生方も学生さんたちも事務室の方々も、本当に良い人たちばかりで、このまま続けたいのは山々なのだが、残念ながら来年度からは本業が多忙極めると思うので、このたび泣く泣く退任を申し出た。そうしたところ、交代を快く了承していただいた。その際、人情のわかる科長さんから、過分な心温まるお言葉を頂戴した。こういうところも、なかなか去りがたい理由なのである。 今年も春学期が終わり、法科大学院事務所から恒例の学生アンケートの結果が送られてきた。学期末にそれぞれが受けた授業に対する評価を、「自分にとって良い授業だった (1=[そうは思わない]〜5=[そう思う]) 」という5段階で評価するものである。主要科目は、民法T→ 4.47、民法U→ 3.71、刑法T→ 4.02、憲法T→ 3.44、会社法T→ 3.91、行政法→ 3.81、法曹倫理→ 3.55 というところである。その中に交じって、私の科目→ 4.38という評価は、手前味噌だがまずまずの高得点ということになる。まあ、何というか、学生さんたちのお役に立ててよかったと思う。 私は、専門家と素人との差は、体系的な専門知識とそれを組み合わせて人を説得できる論理力があるかどうかにあると思っている。それには、授業を文字通り受け身で聞いていたり、家で専門書を単に読んでいたりするだけではだめで、取り入れた知識を使って自分から発信し、それで相手を説得できるかどうかがポイントとなる。ところが法科大学院では、アメリカ流のソクラテス・メソッドを取り入れるようにというのが、いわばお上からのお達しとなっているから、これを試みる先生も多い。これを私もやってみたけれども、このソクラテス・メソッドというのは、法廷で丁々発止のやりとりが行われるアメリカでは確かに有効である。つまり、当意即妙のやりとりが出来ないと、一流の弁護士にはなれないからである。ところが、書類による審理が多い日本では、最近でこそ刑事裁判で裁判員制度が出来たとはいうものの、やはりまだまだ文章力が物をいう世界である。これから近い将来を見通しても、私はアメリカのような口頭でのやりとりが重んじられる時代は、日本にはまず来ないと考えている。だいたい、日本の学生さんは、シャイなだけでなく、そもそも人前でそんな軽妙なやりとりをしたことがないことから、どうしても教師の一方的なしゃべりに対して、調子を合わせる程度になってしまうのである。 そうであるとすれば、形だけソクラテスの真似事をしても、総合的な法律知識を駆使し、問題解決のためにそれなりの説得力を備えるには、全くもって不十分な教育となるし、そもそも法曹としてしっかりした文章を書ける力を養うことが出来ない。それでは、どうすればよいかと考えに考え、試行錯誤を繰り返して研究をした結果、こうすることにした。授業期間の半分のさらにまたその半分を、在来型の講義に充てる。途中、眠気覚ましを兼ねて質問を繰り出すことにしたが、まあ基本的にはパワーポイントの画像を示して、それを説明するのである。私の分野はやや専門的なので、こうしないと、基礎知識すらない状態のまま、いきなり文章を書けということになるが、それはいくらなんでも無理というものである。その一方、最初はモデルを示して、それに沿う形で2〜3人に課題を書いてもらい、それを授業日の2日前の午後10時までにメーリングリスト経由で全員に送信してもらうこととした。私はそれを見て、授業当日にコメントをする内容を考え、併せてお手本のようなものを示すのである。 これは、結構な作業量となる。お手本を用意する手間だけでなく、2問から3問出すと、最大で6人の学生さんの書いたものをチェックしなければならない。それを実質1日の間に行う必要がある。どの学期も最初の頃は、出来は良くない。というのは、学生さんにとって、そもそも文章を書くという機会は、試験のときにわずかにあるくらいで、普段はまずないからである。それも法科大学院の場合には、試験は書きっぱなしが多くて、自分の書いたもののどこが良くてどこが悪いかすらわからないということが多いからだ。もちろん最近は、私の法科大学院でも、試験をした後で、その解説をするようにといわれているが、個々の学生さんの書いたものの講評まで行っている先生は、まずいないはずである。 これでは、せっかく法律の知識があっても、果たしてその法理をここで使うべきか、あるいは自分の組み合わせた論理はそれで十分に説得的かなどということがさっぱりわからないはずである。このままでは、法律知識はあるが、それをどうやって使うべきかがわからない学生さんばかりを輩出してしまう。その点、私の実務関係科目は、憲法、行政法、民法、刑法、場合によっては訴訟法の概括的な知識が必要であるし、それを総合的に組み合わせないと、ちゃんとした結論が得られない。まあそういうわけで、こういう方針で授業を行ってきた。 具体的には、その日のいわば当番に当たった学生さんの文章を授業中にプロジェクターでそのまま映写し、その上でコメントを加えるのである。たとえば、このところは非常に発想が良いとか、この点はいささか論理が飛躍しているとか、不法行為だけでなく不当利得でも考えてみたらどうかとか、この判例を引いているけれどあちらの判例を引用すべきだとか、この部分は常識に反しているのではないかとか、まあそんな調子である。途中、もちろん書いた本人の反論も受けるし、ほかの人を当てて、あなたならどう書くかなどと問う。ただひとつ、気をつけなくてはいけないのは、この方式で行うと、出来の良しあしが授業を受けている人全員にわかってしまうので、書いた本人をあまり追い詰めないように配慮してあげる必要があることだ。時にユーモアで笑ってすませるというのもコツである。 こうやっていくと、学生さんが実にいろいろな文章を書いてくる。一学期に一人か二人くらいは、私よりも上手な解答を寄せてくる人もいて、拍手喝采を送りたくなることもある。そういう場合は、ともかく褒める。もちろん、大半は、あやふやな知識で妙な論理を書いてくる人もいる。そうすると、まずどの判例と条文を基礎として考えるべきか、事実をいかに整理すべきか、そうしておいて要件はどれとどれで、その当てはめはどのように考えればよいかなどと講釈していく。 まあ、そういう調子で授業をやっていくのだけれど、学生さんの中には、そもそも授業というものはすべて受け身で知識を頭に詰め込むものという先入観を持っている人も多いし、あるいは授業というものは予め決まった範囲から行われるはずだと思い込んでいる人も少なくない。そういう人たちは、たとえば憲法から刑法、あるいは刑事訴訟法の知識を総動員しないとできない問題を前にして呆然としたり、これまで全く見たこともなければ考えたこともない事例についてどこから手を付けてよいのかもわからずにただただ唖然とするばかり。しかし、いずれもつい最近、起こった事件ばかりなので仮想の事例ではないから、実務ではこういう事件について答えをすぐに出さないといけないのかと思って、学生さんたちはいずれも、最初はびっくりしていたようだ。 しかし、授業が徐々に進むにつれ、法律問題を解くときの「味」というものがわかってくるようで、15回の一連の授業を終える頃には、面白いと思ってもらえたらしい。まあ、他の授業では詰め込むだけの知識も、私の授業ではそれらを総合的に駆使して使わないと役に立たないといったことが実感できるからではないだろうか。これまでの経験では、この方式は、社会人だった学生さんには、とりわけその良さがわかってもらえるようで、自分でいうのも何だが、熱烈な支持者もいた。その反面、ひとりでじっと勉強をしているのに慣れている学部出たての(純粋な)学生さんには全くの別世界で、自分にはやや荷が重いという印象を持たれたようだ。しかし、そう思っておられた学生さんも、授業が進むにつれて書くのに慣れが加わって、良い文章をスイスイと書く人も多く出てきたから、そういう人には「あなたの書いたもの、最初の頃と比べて、特にここが良くなったねぇ」と褒めた。もちろん、正直に言うと、中には褒めようがないような人もいるにはいたが、そういう人には、せめてどうすればこのジャングルのような法律の世界を迷わないで進んでいけるかということのヒントを差し上げたつもりである。 以上のような工夫の結果が、このエッセイ冒頭に述べた学生アンケートの集計である5点満点中の4.38という評価になったと思っている。まあ、私はプロの教授ではないが、本業の仕事での知識経験が、思わずこんなところにも役に立ったので、面白いと思っている。どちらも、法律を扱い、そして人を扱うという点では、共通だからだろう。今学期が終わった頃、学生さんのひとりからこのようなメールをいただいた。 「おはようございます。先生の科目を受講したA.O.です。最後の授業(教場試験)の際にきちんとお礼を伝えることができませんでしたので(また、試験の採点も終えられたようなので)、メールさせていただきました。先生が講義された科目は、私が春学期に受講したどの科目よりも興味深く、また、有意義でした。特に、法律的な文書の書き方やこれまで詳しく考えてこなかった法律事実や方針について考える演習ができたことは、とても良かったです。また、貴オフィス内の見学や職員の方とお話しできたことは、今後の目標を考えるうえでも貴重な体験となりました。半年間、本当にありがとうございました。」 「大学ロースクール 平成20年前期でお世話になったM.Y.です。授業では、実際の実務家による生きた知識を学ぶことができ、大変貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。この度は,新司法試験に合格したのでご報告させていただきます。今年が三回目の試験だったので、ようやくみんなの仲間入りできるな、という心境です。これからもよろしくお願いいたします。」 ご承知の通り、新司法試験の受験は、受験資格を得てから、つまりロースクールを卒業してから5年以内に3回までという制限が課せられている。その趣旨は、この試験のために人生の貴重な時間を無駄にしないようにという配慮であるが、特に1回と2回目の試験でいずれも不合格になると、3回目の受験は最後の機会となる。そういうプレッシャーの中で、この人はよく頑張ったと、大いに褒めてあげたい。 そのほか、1回目の受験で首尾良く合格した人がいて、その人からは「昨年の授業でお世話になりました、Y.Z.です。このたびの新司法試験に合格できました。先生の科目でご指導いただいた、読み手に伝わる法律文章の書き方を練習したことが、合格につながったと考えています。ご指導ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。」というお礼を言われた。これも、私の授業での工夫をわかってくれて、私の真意が伝わったものだと、うれしく思っている。 かくして、私も法科大学院に対して、心残りなく無事に別れを告げることができるというものである。お世話になったお世話になった総長様と科長様、大学院の同僚の先生方、事務所の皆さん、そして何よりも私の授業を熱心に聞いてくださった学生の皆さんに、心からお礼を申し上げたい。とりわけ、これから初めて、あるいは引き続いて新司法試験にチャレンジする修了生の皆さんのご健闘をお祈りする次第である。 (平成23年9月13日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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