悠々人生のエッセイ







京都の桜の旅 2011年( 写 真 )は、こちらから。


 いま、家内とともに京都にいる。東日本大震災からほぼ1ヶ月が経とうというところであるが、東京にいると、やれ余震だ、放射能だ、節電だと、気が滅入ることばかりである。なかでも一日中のべつまくなしに何回もある余震には、本当にうんざりしてしまう。3月11日の本震の発生以来、これまで地震計が記録した余震はなんと1万回を数え、うち震度6を超すものは100回というから、いやもうひどいものだ。私の仕事はデスクワークだから、下を向いて書類を読んでいるときに、頭がクラクラしたりすると、目まいなのか地震なのかよくわからない。そのときの中途半端な気分が、嫌なのである。考えてみると、私はこれまで、よほどひどい風邪を引いたとき以外には、目まいなど感じたことがない。そうではあるのだけれど、めまいがして、部屋に吊るしてあるものを見る。それが揺れているのを見てはじめて、ああやっぱり地震なのかと納得するまでは、体調が悪くなったのかとついつい思ってしまう。こんな調子ではストレスを溜めるだけだ。どこか遠くの地で、気分転換をしたい。そういうわけで、週末になったから、家内と東京を脱出することにした。

京都御所の桜の花


京都御所の紫宸殿の左近の桜の花


京都御所の紫宸殿の扁額


 宮城県、岩手県、福島県で被災された方や、福島第一原子力発電所の事故で避難を余儀なくされた方、それに原子力発電所の敷地内で放射能対策に当たっておられる方々には誠に申し訳なく思うが、我々の精神的健康を保つためには、やむを得ない。行き先は、桜が咲く京都と決めた。私の第二の故郷でもあり、お寺めぐりをしていると、一番気持ちが落ち着く。これで、余震に悩まされることがなく、ゆっくり寝られるし、桜を愛でて気分爽快となる。さらにいえば、我々が東京を留守にすることで東京電力の電気を使わないからその分の節電になるし、旅行費用を支出するから自粛自粛で沈滞ムードの景気下支えに多少なりとも貢献出来るというわけである。もちろん、私だって若ければ現地に行ってボランティアというのも、考えないわけではない。しかし、還暦を迎えた身には、この寒空の下で避難所では暮らせそうもないし、ましてや荷物をちょっと持っただけで腰を痛めるおそれもあり得るというのでは、足手まといとなるに決まっている。だから、無謀なことは考えないことにした。

京都御所の襖絵


知恩院の三門


知恩院の三門から眺める桜の花


 2〜3日前に京都へ行こうと決めた。普段の年なら、現在は春のハイ・シーズンの真っ最中で、宿や新幹線の切符など、とれるはずがない。それなのに、満員のはず京の宿はたくさん空いているし、満席のはずの新幹線のぞみ号も、希望通りの列車がすぐに取れた・・・やはり、誰もこんなときに旅行をしようという気にはならないようだ。朝8時に東京駅から乗ると、もう10時20分過ぎに京都駅に着いた。行き先はまず、明日まで一般公開をしている京都御所である。今出川から京都御苑に足を踏み入れた。かつて公家の屋敷が建ち並んでいたという区域に、枝垂れ桜が、今は盛りとばかりに咲き誇っている。そのピンクや白が美しい。砂利道をしずしずと歩き、塀の周りをぐるりと回って、宜秋門から入った。車寄せと建礼門の前を通って、日華門から紫宸殿の前に出た。左近の桜はあったが、それと対になる右近の橘が筵囲いの中にあってやや興ざめする。でも、建物の正面にある「紫宸殿」の扁額が素晴らしい。本物だから当たり前だが、しばし見とれていた。それから清涼殿へと抜けた。そういえば学生時代このあたりに、十二単を着る人形があった。それが痩せぎすの西欧風の顔をしていた人形だったから、もう少し何とかすればよいのにと感じたことを思い出した。何十年ぶりの記憶が急に蘇ったというわけである。さらに歩き、御池庭から御学問所の横を通って、清所門から退出した。今年は、大震災に配慮して、人形の飾り付け,回廊の生け花,雅楽,蹴鞠の催し物も取り止めたそうで、まるで建物見学会のようになっていたのは残念である。こういうときこそ、普段通りにしておくべきだと思うのだが、宮内庁の人たちと私とでは、センスが違うようだ。

知恩院の桜の花


知恩院の徳川家康公の絵


知恩院の枝垂れ桜の花


 その京都御所を退出して、タクシーで次に向かったのは、東山の知恩院である。巨大な三門があり、見上げると、正面からドーンと迫って来るような迫力がある。その両脇には、美しい染井吉野の桜が盛大に咲いている。ああ、美しい。これぞ日本の原風景である。境内に入る。法然上人800回忌ということで、あちらこちらの建物を修復中の中を、本堂の御影堂に向かった。ちょうど読経の最中で、座らせていただき、それをしばし傾聴した。それから、その横にある方丈庭園に入れていただいた。こちらは、江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる池泉回遊式庭園である。読経を聞き、庭を見ると、気が落ち着く。来て良かったと思った瞬間である。

円山公園の桜の下での宴会


円山公園の坂本龍馬像


円山公園の枝垂れ桜


 知恩院から円山公園まで、歩いてものの10分もかからない。公園に着くと、「静」から「騒」へと、雰囲気がまるで一変する。たくさんの染井吉野が、あちこちで今は盛りと咲いている。その下で、宴会が開かれている。わあわあ、きゃあきゃあ、これはすごい。知恩院が静かな祈りの場だっただけに、この世俗の固まりのような騒ぎがうるさく思われるが、まあいずれも、人間の姿そのままである。さて、円山公園には、いわば裏口から入っただけに、あの有名な枝垂れ桜はどこにあるのだろうと思った。すると、目の前に立派な枝垂れ桜がある。これかなと思って横を見ると、そちらにも同じような枝垂れ桜があった。あれあれ、いくつかあるのかと思いながら下っていくと、避雷針に守られた、ひときわ高い枝垂れ桜があった。その前のプレートには、「この桜は区民の誇り」などと書かれていた。ああ、これだ、これだと思ったが、昔に比べれば、相当に年をとった感じである。一言でいうと、外見があまり健康的ではない。樹勢がかなり衰えているようだ。

円山公園の枝垂れ桜(本物)


ねねの道を行く舞妓さん(おばけ)


祇園閣


 円山公園から八坂神社に抜けた。さて、夕暮れまでまだ時間があるので、近くの高台寺に向かうことにしたが、歩くには、少し遠い。すると、鳥居の脇に、人力車がいた。頼むと、そこなら10分で行けるという。東京の浅草でもやっている会社らしい。しばし待っていると、我々の乗る人力車がやってきた。車夫を務めてくれるお兄さんは、学生だという。その人が人力車を引っ張りながら、あちこち説明してくれる。明治時代の交通手段は、こういうような乗り心地だったのかと改めて思って、面白かった。途中で、二人の舞妓さんがひょこひょこ歩いているのに出会う。でも、挙措がどこかぎこちない。ああ、これは観光客が変身しているいわゆる「おばけ」さんだなと気が付いた。そうかと思うと、高層の建物があり、空に突き出すような形の長い角を持っている。これは、なかなか見学できないので知られる祇園閣である。車夫のお兄さんの説明によると、ホテルオークラ大倉財閥の総帥だった大蔵喜八郎が、90歳のときに別邸として建てたとのこと。その経緯も面白い。京都には金閣と銀閣があるのに、どうして銅閣がないのだろうと思いついたことに始まるらしい。オリンピックのメダルではあるまいし・・・。ちなみに、形は祇園祭の鉾を模し、高さは34メートルもある。その頂点には鶴が置かれているが、これは喜八郎の幼名「鶴吉」にちなんでいるとのこと。なお、通常は非公開であるけれど、たまに突然、公開されることがあるらしいが、それはいつかはわからないとのこと。この境内には、石川五右衛門のお墓もあるという。

高台寺の庭と桜の花


霊山観音


二年坂の舞子さんの看板


 人力車はねねの道を通り、高台寺に着いた。車夫のお兄さんにお礼を言って降り、まず圓徳院に入った。こちらは、ねねの没後9年目に木下家の菩提寺として設けられたお寺で、秀吉の出世守り本尊「三面大黒天」がある。その隣の掌美術館は、豊臣秀吉の肖像画などがある。それらを見終えて、いよいよ高台寺に入った。前回、紅葉の季節に来たときは、もう暗くなっていたが、今日はまだ明るいうちである。方丈に入ってお庭を見たら、右手にはピンクの枝垂れ桜があり、白い砂を敷かれた枯山水のお庭の、なかなか良いアクセントになっている。

産寧坂の階段


おたべ人形


ライトアップされた清水寺の三重塔と桜の花


 高台寺を見終わり、前回と同じく二年坂から産寧坂を通って清水寺まで歩いて行った。人々の往来がひっきりなしである。あたりはだんだん暗くなってくる。しかし、清水寺は、夜間の拝観をしてくれているらしい。道を往来する人波に揉まれながら坂をふうふう言ってあがり、やっと登り切ったところが清水坂である。そこから左の方向に進むと、正面には大きな仁王門があった。ライトアップに門の朱色が映えて、実に美しい。驚いたことにその左奥からはレーザーらしき光が空に向かって一直線に伸びている。門の右後ろには、暗い中を桜の花らしき姿がぽっと浮かんでいる。これはこれは・・・幻想的な風景だ。西門と三重塔脇を抜けて本堂に向かう。そこから、京都市内の明かりが一望できる。特に暗い空に浮かぶ京都タワーの姿が、まるで蝋燭みたいで素晴らしい。暗がりの中を人波に混じってさらに進み、清水の舞台と市内を見渡すことができるポイントに着いた。ここは、秋の紅葉の季節でも眺望が良い。そこからは、清水の舞台だけでなく、真下にライトアップされている染井吉野の桜を見ることが出来る。いやいや、これは見事である。たくさんの写真を撮ったが、何しろ三脚が使えないので、どれくらい使えるものがあるかは、心許ない。それでも、何枚かはブレない写真があるだろうと期待する。そこからの眺めを堪能して、坂をゆっくり下りていった。宿のホテルに着いたときは、さすがに足が疲れていた。

ライトアップされた清水の舞台と京都市内


ライトアップされた清水寺の池に映る桜の花


ライトアップされた清水寺の三重塔と桜の花


 その翌10日には、金閣寺、龍安寺、その湯豆腐屋、桜のトンネルを通る嵐山電鉄に乗り、京都の桜を堪能した。まずは金閣寺である。金閣の御札拝観の入口でいただいたのは、例年通り、金閣の御札である。それには「開運招福、家内安全、如意吉祥」とある。この御札は、何というか・・・もう有り難すぎて・・・折り曲げられないので、いつも始末に困る。しかし、この日はちゃんと用意があって、折れ曲がらないように工夫して、東京まで持ち帰ることができた。それはともかく、この日は、肝心の金閣を見る前に、方丈が公開されていたので、先にそちらに入った。こちらは、「江」の娘である東福門院和子ゆかりの場所だという。つまり、その夫である後水尾天皇が江戸時代に再興し、そこに皇后たる和子が本尊の聖観世音菩薩を本尊として寄進したらしい。なるほど、しかし・・・ゆかりがあるといえば、そうかもしれない。方丈前庭は、率直な感想をいえばあまり美しいというものでもない。ただし、庭石は古びているだけでなく苔むしていて、それなりの風格があった。脇には、陸舟松というものがあって、これは見事な古松だ。確かに、金閣前の鏡湖池に船出しそうな形をしている。これは一見の価値があった。そのほか、あちこちに杉の一枚板の上に、最近の画伯に描いてもらった花の絵がある。森田りえ子画伯には冬の椿と春の牡丹、石踊達哉画伯には恁う紅白梅図、遠山桜というもので、これも、年を経るごとに、鑑賞に堪えられるものとなるだろう。なお、方丈の一室には、初代の鳳凰つまり金閣の頂点に置いてある鳥があった。ちなみに、今の鳳凰は、三代目だという。それでは、二代目はというと、初代から二代目に代えられてしばらくして、あの昭和25年の放火による焼失事件があり、それで喪失したという。

金閣寺


陸舟松


 いよいよ金閣前の鏡湖池の方へと行く。ああ、真っ青な空と緑の山を背景に、金に輝いて建物がすっくと建っている。池の中には、葦原島が浮かんでいる。いつもながら、これはすごいと息を呑む美しさだ。高く上がった日差しが、金に映えて、きらきらしている。足利義満が極楽浄土をこの世に現したといわれるのも、宜なるかなという気になる。義満の死後は、その遺言通り、夢窓国師を開山として、義満の法号鹿苑院からとって鹿苑寺と命名されたという。

龍安寺の石庭


龍安寺の石庭


龍安寺の石庭


 その鹿苑寺(金閣寺)から、大雲山龍安寺に向かう。こちらは、徳大寺家の別荘だったものを1450年に管領細川勝元が譲り受けて、妙心寺の義天玄承を開山として創建された。方丈に行こうとして、大きな鏡容池の周りを回っていると、途中に大きな枝垂れ桜があった。しかも、ピンクと白で、その姿が誠に美しい。気がつくと家内を放っておいて、思わずその周囲で写真を撮っていた。こちら龍安寺の見所は、もちろん方丈の前庭の枯山水である。白い砂が一面に敷かれた大きな庭のあちこちに、色々な形の石が置かれ、しばしそれを眺めていた。正面の石の上には、ピンクの枝垂れ桜が豊かな花を付けて、枝を差し掛けている。これら全体を一望して、天と地、人と花、昔と今、行く末と来た道、親と子、友人と同僚など・・・様々なことを心に思い浮かべる・・・とよいのだが、そこは凡人のゆえ、何も浮かばなかった。煩悩を取り払い、解脱の心境に至るには、まだまだ時間をかけなければいけないようだ。

龍安寺の「吾唯知るを足る」のつくばい


龍安寺の桜の花


 龍安寺の石庭を出て、例の「吾唯知るを足る」のつくばいがあった。昔に比べて、やや古びてきた。それを眺めて、方丈に別れを告げた。帰り道に鏡容池を来たときとは反対側に回って行ったら、湖畔の桜が美しかったので、感激をした。そこで、池と湖畔の桜の写真をいろいろな方向から撮ったのであるが、なかでも池に浮かぶ弁天島と伏虎島に咲いた桜の木が見事だった。満足して先に進むと、「湯豆腐」とある。そういえば、もう午後2時を回ってしまっている。では、ここで食べようということになって、入ってみたところ、とても趣味のよい庭と池がある。そこに枝垂れ桜が重たそうに枝を垂れていて、ちょっとした建物がある。外廊下に敷いてある緋毛氈の色が鮮やかで、目に染みるようだ。

龍安寺の湯豆腐屋さんから眺める桜の花


龍安寺の湯豆腐


 お店に入ってみると、お昼のピーク時を過ぎたはずなのに、まだお客さんが一杯である。しかし、何とかひとテーブルに座らせてもらった。メニューの一番上に書いてある料理を頼み、待っていると、典型的な京料理のセットをまず持ってきてくれた。チマチマとしていて、一口ごとに味わうという、いつもの京料理だ。それを美味しくいただいていたところ、しばらくして今度はテーブルの真ん中にドンと湯豆腐を置いて行った。この湯豆腐、絹ごしの綺麗な豆腐で、喉にツルリと入っていく。一緒に入っている大きな椎茸と野菜との組み合わせも大変おいしい。これは良い料亭で、来てよかったと家内と話し合った。そこから庭を眺めると、さきほど見た枝垂れ桜が美しい。満足して、店を出たその帰り、庭を歩いていると、庭師のおじさんにたまたま遇って、言葉を交わした。よもやま話をしていると、その人は、大手百貨店を退職した方で、香港の店舗の経理部長をしていたとのこと。それで、退職後に畑違いの仕事をしたくて、知り合いだった住職に頼んで、こちらの植木の世話をしているそうな。第二の人生というわけである。ところで、その人にあの店の絹ごしの湯豆腐は美味しかったというと、「皆さん、そう言わはりますけど、あれは絹ごしやおへん。綿でっせ」と言われた。

龍安寺の桜の花


 それやこれやで、龍安寺を出て、はて、どうやって京都駅に出ようかと思っていたところ、嵐山電鉄はこちらという看板があった。それをたどっていくと、その名も龍安寺という駅がある。それに乗って帷子ノ辻駅で乗り換え、嵐電天神川で地下鉄に乗り換えればよいらしい。途中、宇多野駅と鳴滝駅の中間に、有名な桜のトンネルがあった。長さは200メートルだったらしいが、いざその中を通ると、あっという間だったが、ちょうど川の土手に咲く桜のようなものだった。華やかで、美しくて、儚い夢のようなトンネルである。

嵐山電鉄のラッピング電車


 楽しい思い出を残し、心残りではあったが、そのまま帰京した。東日本大震災からほぼ1ヶ月、いろいろな意味で疲れたが、この京都への旅は、良いリフレッシュの機会となった。まだ福島第一原子力発電所については、事故が収束する見込みは、まったくついていない。この先、目鼻がつくのにあと数ヶ月、完全に収束するには数年単位の期間が必要だろう。我々東日本の人間は、体内に原発という時限爆弾を抱えているような感じで、この先を過ごさざるを得ない。まだ再臨界の可能性はゼロではないし、水蒸気爆発をして原子炉格納容器が破壊され、チェルノブイリのような大事故に発展する可能性も、2〜3割は残っていると個人的には思う。これからも、よくよく報道には注意していかなければならないと思う。


(平成23年4月10日著)
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