「自炊」という言葉を聞くと、私などは、単身赴任の男の人が自宅で一人侘びしくコトコト鍋を煮ている姿を思い出してしまう。ところが最近はそうではなくて、出版社による本や雑誌の電子化が待ち切れず、自分が持つ本などを裁断してスキャナーに取り込む行為のことをいうらしい。そしてどうするかといえば、それをPDFファイルの形式にして、iPadやiPhoneなど最新の情報端末で読むのである。 そのようにすると、あの重たい本や雑誌を持ち歩く必要がないので助かる。しかも、単語単位で検索すると、すぐに出てくるし、だいたいあの嵩張る本の保管スペースが節約できるのが良い。早い話、書庫というものがなくてよいのである。私は、学生時代に下宿のおばさんから、「こんなに本が多いと、床が抜けるからどうにかしてくれ」などと文句を言われたクチだから、それ以来なるべく蔵書なるものを持たないことにしている。でも、長年の飽くなき知識欲のせいかどうかは知らないが、気を許すとついつい本が増えてしまい、実家の物置を拝借して置かせてもらっている。本が電子化されれば、そういうことも一切なくなるわけだ。 しかし、そうすると、「本を広げたときの、あの印刷インクの香りが好き」などという伝統的な楽しみ方も出来なくなるし、もちろんページをめくる楽しさもなくなる。そういう前時代的な感傷は別としても、すべての本が電子化に適しているとは思わない。私が見るところ、たとえば大学の教科書のように、勉強のために何度も読み込んで使うという類の本には向かないが、新書、雑誌のようにちょっと手軽に知識を仕入れるための本などには適している。そのほか、小説本のように一度これを読んでしまったら、よほどのことがない限り再び読むことはないだろうけど、捨てるには忍びないと思われる本についても、電子化は最適な保管方法である。保管や検索があまりに手軽だから、また読みたくなるということもあるだろう。 また、私の仕事柄、たとえば主要な法律の解説書を電子形態にして常時持ち歩けることができれば、これは鬼に金棒となる。現在、我が国のすべての法律と政省令と主要な判例をWeb経由の電子形態で提供するサービスがあるが、これは実に便利である。そのおかげで、私は自宅に法令集を備え付ける必要はなくなった。だから私は、電子化の威力については、よくわかっているつもりである。 実は私、まだiPadは買っていないが、iPhone 4Gで、ときどき文庫本を読んでいる。使うのは、Sky Bookというソフトである。たとえば昨年末以来、寺田寅彦全集という100冊を超える電子データをiTuneからダウンロードした。ちょっとした待ち時間の間に、ひとつひとつ読んでいって、そろそろ全巻を読み終わる頃である。この明治から大正にかけての碩学の長老は、専門の物理学にとどまらず、色々なことに関心と興味を持って、人間味のあるエッセイを書き綴っている。だから、私は毎日それを読むのを楽しみにしていた。ところが、そろそろそれを読み終わる頃となった。次の電子ブックとして、たとえば漱石や鴎外のような明治文学を読むのも悪くはない。しかし、最近の文章がどうも読みたくなった。この経験で、電子形態で読むのに慣れたからだろう。 ところが、電子書籍が読めるiPadやキンドル、シャープのガラパゴス、それにスマートフォンがどんどん広がりつつあるというのに、肝心の読みたいものが見当たらないのである。たまにあっても、漫画ばかりで、実に馬鹿馬鹿しい限りである。インテリ向きの電子書籍が圧倒的に不足している。読者としては、たとえば新書や月刊誌などのコンテンツがその発売と同時に電子形態で売り出されるのを望んでいるというのに、それがない。ついでに、この際、合わせていわせてもらえば、電子書籍は印刷や流通費用がかからないわけだから、その分だけ本より安いというのであれば、もちろん喜んで買いたいところである。 しかし、そんな出版社は、なかなか現れない。以前、私が「iPadの衝撃」で書いたように、著者と読者とが直結してしまい、出版社が中抜きされてしまうことを懸念しているのかもしれない。実は私もそう思っているから、その懸念は、おそらく当たっていると考える。ところがそれは出版社側の勝手な都合に過ぎないから、読者としては、せめて日常読んでいる本や雑誌ぐらいは早く電子化してくれないかと願う。でも、遅々として進まない。そういうとき、読者がしびれを切らして買ってきた本や雑誌を自分で電子化するというのが、ちまたで最近はやっている「自炊」なのである。 そういうわけで、私もやってみようかという気になった。私の場合、普段から仕事がらみで膨大なA4版の資料を扱うから、まずはそれをPDF形態でもらおう。そういう文書はもともと一太郎やWordで作られるから、それをPDF形式で出力してもらい、その文書の作成者に頼んでメールで送ってもらうだけでよいから、まあ簡単だ。これが第一段階である。 次の第二段階は、参考となる法律の専門書をすべて電子化してしまうことである。そこで、これに手を付けることにした。本を裁断したりスキャナーで読み取ったりするのは、ちょっと面倒かなと思ったけれど、まずはやってみてから考えようということで、必要な資材である裁断機とスキャナーを用意した。手動裁断機は、プラスのPK-513L、スキャナーは富士通のScanSnapのS1500というものだ。 まったくの素人だから、最初、手動裁断機を見たときに、切るための本を入れる隙間の厚さが、いやに薄いなと思った。そして、試しに月刊誌「文芸春秋」を差し込んだところ、本が分厚くて、裁断部分の隙間に入らなかった。法律の本というのは、少なくともこれくらいの厚みがあるから、これは間違ったものを買ってしまったかと思った。そこで裁断機のパンフレットを読み返すと、この月刊誌の場合は500頁を超えているからその半分の250頁を切る能力がないといけないのに、この機械が切れるのは、たかだか200枚程度にすぎないことがわかった。その価格は2万円台と手軽なものではある。しかし、もっと厚い本が切れる性能のものでないと役に立たない。そう思って、さらに上の性能の裁断機をカタログで探した。すると、400頁以上の紙を切れる機械が確かにあるのだけれども、その仕様を見てびっくりした。なんと重さが25キログラム、価格が16万円もする!これはプロ仕様なのだろうか、価格が8倍にも跳ね上がるし、そもそも25キロは重すぎる。 なるほど、素人には、私が何も知らないで入手したこの機械くらいがちょうどよいのかと納得する。それでは、「自炊」している人は、いったいどうしているのだろうと疑問に思った。すると、以前は図書館員だった私の秘書さんが、「背表紙のところをカッターで切ればいいんですよ。昔よくやっていましたから」とのたまう。思わず、「それはどんな時か」と聞き返したくなったが、そういう嫌みなことはやめにして、切ってもらうことにした。いきなりハードカバーの本で試してみて失敗すると悲しいから、捨てるつもりだった月刊誌の文芸春秋を渡した。すると、いとも簡単にカッターで切れるではないか。案ずるより産むがごとしである。 ところがこのPDFファイルでは「絵」の状態となっているから、検索は出来ないのではないかと疑問に思った。そこで、そのソフトのメニューを見たところ、「検索ができる状態にする」つまり「絵」の状態からOCRの技術で読み取って文字に変換してくれるらしい。それを動かしたところ、少し時間がかかったけれど、数分内に終了した。元のPDFファイルに埋め込まれたらしく、ファイルの量が少し増えている。またそれだけでなく、その読み取った結果をWord文書にもしてくれるらしい。それを試したところ、読み取り結果が出てきた。ざっと見たところ、まあ99%近くはそのまま使えそうだ。実用のレベルに達している。 それを、今度はスマートフォンのiPhone 4Gで読めるようにしたい。それはどうするのかと思いながら、パソコンのiTuneを動かした。すると、既にiPhone 4GにインストールしてあるソフトGoodReaderで、簡単に読めるように出来た。そして、iPhone 4GでGoodReaderを立ち上げたところ、ちゃんと出てきた。しっかり読める。なるほど、こうするのかと、やり方がわかった。でも、新書版程度ならこれでよいけれど、これが法律の専門書くらいの大きさになると、iPhoneは画面が小さいから、いささか読むのがつらい。やはり、iPadくらいの大きさが必要である。まあ、必要な本や書類の電子化がすべて終わる頃には、新しいバージョンのiPadが発売されているだろうから、それを買うことにしよう。 その翌日となり、いよいよハードカバーのちゃんとした本の自炊に挑戦した。こんども失敗してもよいように、ダミーの単行本「ホーキンス宇宙と人間を語る」を使った。しかし今回は、表と裏のハードカバーが本をしっかりガードしている。本を机の上に置いて、私がどうすべきかと思案中に、またもや秘書さんが「ああ、やってみましょう」と、いとも簡単に言う。「でも、大丈夫かね。今度は雑誌と違って、固そうだよ」と聞くと、「ああ、こういうものは、ハードカバーさえ取り外せば、あとの中身は雑誌と同じですから」と答える。「では、怪我しないようにやってみてください」と頼んだ。 すると、ジャーッという紙が引きちぎられる音が一回して、続いてカターッ、カターッと軽快な音が二回聞こえただけで、切ったものをすぐに持ってきてくれた。あっけにとられていると「はい、出来上がりました。だけど、せっかくの本なのに、もったいないですね」と言う。「ああ、確かにね。こんなに良い本なのに、作ってくれている製本業の人が聞いたら、卒倒するかもしれないけれど、このままだと、単に押し入れの片隅でほこりを被って忘れられ、何年か経って引っ越しのときには捨てられる運命は明らかだからね」と答えたところ「そうですね」と言う。振り返ってみると、これが過去のしがらみを断ち切った瞬間である。これで、本を切ってつぶしてしまうことへの躊躇はなくなった。 あとは、例の裁断機でそれを3回に分けて切り、それからスキャナーを動かす手順は同じ。最後にその三つのファイルをソフトで結合して、出来上がりだ。iPhoneにそれをコピーしてみたところ、ちゃんと読めた。よしよし、これで自信がついた。では、そろそろ本格的なハードカバーの本に取り組んでみよう、これもうまくいけば、蔵書全般の電子化の手始めとなる。そこで、私の書いた491頁に及ぶ法律の専門書で試してみた。まず、ハードカバーを外して4分冊にし、スキャナーに読み取らせた。そのPDFファイルを、やはり同じような手順でひとつのファイルにすることが出来た。これに要した時間は、30分から40分ほどで、それをiPhoneにコピーしてみたところ、ちゃんと読めるようになった。もっとも、自分で書いた本だから、そんなものを常時持ち歩く必要もないのだけれど、大学院での講義の機会などでちょっと使えるかもしれない。そうそう、ついでながら、こうして結合したPDFファイルの容量が多いと感じたときには、これをソフトで「最適化」するとよい。そうすれば、ファイルの分量が2〜5割ほど減るので、保管や読書をするにはこの方がよいと思う。ちなみに、ファイルの分量は、私の書いた491頁に及ぶ法律の専門書では19.2MB(最適化前は、24.2MB)となり、新書では白紙部分が多いせいか、4.7MB(同じく8.5MB)と半減した。 しかし、なにがしかの感慨がないかといえば、嘘になる。たとえば、こうして私の本の自炊している最中にも、この本を書くときに世話になった編集者の顔が思い浮かぶ。しかし、これぞ高度情報社会の行き着く先である。彼には悪いが、編集者と出版社は、あたかも馬車の世界が急に自動車の世界へと変わって、失業せざるを得なくなった御者と馬車メーカーのようなものかもしれない。そういうときには、縮小していく旧世界に歯を食いしばってとどまるか、あるいはひたすら前を向いて新世界を探すしかないのである。いずれにせよ、それはごく近い将来に必ず起こる痛みを伴う変革である。(注) ともあれ、今日のところは私の試みは、非常にうまくいった。明日より、待ち時間を使って、一日一冊のペースで、私所蔵の法律書を順次、自炊していこう。先は長いが、一年もあれば終わるだろう。 以上のような次第で、私も自炊族の仲間入りをしてしまった。まるでデジタルの世界へ単身赴任をしているような気分である。 (注) その後、私の友人の編集者に会った。私は別に自炊のことは言わなかったが、彼は彼なりに、書籍の電子化時代の恐ろしさを感じ取っているようだ。彼の話によると、アメリカで出版された本の翻訳本が日本で売れているのを見て、その原著の出版社(もちろん、アメリカの会社)がその翻訳者に連絡をとり、同じ翻訳本を25%の印税で電子出版して稼いでいるそうだ。これまでの日本の業界慣行では、翻訳権を得た日本の出版社と翻訳者との間で印税の10%を二分するから翻訳者には5%しか支払われなかったが、それが5倍の25%になるから翻訳者は大喜びし、そのアメリカの出版社も現に売れている書籍を電子化するだけだからリスクはゼロで稼げるということである。 (平成23年2月 9日著、14日追加) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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