悠々人生のエッセイ



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  関 連 記 事
 初孫ちゃんの誕生
 初孫ちゃんは1歳
 初孫ちゃんは1歳4ヶ月
 初孫ちゃんは1歳6ヶ月
 初孫ちゃんもうすぐ2歳
 初孫ちゃんは2歳2ヶ月
 初孫ちゃんは3歳4ヶ月
 初孫ちゃんは3歳6ヶ月
 幼稚園からのお便り(1)
10  初孫ちゃんもうすぐ4歳
11  幼稚園からのお便り(2)
12  初孫ちゃん育爺奮闘記
13  初孫ちゃんは4歳3ヶ月
14  初孫ちゃんは4歳6ヶ月
15  孫と暮らす日々


 私たちの初孫ちゃんが2歳2ヶ月を超えた。私は、つい2週間前に、家族全員が集まる機会に会っただけで、それ以降は仕事が多忙なため、最近の様子を知るチャンスがない。誠に残念であるが、その代わり、週に何回も会いに行っている家内の話を交えながら、近頃のエピソードを思いつくままに書き記しておきたい。

[甘える先] その2週間前の家族全員の会合のとき、両親に連れられて、畳の上に降ろされた初孫ちゃん、遠くから私を認識し、まず私のところに走り寄ってきた。そして、ちょこんと私の膝の上に乗ってくれた。そのとき、3週間くらいは会っていなかったのに、覚えていてくれるのか心許なかったが、なかなか記憶力がよい。またそれだけでなく、真っ先に私に向かって来てくれたということで、これはうれしかった。おじいちゃんとしては、本当に感激したのである。

 料亭で開いたその会合では、10人近い参加者は、日本間の大きなテーブルの周りにぐるりと座った。すると初孫ちゃんは、その参加者の周りをまるで昔のハンカチ落とし遊びのようにぐるぐると回って、誰のところに甘えに行こうかと考えていたようだ。そして、目指す人のところに行ってもたれかかり、その食べ物を分けてもらっていた。誰のところに行くのかと観察していたら、すべてこの半年くらいの間に、少なくとも一回は会ったことがある人ばかりであることに気が付いた。なるほど、初めて会った人には、たとえその場に両親がいても、近付かないということだ。

 面白かったのは、パパがそうした様子を心配して、一度、嫌がる本人を抱き上げて、自分の席に着かせようとしたことがあった。「イヤーょ」と泣き叫んで抵抗した初孫くん、それ以来、その大きなテーブルの周りを回っても、パパには決して近づこうとはしなかった。近づくと、逮捕拘留されることがわかったと見える。

[お兄ちゃん] 2歳を超えた初孫ちゃんは、もう自分は赤ちゃんではないのだという自覚があるようだ。たとえば、バギーに乗るのを強く拒否する。それでも乗せようとすると、「嫌モン」といって、手足をばたつかせて抵抗する。それで、仕方なく手を引いて歩かせるが、それで1キロでも2キロでも休みなしで平気で歩く。2歳の子供って、こんなに体力があるとは知らなかった。

 ところで、初孫ちゃんに向かって「ボクは、赤ちゃん?」と聞くと、直ちに「違う!お兄ちゃん」と答えるから、面白い。最近はその答えが「ううん! 立派なお兄ちゃん!」となったから、大笑いしてしまった。ママから教えられたらしい。昨日、街を歩いていて、バギーを押したお母さんとすれ違った。それをじーっと見ていた初孫ちゃん、通り過ぎたバギーを指さして、「赤ちゃんだ!」と大声で叫んでいた。自分も、おむつをしてまだほ乳瓶でミルクを飲んでいるというのに、気分は確かにお兄ちゃんらしい。

[自分でやる] そんなものだから、何でも自分でやろうとする。たとえば、冬物のジャンパーのジッパーである。教室での授業が終わり、帰ろうとすると、どうしてもジャンパーを着なければならない。それを羽織り、ジッパーを閉めようとして、四苦八苦している。何でも代わってしてしまうと、子供の自主性が育たないから、しばらくそのままにしてやらせておくのだけれど、数分も経てばそのうち後のクラスの人が入ってくるから、手を出さざるを得ない状況が生まれる。そこで、ちょっと手出しすると、「イヤーダ」と拒否する。それでも、10分も経つと疲れてくるから、それでやっとやって欲しいという仕草をするので、代わってあげるということを繰り返している。

 ところが、これを書いて2週間後、自分でジッパーを外せるようになった。いつも帰宅直後に、靴を脱いで揃え、それから外出着を脱ぐという訓練をしている。その結果、いつの間にか、靴を脱いで揃えることは、出来るようになった。そして、ジッパーも外せるようになったが、それから袖が両腕から外れずに後ろ手になったまま、まるでペンギンのような格好をして困っていた。あと一歩というところである。

[断られると] だんだん感情が複雑になってきた。グランマ(家内)が携帯電話を開いていると、近づいてきて、それを横から取り上げようとする。普通なら、借りるときは「貸して」、返すときは「ありがとう」と言いなさいと教えている。しかしそのときはたまたま大事なメールだったので、「ちょと後でね」と断った。すると、うなだれていかにも寂しそうに離れていったから、かわいそうになって、「ハイ、終わったから、貸してあげるね」といって携帯電話を渡そうとした。すると、「いらない」と言って、真横に首を振って断ったので、びっくりしたそうだ。ははぁ、拗ねることも覚えたらしい。

[小さなウソ] お母さんが休みの日、お母さんと二人で過ごしている初孫ちゃん、うれしくて仕方がない。他方、お母さんとしては、たまった家事を片付けなくてはならない。それで、初孫ちゃんを台所から出して、しばらく洗い物をしていた。すると初孫ちゃんが小さく「ウンチ出た」と呟いた。お母さんが振り向いて「何っ?」と言って体を触ろうとすると、ちょっと微笑みながら「出ていないの」といったそうだ。なるほど、自分の持っているカードを切って、駆け引きが出来るようだ。これが2歳になったばかりの子がすることかと思う。

[ご自慢の靴] よく歩く上に、足がどんどん大きくなって、月に一回は新しく靴を買っている。最近の幼児用の靴は、スポーツ・メーカーが出しているものが多くて、デザインが良い。ただそれでも、どのメーカーの靴でもよいかというと、そうではないようだ。とりわけ外国メーカーのものではなく、日本メーカーのものがぴったりする。こんなに小さいのに、どうも足の形が日本人らしく幅広のようで、物理的にそうなるらしい。

 先月買った新しい靴は、そうした日本メーカーの作ったもので、青色を基調としたバスケット・シューズのような形をしていて、紐の色が黄色で、とても格好がよい。それを履いて英語学校に行くと、通りかかった先生たちが、「Wow! New shoes! Wonderful!」などと褒めるものだから、本人、とても気持ちがよくなったらしくて、家内が行ったときに「ニュー・チューズ」などといって自慢していたそうだ。

 それから一月ほど経ったとき、また新しい靴を買って学校へ行った。すると、前回靴を褒めてくれた先生が通りかかったのを見た初孫ちゃん、先生に「ニュー・チューズ」と叫んだものの、急いでいた先生は、あまり反応を示さずにそのまま通り過ぎてしまった。初孫ちゃん、がっくりとした様子で首を垂れて、回れ右をして家内のところに来たそうだ。つまりこれは、一月前にこの先生に、靴を褒められたという記憶が残っていて、とっさにそれを思い出して行動したことを意味する。記憶力と応用力が良い証左であるから、安心した。先生の反応がなくてがっかりしたらしいが、世の中、思い通りにならないこともあるということを知っただけでも、良かったのかもしれない。

[人間の盾] グランマ(家内)とシッターさんとの間に初孫ちゃんがいて、黙々とおもちゃで遊んでいる。シッターさんが、「はいはい、おむつ代えようかな」と小さくつぶやき、振り向いておむつが入っている引き出しを開け始めた。すると、初孫ちゃんはそのつぶやきを聞いたとたん、おもちゃをもってすーっと立ち上がり、グランマの背中の影に隠れて、何食わぬ顔をしてその遊びを続けている。それがとても自然だったので、最初は何かと思っていたら、次の瞬間、今度はグランマの膝の上に乗って、また遊び始めた。それでグランマがふと横を見たところ、ちょうどシッターさんがおむつを持って初孫ちゃんに向かってきたばかりのところだったという。ああこれは、次に何が起こるのかを予測して、味方になってくれるグランマの体を人間の盾として使ったのだとわかったそうな。幼児といって、馬鹿には出来ない。人間以前に動物としての必要な本能が確かに備わっている・・・なかなか高度な知能である。

[おいちい] 何でもよく食べるようになった。そして、食べ物を口に入れると、「おいちい」と言う。ママとしては、うれしい限りである。そのうち、出された食事を見て、たとえばカレーライスのごはん部分をスプーンでほぐしながら、「これ、おいちいね」と言う。以前に食べたときの記憶と照らし合わせて、口に入れたときを想像してしゃべっているのである。ただ、酸っぱい物は、まだ苦手のようだ。しかしそれでも、ほんの2月ほど前には食べられなかった苺を、ぱくぱく食するようになった。一歩一歩、味覚も進んで来ているようだ。

 既に半年ほど前から、ホテルのバイキングに連れていくと、まだ幼児だということで一円も支払っていないのに、あの大きな一皿に盛られた食べ物をすっかり平らげるので、両親が恐縮していた。それで、何を食べたかと聞くと、パンやスープと並んで、フォアグラ、キャビア、トリュフという世界三大珍味だったというから、笑ってしまった。これは、将来よほど美味しいものを食べさせなければいけないから、大変だ。

[鉄男くん] 前回のエッセイでも、新幹線が大好きだと書いた。たとえば、お昼寝の時間になると、「ぼく、チィンカンチェンと寝る!」と叫んで、新幹線の模型を小脇に抱えて、長い廊下を左右にぴょこぴょこと傾きながら走っていく。もちろん、新幹線オンリーでなくて、在来線についても興味津々である。外出からの帰り、本人に「タクシーにする?それとも電車?」と聞くと、決まって電車という。

 あるとき、外出先の駅から乗ろうとしていると、その名も、桃太郎という力強い名前の貨物列車が、グランマ(家内)と初孫ちゃんの待っていたホームに入って来た。しかもそれは、たくさんの石油コンテナ車を牽引していたのだが、そのひとつひとつの貨車が、自分の持っている模型鉄道(グリーンのBRIO)の容器にそっくりだった。それらがガタンゴトンと音を立てて堂々と目の前を通過するものだから、初孫ちゃんはもう大興奮してしまった。列車が遥か向こうに見えなくなるまで、ずっとずっと見送っているという、可愛い鉄男くんぶりを発揮していた。

[シッターの役割] 娘夫婦は共稼ぎの上に、双方とも最近はやりの言葉で「超」多忙なものだから、子供の世話のかなりの部分は、シッターさん(nanny)に頼らざるを得ない。ところが、これを一度でもやってみたらわかるが、大変な重労働なのである。世の中の専業主婦といわれる奥様方は、こういう、敢えていえば「仕事」を、自分の子供の数だけ毎日毎日こなしているのだから、実に頭が下がる思いである。私の場合は、前回のエッセイでも書いたが、家内と二人で、わずか6時間やっただけで体が悲鳴を上げてしまった。自分の孫ですらそうなのだが、これを赤の他人が引き受けてやれといわれても、私なら御免被るところである。

 しかし、そんな仕事を引き受けてくれる人もいるのが、世の中面白いところで、それなりの謝礼さえ払えば、やってもらえる。しかし、大事な子供を預けて、そういう英語学校に連れて行ったり、食事をさせたり、運動させたりするのだから、女学生のアルバイトというわけにはいかない。それで、そういう方を派遣していだける専門の会社がちゃんとあって、そこに依頼しているようだ。こちらの条件としては、子育てを経験した40〜50歳代の方で、保育士なり小学校教諭の免許なりを持っている方ということにしている。一度、その自宅で音楽教室を開いている方に来ていただいたら、赤ちゃんを抱いて、美声で何曲も子守歌を歌ってくれて、びっくりしたそうだ。なお、最近は英語を習っているから、できれば英語対応の方をお願いするようにしているが、割増料金を支払う必要がある。いずれにせよ、良い方に来てもらえれば、子供は幸せだし、親としては本当に安心できる。しかし、良い方ほどあちこちで引く手あまたで、取り合いになることも珍しくない。

[グランマの役割]   そういう中で、一週間通してお願いするということは、激務であることもあり、事実上不可能なので、どうしても一日ごと、都合のつかないときには、半日ごとにお願いするという羽目になる。中には相当遠くから、2時間も通勤して来ていただいている方がいるが、こういう方は、もう損得抜きで、なにがしかの愛情とやり甲斐を感じて来ていただいているのだと思う。いくら感謝してもしきれないところである。ところが、やはり体力と注意力の限界があって、そうしょっちゅう来ていただくわけにはいかない。そうすると、新しい人が入れ替わり立ち替わりどんどん入ってきて、親の目が届かなくなる。そういう場合に、新しい人がまごつかないように、そして初孫ちゃんが心理的に不安定にならないようにと、グランマ(家内)の出番となる。それなら、家内が一日中面倒を見ればどうかということになりそうだが、たとえ孫のためといっても、とてもとても体が続かない。気持ちはあるが、お人形さんのような女の子などと違って、これほど活発に動き回る男の子の世話は、もはや体力の限界である。そんなわけで、我がグランマさんは、初孫ちゃんの精神安定剤のような役割を果たすにとどめ、そのために週2〜3回、せっせと楽しそうに出かけている。私としては、とっても羨ましい。

 ちなみに、そうしているうちに、家内がいうには、「あの子は、子供として扱わない方がよい。何か気に入らないことがあったら、よく話を聞いてその希望通りにしてあげるか、あるいは危険があるなどの支障があるときはそのことをよく説明してあげれば、納得して無理は言わなくなる」らしい。こうした「説得の技」だけでなく、気に入らなくて、ポンポンものを投げ始めようとする孫に、ちょっと気を引くものをあげて、それに集中させて気が収まるまで待つという「熟練の技」も、いくつか開発したらしい。ベテランの味というわけだが、なかなか面白い。伊達には歳をとっていないということか。

[英話学校] 日常生活では当たり前の常識になっていることが、実はそうではなくて、あるとき何かを見聞きしたことをきっかけに、突然その常識が崩れてしまうことがある。私はつい最近、そういうことを経験したのである。それは、まだ生まれて1歳と11ヶ月しか経っていなかった頃の初孫ちゃんが、とある英語学校で英語のレッスンを受けていたときのことである。

 前回のエッセイで書いたことであるが、初孫ちゃんは、幼稚園児用のものより、もっと小さな机と椅子に座り、イギリス人の先生と一対一になった。先生がキリン、ライオン、シカ、ヘビなどの模型を次々に出して、それを英語で言っていく。それが終わると、それらを机の上に並べて、ライオンはどれかと聞く。すると孫は、その中から選んで、「Here!」と言って差し出す。まだ初めて1ヶ月しか経っていないというのに、6つあった動物のうち、間違ったのはたったひとつだけである。先生は、「Good Job!」と言って褒め、間違っても決して叱らない。それから、「A、B、C・・・」のアルファベットが書かれたカードを取り出して、それを読みながら猛スピードでめくる。そして、それをめくりながら孫に言わせる。驚くことに、そのほとんどを英語でいえた。そうかと思うと、世界の主要国の国旗のカードを出してきて、それを示しながら「England、France、Germany、Holland、Belgium、Japan・・・」などと説明し、それを束ねた上で、「Franceはどれ?」という。すると孫は、その束の中からちゃんとフランスを選んで「Here!」と言って渡していた。オランダとベルギーについては、迷っていたが、そんな国旗なんて、私もよく知らないではないか・・・。

 数字についても同じようにカードで教え、私が行った2ヶ月前のそのときには10までやっていた。そうしたカードでの勉強に飽きてきた頃には、教室に突然、音楽が流れる。孫を立たせて、まず先生が節回しを付け「Head Shoulder and knee and tou ....」などと歌を歌いながら、その順に頭やら肩やらをさわってお手本を見せる。それをラジカセの音楽に合わせて孫に反復させるのである。全身を使うから、かなり激しい運動になるのだが、孫は調子を上げて、今やもの凄いスピードでこれをやるという。また、同じ音楽系として、たとえば世界地図で大陸や大洋の名前を覚えさせるものがある。これは、「North America、South America・・・Pacific Ocean」といい調子で歌い、世界の大陸や大洋を指し示すものであるが、これは満点だった。

 それから2ヶ月ほど経った今は何をやっているかというと、たとえば、ビバルディの四季の音楽を流しながら、先生は「Who did compose it?」つまりこれは誰が作曲したの?と聞くと、孫は流暢な英語で「Vivaldi」と答え、「Which country?」(国はどこなの?)と聞かれると、世界地図でイタリアを指さす。それから、モナリザの絵でも、同じようなことをやっているらしい。それから、最近は数学みたいなものも入ってきて、円、三角形、四角形、五角形、六角形、球、直方体、台形、円錐形を英語で言わせている。また、小さなポールが並べられるものを用意して、紫のポールを1本、青のポールを2本、また紫のポールを1本、青のポールを2本と並べ、さあ次の穴にはどのポールが入るの?と聞く。法則性を見つけさせているようだ。すると孫は、いろいろなカラーのポールが入った箱の中から、紫のポールを抜き出して、その穴にちゃんと入れたそうだ。先生は、「Super Human beings!」と言ったとか言わないとか・・・。

 家で遊んでいるときも、その「North America、South America・・・」という歌のCDがかかると、そわそわする。そして、どこからか世界地図のジグソーパズルを出してきて、歌を口ずさみながら北米大陸などのピースを入れていく。そうかと思うと、「Head Shoulder and knee and tou ....」の歌の場合は、すっくと立ち上がって、各ポーズを決めて体操する。調子に乗ったグランマ(家内)と、これを向かい合わせでやるというから、笑ってしまう。また、別になんの音楽もかかっていないときのことである。四角い箱に三角形、四角形、五角形、丸などの穴が空いているおもちゃを自分で出してきた。これは、その穴の形に合うピースを入れていくので、確か知恵の玩具といわれるもののひとつだが、それでもって、「Circle、Triangle、Pentagon・・・」とひとりでぶつぶつとつぶやきながら遊んでいる。これって・・・信じられないが、自主的に予習をしているのだろうか? 

 前回、2ヶ月前に授業を参観したときは、「さあ終わりというときになった。すると、子供は立ち上がって両手を体に沿ってしっかり伸ばし、直立不動の姿勢になり『Thank you for teaching me, Mr. Jones!』と英語の文章をはっきり言った」と書いた。しかし最近ではそれどころか、それをしゃべった後にお辞儀をし、そのまま回れ右をして右後ろにいるママにお辞儀をし、それからさらに右を向いて、左後ろにいたパパにもお辞儀をして教室から出るという。いやはや、これは何たることか・・・。このお正月の宿題は、自分の名前を英語で書けるようになることだったそうだ。

[最近のレッスン] 授業が始まった。まず、等身大の立体人体模型を先生が持ち出してくる。それを使って、内蔵の位置と名称の学習だ。肺、心臓、胃、肝臓、大腸、小腸、腎臓は取り出したり、元にはめ込んだりの作業を繰り返しながら、反復発音させる。そして、最後は肛門からスルリとなるんだよと、人体を裏返して、お尻の部分を指しながら説明していた。次は、いつものABCと0〜30までのカウント。これらは簡単すぎて、退屈な模様。

 それではというので、理科の実験に移る。水を張ったたらいのようなものを前に、物の浮き沈みについて説明する。幾つかの物体のペアを出して、水に浮く物と沈む物とがあると話し、「表面積が大きいものや空気を多く含む物(空き缶)は浮くね!クリップやピンなど、表面積が小さい物は沈むでしょ!」とやってみせる。初孫ちゃんは、それを見ながら、ぽかーんとして聞いている。わかっているのか、心許ない。そこで、先生はやおら、「これらはどうだ?sink or float?」と聞いてくる。それを答えたら、実際に水の中に入れて正解を見せる。なかなか難しいが、それなりに7〜8割ほどの正解率でクリアーして、素晴らしいと褒められる。けっさくだったのは、先生が「これは浮くよ」といって出してきたものが、・・・あらら。水の中に沈んで、困っていた。それからは、先生は一生懸命に箱の中をかき回して、重たそうなものを探していた。

 さて、ここで疲れたから小休止の後、得意の世界地図の歌を歌った。それで元気が出たところで、絵本に移る。指で指し示しながら、英語で読んでいく。それをフォローさせて、発音させる。そうこうするうち時間となり、先生がグッバイソングを歌った。そして冗談で、「Oh! Sad!!」悲しいなあと、先生が大袈裟に泣く真似をした。すると、初孫ちゃんも、ニヤリとしながらそれに付き合ってエーンと泣く真似しちゃって・・・これがまだおむつをしてほ乳瓶でミルクを飲んでいる幼児とは思えない。先生は、面白くて大喜びし、とっても気が合う師弟関係を築いている。

[朝練を受ける] これまで、初孫ちゃんが受けてきたのは、先生との一対一の40分間のプライベート・レッスンだった。効率は良いのだが、他の子供とも交流させて、社会性を身に付けさせたい。そのために、近く、2〜4人くらいのクラスに入れるという。その編成の参考にするためということで、始業前の時間の早朝に複数の子供を対象に試験的レッスンがあったらしい。初孫ちゃんと一緒に、もうひとり、女児が受講した。歌は一切なくて、直ぐに授業形式である。まず「sad、happy、angry、cold」などを黒板に書き、身ぶりをさせる。次に二人の先生のうちのひとりが、太陽系の惑星を教え、もうひとりの先生がその横からカードを使って説明。いつもの違う雰囲気に、身ぶりが得意な初孫ちゃんも、またその相方の女児も、いずれも緊張して固まったまま。でも、初孫ちゃんは声だけは良く出て、きちんと応答したから褒められた。惑星の場面では、土星を見た瞬間、初孫ちゃんは「Saturn!」と言ってこれまた褒められる。

 次に海の生き物の図鑑が出される。初孫ちゃんは、慣れた手つきで勝手にページをめくりながら「turtle, dolphin, whale」など言い、「How many?」と聞かれたら直ちに答えて、これまた褒められる。相方の女児は雰囲気に呑まれてしまったか、リアクションがまったくないのでかわいそうなほどだ。次に絵本が出されたが、つまらないらしくて初孫ちゃんは足をばたつかせて、先生に注意された。女児も白けた様子。今度は各々にアルファベットが書かれている3つのキューブが渡された。それを並べて単語を作るのが課題で、初孫ちゃんはさっさと仕上げ、先生に褒められる。それで初孫ちゃんだけ終了し、女児は引き続き残って追加の授業を受けていた。まあ、慣れの問題と先行学習をしていたかどうかの違いだろう。

[いつでも撤退] 娘は、この私たちにとっての初孫ちゃんを、有名私立などに入れようとするためにこうして英語レッスンに通わせているつもりでは別にないという。ただ、自分の経験から、言語機能が形成される幼児期から、ともかく英語を耳で聞いて習わせておかないと、中学校やそこらで初めて勉強していては、手遅れだという気持ちでやっているとのこと。我が身を振り返ってなかなか耳が痛い話ではあるが、まったくその通りである。娘はそういう気持ちで、たまたまこの英語学校に通わせたところ、意外と先生と気があって、まるでお遊戯をしているかのように自然に英語を覚え始めたので、これは行けると思ったらしい。それでも、子供の顔をいつも見て、あまり楽しそうでなかったら、いつでも撤退するつもりでいるが、今のところ、大丈夫で、安心しているとのこと。

[掛け合い漫才] 確かに、私が見ても、いつも教えてもらっているイギリス人の男の先生は、なかなか人柄も良く、初孫ちゃんと仲良くなって、最近では初孫ちゃんから日本語の単語、たとえば新幹線とか、のぞみなどを教えてもらっているというから、笑えてくる。また、この先生との掛け合いも、なかなか面白い。たとえば、初孫に向かって先生が、「What is this?」と言いながら、長い両腕を伸ばしてその物体を見せた。すると初孫ちゃんは、先生から聞かれているその物体ではなくて先生の腕自体に注目してしまい、「Oh! Long arms!」長い腕だねと答えて、その腕を撫でたものだから、抱腹絶倒していた。まるで、英語版の掛け合い漫才だと思った。

 こういう授業は、長続きするに違いない。子供に愛情をもって接してくれることこそ、大事なのだと思う。また、出来ればそれだけでなく、子供と思って馬鹿にせず、ちゃんとした人格をもっているひとりの人間として扱ってくれれば、家族としてはとてもうれしい。事実、こちらの学校の校長先生は、配下の先生たちに、生徒がいかに小さくとも「a young gentleman」として接するようにと言ってくれているらしい。

[幼児教育] 2歳前後というこの年代は、まだ言語機能が発達する途中なのであろうか、私の観察では、小難しい日本語より、英語の方がちゃんと発音出来ている。私を含めて並みの日本人なら不可能な「R」と「L」の区別は、できるようになった。「W」の発音は、何度も先生に直されていたが、それで良いといわれた孫の発音も、家内にいわせれば、なぜそれで良いのかよくわからないという状態だったとのこと。それやこれやで、今では私も家内も、変な発音を教えないようにと、初孫ちゃんの前では、英語をしゃべるのを自粛するほどである。

 それにつけても、最近よく思うのは、これまでやって来られた幼児教育というのは、いったい全体、何だったのだろうかということである。今回、孫を通じてわかったことは、こんな2歳になるかならないかの子でも、ちゃんと教育すれば、それに応えてかなりのレベルになるということである。ところが我々が小さい頃は、この年齢だと、単に放っておかれただけである。今、30歳を越している私たちの子供が幼児の頃でさえ、やっとNHKの幼児番組「お母さんと一緒」というのが始まったり、あるいは英語番組では「セサミ・ストリート」が放映され始めた時代であった。確かにこれらは教育的ではあったが、現在の視点では、まだまだ幼稚なリトミック体操のようなものに過ぎなかった。それでも、2歳児となると、何かさせないといけないという気になって、我が家の場合は水泳教室には通わせたが、とても英語やらその他の習い事をさせるという発想すら思いつかなかった。ようやく3歳になって、幼稚園の3年保育に行かせようとした程度で、まあ要するに、この年齢は、まるで未開拓の土地のような感じだったのである。

 ところが、今回、初孫ちゃんの活躍を目の当たりにして、これはこれはしっかりとしたカリキュラムに基づいて良い先生が教育すれば、意外に成果が得られるのではないかという気がしてきた。まるで、ダイヤモンドの鉱山を掘り当てたような気分である。ただし、この分野は、おそらく個人差が大きく出るのではないかと思う。それは必ずしも能力的に出来る子と出来ない子がいるということではなく、子供自体の発達の程度と性格、そして家庭の環境によって、大きく左右されるのではないかと考えている。またもちろん、子供が嫌がるのに、無理強いしては、逆効果である。初孫ちゃんが授業を受けているときにも、隣のクラスで最初から最後まで泣いていた子がいた。こういう子供さんの場合は、おそらくお母さんと二人だけの安定した世界から、急に学校の教室へと引きずり出されて怖がっているのだろう。だからまず、そういう環境に慣れることが先決であり、今すぐに受講させるようなことは、考え直した方がよいと思うのである。

[幼児の哲学] ちなみに、昨年12月22日付けのAFP通信によると、幼児の哲学クラスを追うドキュメンタリー映画がフランスで話題になっているという。それは、愛や死、自由といった大きな哲学的テーマを、3〜4歳児が語り合うクラスを追ったドキュメンタリー映画である。

 それによると、「集中力を高めるために灯されたキャンドルを囲み、子どもたちは車座になる。クラスは簡単な問答から始まり、徐々に重く複雑な問いに移っていく。子どもたちの答えは可愛らしいものから、鋭いものまでさまざまだ。『知性』に関する討論で、ひとりの子は『うちのお母さんはヌテラ(Nutella、ヘーゼルナッツチョコレートスプレッドの商品名)を冷蔵庫に入れないから』知性があると言った。大人のほうが子どもよりも知的か、という問いに別の子はちょっと考えてから『そうでもないよ。だって、大人は僕たちに『おまえはなんにも知らない、おまえはなんにも知らない』って言うけれど、僕たちは色々知ってるからね』と答えた。『自由とは何か』を考える回で、ある子が『自分の好きなふうでいられること、息が吸えること、子どもでいられること』と答えると、別の子は一言、『牢屋から出られること』と言う」というわけで、非常に知的な会話である。これも、子供と思って、決して馬鹿にしてはいけないという一例であると思う。あの小さな頭で、一生懸命素晴らしいことを考えている。日本で封切りがされたら、是非見てみたいものである。




(平成23年2月 1日著)
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