悠々人生のエッセイ



湯島天神の本殿




 湯島天神といえば、今どき泉鏡花の『婦系図』とその歌を思い浮かべる人はおらず、ほとんどの人が受験の神様と思っている。もちろん、湯島天神には、それだけではなく、梅の名所としての顔、東京の下町の神様としての顔もあるのだが、それはさておき、年が明けた受験シーズンの土日にもなると、境内が受験生とその親たちの人並みであふれかえる。私も、この神社へは自宅から歩いて15分程度と近いのだが、なにもそんな大混雑する受験シーズンの真っただ中のような時に行く必要もないのだけれど、ちょっとした散歩の行き帰りに、たまたま立ち寄ったりする。それはいわば「怖いものみたさ」のような感覚で行くのではあるが、行くたびに、そうした決死の様相の受験生とその親から発されるオーラに圧倒される。

湯島天神の屋台


 なかでも、奉納される絵馬には、もう直裁的に受験に関する願望が、その本人や身内によって書かれる。だから、一種の社会見学のような気持ちでそうした絵馬の数々を見物することにしている。そのようにして最初に絵馬の見物をしたのは2003年であるが、そのあまりに赤裸々な合格願望には、厳粛さを通り越して、思わず苦笑してしまうようなものも多かった。その次に受験シーズンの湯島天神に行って絵馬を眺めたのは2008年のことで、実はこのときには、境内の写真を撮ることに忙しく、絵馬をじっくり見て回る時間はなかった。そこで、最初に絵馬を見てから8年が経ち、最近はどういう絵馬になっているかをこの季節に行って観察したところ、意外なことに気づいたのである。

湯島天神の絵馬


 それは何かといえば、8年前に比べて、絵馬の内容がさっぱり面白くなくなっているのだ。ほとんどが「合格祈願」か「絶対合格!」という文句に名前ばかり。たまにごちゃごちゃと書いてあって、さあ読もうとすると、書かれていたのはすべて同級生の名前だったりする。そして、何か書かれていると思えば、「全員志望校に合格しようね」だと・・・。

 こういうみんなで何とかしようねという発想は、村落共同体を円滑に運営する上では確かに大事なスローガンである。しかし、近代の競争社会を取り仕切る発想としては、全くふさわしくない。誰かが合格すれば、その裏では他の人が必ず不合格になる。これが競争の現実なのだから、それならばそういう現実を直視して自分はどう生きようかと考え始める。そこに近代社会の発展の礎があると思うのである。

 ところがとりわけバブル以降の日本社会では、そうした競争を回避し、まるでぬるま湯のような世界に浸ってしまった。みんなで仲良く無競争を好み、仕事でも留学でも、外国なんて行きたくない。自分に対する人の評判を極端に気になる。まあ要するに、日本人そのものの活力の低下が起こっているのだ。昨今の日本社会にはびこる無気力と覇気のなさは、さもありなんという気がする。だから、絵馬に書かれている内容も面白くないわけだ・・・それではなぜ、こういうことが起こったのか?

 私に言わせれば、その大きな原因は、この30年ほどの学校教育が、意図的に競争を回避し、無競争で悪平等の社会を作り上げてしまったからである。「どんどんお互いに競争して、できるだけ難しいところを狙おう」というならともかく、能力も努力の程度も人によって全く異なるのに、皆が揃って合格しようなんて、うまくいくはずがない。競争原理が働き、その過程で必ず挫折した人間が出てくる。しかし社会を引っ張っているのは、単に競争社会の先頭を走っているトップの人間だけではない。そういう人間に加えて、一度は挫折した多くの人こそが、その挫折を糧にして努力し、生活力を磨く。そしてブレーク・スルーを生み出して、社会が発展していくものだと思う。

 だから、みんな一緒にお手々をつないでなどという発想では、リーダーはもちろん生まれないし、他方では社会での挫折経験をバネにして独特の生活力が身についている人間をも生み出さない。幼稚園や狭い農村社会ならそれで良いのかもしれないけれど、現代は世界的な大競争社会である。元々極端なほどの競争社会であるアメリカに次いで、10億人もの人口を擁する中国が台頭してきた。こちらも、国内で激烈な競争が繰り広げられている。そんな時代に、お手々つないで一緒にねなどということを続けていっては、画一化されて生活力の希薄な面白くない人間しか生み出せず、ひいては世界的な国家間競争に取り残されてしまう結果となるのは、火を見るより明らかである。ところが、憂うべきことに最近の日本では、まさにそうしたことが現実に起こっていて、日本の経済社会の停滞の元凶となっていると思うのである。

 そういえば、相当昔のことになるが、私の息子が区立小学校の高学年になったとき、運動会と学芸会の劇を見に行って、びっくりしたことがある。まず運動会では、私自身の小学生の時代なら、駆けっこをするときに、クラスの出席番号順に適当なグループを作って走らせ、足の速い子は当然一等になって鉛筆やらノートやらを貰って得意顔だった。そういうとき、運動神経が並以下のレベルだった私なぞは、いくらやってもそんな足の速い連中には、とうてい追いつくことは出来ない。だから、運動会の季節が巡ってくるたびに、いつも悔しい思いがした。そこで私は方針を変え、運動会での活躍はさっさと諦めて、代わりに勉強にいそしんで、溜飲を下げたものである。ところが、私の子供の時代になると、同じような足の速さの子ばかりを集めて走らせるから、ほとんど差が付かない。これでは、足の早い子には特技を発揮して優越感にひたる場が与えられないこととなるし、足の遅い子も劣等感をバネに何か工夫をしようという意欲が湧かないだろう。こういうことこそ、撲滅すべき悪平等社会なのである。これでは、社会に活気がなくなるわけだ。

 学芸会の劇でも、似たようなことになっている。私自身の小学生の時代なら、クラスで一番の美男美女が主役の座を射止めて、ほかの子供は照明係とか大道具係、小道具係などに役割に全力で取り組んだ。これは、各人の持ち場でそれなりに、社会的な役割を果たす重要さを学ばせる意味が大いにあったと思う。ところがどうだ、私の子供の時代になると、主役はおらず、ただ全員が舞台に出てきて、台詞を一言ずつ言わせる。たとえば、「ぼくはあそこに」「行くつもりなんだ」「何がいるのかなぁ」なんてことを、三人で別々の台詞として言うのである。バカバカしい限りで、まったく芸のないものだ。おそらく、「なぜウチの子を主役にしないのか」などという両親が出てきては困るからということなのだろう。しかし、こういう事なかれ主義に陥っている学校の方針こそ、悪平等を世の中にまき散らし、ひいては自分では何も出来ない生活力のない弱々しい日本人をたくさん生み出している原因だと思っている。

 とまあ、社会についてのそんな愚痴を言い始めると、時代遅れの老人になった証左かもしれないので、もうこの辺で止めよう・・・そんなことを思いながら、合格祈願と氏名ばかり書いてある絵馬を見て歩いていると、ほんの少しだが、やっといくつか、面白い絵馬を発見した。それらを少しばかり、紹介することとしよう。

小さなお子さんがママを応援


 「通信会計学の試験に合格できますように」と書いてあるそのすぐ下に、仮名釘流の平仮名で「ままが ごうかく しますように」とあった。小さなお子さんが、ママを応援して一所懸命に書いたもののようだ。心を打たれる。

 「自分が誇れる企業に内定をいただけますように」とある。最近は大学新卒者の内定がなかなか取れない就職氷河期だ。たとえば昨年12月1日現在の大学生の就職内定率は68.8%と、前年比4.3ポイントものマイナスとなっている。この人も「自分が誇れる企業」などとこだわらずに、自分の力が発揮できてそれが評価され、ひいてはやり甲斐のあるという、そういう仕事を探した方がよいのではないだろうか。

 そうかと思うと、この絵馬は面白い。「自分のことは、こっちで何とかするので、神様・仏様 いらっしゃるなら『こいつら』を何とかお願いします」だとさ・・・そして、『こいつら』として20人ほどの名前が書いてある。いいね、こういう親分肌は・・・と思ってよく見ると、どうもこれは塾の先生が書いたようだ。紛らわしい。

 その次には、「トップ合格!! 早稲田、中央、同志社、立命館、北海道大学 法科大学院 必ず合格!! そして司法試験も合格!!」とあった。ははあ、これは勢いがある。元気でなかなかよろしいと思ったら、その脇に女文字でこう書いてあった。「□□のことがだあいすき。また合格したら一緒に来ます」・・・なるほど、このせいかもしれない。恋人の手前、誰しもが格好良いところを見せたいのは人情だから、いわゆるカラ元気というヤツなのかも・・・。しかし、人生何が起こるかわからない。たとえみんな落ちたとしても、引き続き一緒にいてほしいものだ。

漫画入りの絵馬


 漫画入りの絵馬もある。「受ける所すべてに受かりますように」とあり、その横に必勝の鉢巻きをしたおかっぱ頭の女の子が机に座って何やら書いている。それには吹き出しか付いていて、これが英語なのである。「There is no wall which can not be penetrated by the sense of seriousness」意訳すれば、「真剣にやれば越えられない壁はない」とでもいおうか。うむ、これは個性的で、なかなかよい。

絵馬の表に


 そうかと思うと、絵馬の表に「合格祈願」という文字とともに、受ける大学の名前を羅列してある。試しにそれを裏返しにしてみると、やはり何も書いていない。いままで何千枚も絵馬を見てきたけれど、表に願事を書いてあるというものは、初めてみた。こういう調子では、この人、本番の試験は大丈夫かしらという気がしないでもない。

 ああ、これは祖母からの絵馬である。「孫娘が志望校に合格しますように、□□が美容国家試験に合格しますように、お願い申し上げます。ばあば」と書かれているが、この「ばあば」というのが良い。もっとも、ウチの家内は、孫に「おばあちゃん」と呼ばせないで、代わりに「グランマ」と言わせるようにしている。ところが物知りのシッターさんによれば、外国人の家庭では、この「グランマ」というのも日本の「おばあちゃん」と同じ感覚で嫌がられるそうだ。代わりに、孫に名前で呼ばせるらしい。

 しかし、中にはこんなものもある。「東京外国語大学に絶対合格する! 相方のつばさも、ちゃんと東大に受かる! 大学生になっても二人で仲良くする!」というものだが、この「相方」というのは、名前からは男女どちらかわからないが、たぶん、男の子どうしの友情をはぐくむものかもしれない。でも一瞬、妙な気がした。

 「夢に向かって完全燃焼、悔いは残さず、みんなそろって笑顔で卒業!」と右側にあり、左側には同じようなことだが「夢は必ず諦めるな最後まで、三年生全員が悔いを残さず笑顔で卒業できますように」とある、静岡県の中学校三年の二人の男の子の連名で書かれていた絵馬があった。こういうのは、まあ、実際にはそうならないのが世の常ではあるが、青春編としては、なかなか良いと思う。とても中学生らしい。

湯島の白梅


 最後に、まだ1月の下旬だというのに、早咲きの梅が何本かあって、梅の花の良い香りが馥郁として漂ってきたので、幸せな良い気持ちになった。もうつまらぬことは考えないようにしよう。日本社会がこうなってしまった以上、この先、長期低迷は避けられまい。せめて私たちの初孫ちゃんの時代に挽回してもらうしかない。そのためには、4年後に初孫ちゃんを入学させる学校に気をつけるしかないが、文字通り神頼みにならないよう、祈るばかりである。そのときは私も、受験シーズンにこの湯島天神にやってきて、孫のため、ひとつ面白い絵馬でも書いて、奉納でもしようか・・・やはり、神頼みになってしまった。

湯島の紅梅






(平成23年1月23日著)
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