1.札幌の睡蓮池とテレビ塔 | 2.小樽の鰊御殿と小樽運河 |
1.札幌の睡蓮池とテレビ塔 週末、仕事仲間と北海道への短い旅に出かけた。行き先は、札幌と小樽で、特に何を見て来ようと言う目標のようなものはなく、ただ、景色を眺め、美味しい料理を味わいたいという、誠に気楽な旅である。私は、午前中に大学院での授業があるものだから、午後2時の羽田発の全日空の飛行機を予約した。その頃、グループの一部は札幌の羊山公園で、遥か彼方の方をまっすぐ指差すクラーク博士の像の前で、その格好を真似て写真を撮った後、二条市場でバフンウニのウニイクラ丼を食べていたというから、惜しいことをした。逃した魚は大きいというのは本当である。 新千歳空港からエアポートライナーで札幌に着いたのは、午後4時半近くである。私にとっては20年ぶりの札幌だったが、昔の印象とは全く違って、近未来的な駅前の威容にはびっくりした。まるで別の都市のような変貌を遂げていて、狐につつまれたようで、さすがに北の都だけのことはある。駅前広場には、例のとおりどこにでもありそうな男女5人の裸体の像が並んでいて、まあそう悪くはないが、あちこちに鳥の糞がかかっているのが気の毒である。かつて、銅像を建てようかといわれ、「鳥の糞まみれになるから嫌だ」と断った偉人がいたそうだが、むべなるかなと思った。 ともあれ、駅前でびっくりしていても仕方がないので、そこから歩いてほど近い北海道庁旧本庁舎へと、まず向かった。その途中で、観光幌馬車を見かけた。たった1頭の馬で、二階建ての幌馬車を引いている。ざっと数えると窓が片側で6つあるから、左右両側と上下二階で24人も乗るのか・・・ひとり50キロとして1200キロだ!・・・とびっくりしたが、まさか・・・。ばんえい(輓曳)競馬は、騎手と1トンほどの鉄製のそりを曳くそうだが、この計算が正しいとすれば、それ並みである。それで馬は大丈夫なのだろうかと気になる。しかし、それは杞憂だったようだ。目の前を通り過ぎて行った観光幌馬車の馬は、サラブレッドとは似ても似つかない、足が太くて短い地元馬だったからである。 北海道庁旧本庁舎に着き、門の正面から入ると、頭に丸いドームを乗せた建物がある。赤レンガの色が実に鮮やかだし、建物の手前にある花壇の色とりどりの花々とマッチして、誠に美しい。この瀟洒な建物は、明治21年(1888年)に建てられ80年間にわたって道庁として使われたものを、最近になって復元した建物だという。なるほど、当時は未開の地であった北海道を、精魂込めて開拓した明治人の心意気が伝わってくるような気がする。館内に入ろうとしたが、左手の池にふと目をやると、ピンク色の水蓮が咲いているではないか。気になって、そちらの方に行くと、眼前に素晴らしい景色が現われた。
テレビ塔のある大通り公園を出て、すすき野を歩いて通った。すると、南4西4の大きな交差点に、キリンビールの大看板が目に入った。あれあれ、これはサッポロビールの本拠地に殴り込みをかけたようなものではないかと思ってしまった。でも、なかなか目立つ、好感の持てる良い看板である。そこを通り過ぎて、今夜のホテルにたどり着いた。 札幌駅に着いて、そこから、時間通りに小樽行きの電車に乗り込んだ。 2.小樽の鰊御殿と小樽運河 小樽行きの電車は、結構、ガタンゴトンと揺れたので、私が小学校の頃の蒸気機関車を思い出してしまった。これくらいの乗り心地の悪さである。どうやら、あまり保線がよくないらしい。小樽駅に着き、駅頭でどこに行こうかと旅行案内を見ていたら、@マリンコース、A天狗山コース、B祝津コース、Cろまんコースとある。@は要するにガラス工房と石原裕次郎記念館ということだが、まるっきり私の趣味ではない。Aは天狗山ロープウェイに行って、市内全域を一望できるようだ。これは、パノラマ写真にすると良いかもしれないと、いささか心が動く。Bは水族館とその脇にある鰊御殿、そして旧日本郵船の建物である。ああ、こちらの方がもっと良いかもしれない。何よりも、この地の歴史を知りたいという知識欲を満足させてもらえそうだ。Cはガラス屋と「がま栄(?)」というが、これまた私の趣味ではない。 というわけで、小樽駅からバスに乗って祝津に向かった。途中、田舎道ながら、道路の両脇がお花でいっぱいのところを通り、なかなか手入れが行き届いていることに感心した。30分も乗っていないうちに、祝津に到着した。漁船がたくさん繋留されている田舎の漁港である。そこで、左手の階段を登れば水族館であることがわかるが、肝心の鰊御殿の看板が見当たらない。これは商売不熱心だと思いつつ、いま降りたばかりのバスの運転手に聞いて、そちらへ向かったら、丘の上にある日本家屋が目に入った。ああ、あそこなのかと思う。そこに至るまでには、白い柵がジクザグに緑の丘を這い登っていたが、あれをたどって行くのかと、げんなりもする。でも、建っている地形が誠によろしい。たとえていえば「崖の上のポニョ」に出てくる丘の上の家みたいなものである。もっとも、あちらは洋風の家だったけれど、こちらは110年前の和風の家という違いはある。 登っている途中で、振り返って海の方を眺めると、これがまた、絶景である。手前には、砂嘴(さし)が海に向かって突き出ている。右手には祝津漁港だが、その向こうには、こんもりとした半島が浮かび、さらにその向こうには、青くかすんだ陸地が見える。それを毎日眺めることのできる御殿に住んでいたとは、なかなかの網元ではないか。 ところで、何か一番面白かったかといえば、隠し部屋である。からくりがあって、ドンデン返しをすると入れるようになっている。ごく一部の身内にしかその使用目的を知らせていなかったところだそうで、その用途がまさに抱腹絶倒というところである。まあ、当時の網元の雰囲気を偲ばせるものなのだ。まずは、当時の漁業といえば現金が飛び交う世界だったので、当然それを狙う輩もいたらしい。だから、泥棒対策として現金を保管するというのがその第一の用途。まあこれは、今風にいうとパニック・ルームで、十分にあり得る使い方かなというところ。 次は、漁が忙しい時に、臨時の補充として渡世人のような者を雇うことがあるが、こういう連中は酒を飲んだりすると大いにからんだり刃物を振り回して暴れたりするものだから、そういう場合の家人の避難所だそうだ。少し、笑いがこみ上げてくる用途である。また、漁夫として若者の引き抜きが横行していたようで、それを取り返しに来られた時の隠し部屋にも使ったらしい。ほほお、なるほどと納得する。さらに、鰊漁は、豊漁だったり不漁だったりすることがよくあり、不漁のときの借金取りから逃れるために、家族がここに隠れたのだそうだ。これなどは、大いに笑ってしまう用途である。最後に、この鰊御殿は急傾斜の崖の下に建っていたので、雪崩が起こったときの家族の避難場所として、太い柱や梁で守られているこの部屋が用意されたとのこと。ふむふむ、災害対策も兼ねていたとは、なかなか頭を使っているではないか・・・。
岬を回ったところで、4〜5歳くらいの年子の二人の女の子を連れたお母さんが、船の人から唐上げのお菓子のようなものを買っている。子供たちは、慣れた様子でその袋を手にとって、船の後方へ歩いて行った。そして、何をするんだろうと見ていたら、そのお菓子(イカのような匂いがした)を、空に向かって投げ始めた。すると、岬の岩陰にいた何十羽カモメらしき海鳥たちが、一斉に我々の船に向かって殺到してきた。これは・・・す・・・凄い。もの凄いものである。ヒッチコックの名映画「鳥」を思い出してしまったくらいである。
そうこうしているうちに、小樽港に着いた。港の背後の小山は、行きそこなった天狗山である。ロープウェイがあって、それで頂上まで連れて行ってくれるらしい。行った友達の話によると、市内を一望できて、それは良かったが、夜景の方がこの何倍か美しいということで、残念だったとのこと。そうか、そういうことなら、次回の楽しみとしよう。ところで、同じ北海道でも、函館の夜景は有名である。函館の場合は、山の上から夜間に見下ろすと、海が両側から湾曲して迫ってきている中で、灯りの点いた中心部が真ん中に浮き上がるという、まさに神戸に匹敵する美しさである。私は、函館に4回行って、そのうち山の上からそれを見ることが出来たのは、最初のたった1回にすぎない。あとは雨やら曇りで、いずれも見られなかった。こういうものは、見られるときに見ておかなければならない。
運河の終点近くに、目指す旧日本郵船株式会社小樽支店の建物があった。明治39年(1906年)に竣工した近世ヨーロッパ建築様式の重厚な石垣二階建で、一階には事務室、二階には貴賓室と会議室がある。日露戦争後に割譲された樺太について、具体的にどのように国境線を引くかという日露間の交渉がこの会議室で行われたという。隣の部屋には、レプリカではあるが、そのときに作成された国境の標識石が置いてある。会議室には、一見して30人くらいが座れそうだったので、おそらくは実務的な交渉だったのだろう。そのために、国の威信をかけて、国策会社にこの会議室を作ってもらったのだと思う。案内の方は、支店の人数は高々26名程度だったというから、その程度の数では、これほどの大会議室は要らなかったはずだというのである。なるほど・・・。ところで、この会議室の壁紙は、いまやどす黒くくすんで見る影もないが、和紙でできた当時最高の技術で作ったという。今ではこれと同じものが作れる職人は、たったひとりになってしまったそうな。
思わず、日露戦争の時の話となったが、当時の弱肉強食の列強がひしめく時代にあって、よく明治期の先人は、日本という国を維持して発展させることが出来たものだと思う。パワー・ゲームを知悉した、リアリストでなければ政治や外交は出来なかったはずだ。それに比べて、最近の日本の政治は、国と国との外交関係、権力というものの現実や本質を直視せず、いたずらに夢想しているかのようなフワフワとした外交や内政をとっているように思えてならない。この点では、明治維新を経験し、その後の近代日本の礎を築いた明治人の爪のアカでも煎じて飲ませたいところである。 ところで、日本郵船の建物の一階に降りてきて、天井から下がっている電球を見て驚いた。これは、ひょっとしてエジソン球ではないだろうか。案内の人に聞くと果たしてその通りで、球の中心のフィラメントが二本の輪で出来ている。エジソンが電球を発明する過程で、フィラメントの材料を世界各地から取り寄せて何回も実験をした。そうしたところ、日本の京都から取り寄せた竹で作った炭のフィラメントが一番長持ちしたので、これに決めたというのは、有名な話である。もっとも、これはたぶん、竹ではないだろうが、まあいずれにせよ小学校のときに習った話を半世紀ぶりに思い出したというわけである。ちなみに、このエジソン球を作る会社は、東京にたった一軒だけ残っていると言っていた。 これで終われば、誠に幸せな旅ということになったはずなのであるが、小樽からJRの電車に乗って新千歳空港に着いたとたん、思わぬハプニングが待っていた。【続く】 (平成22年6月27日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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