目 次 | |
1 | 下町谷根千の花々 |
2 | 本土寺の紫陽花と花菖蒲 |
3 | 明治神宮の花菖蒲苑 |
4 | 高幡不動尊の紫陽花 |
5 | 花菖蒲と軽鴨と睡連 |
6月といえば、4月の桜と5月の躑躅が終わり、じめじめとした梅雨を迎える季節である。いささか憂鬱な気分すら漂うのが正直なところである。だから、そんなときに花を見る機会など、あまりないように思える。しかし、どうしてどうして、梅雨の合間に、ご近所を巡ってみたり、東京のあちらこちらの庭園を訪ねてみたりすると、本当に美しい花々で一杯なのである。まずは、東京下町のご近所である谷根千の花から始めよう。 1.下町谷根千の花々 6月の初旬になったというのに、今年はなかなか梅雨に入らない。そこで、これ幸いと早朝から近所の散歩に出かけて、花の写真を撮ることにした。数日間、東京の下町である谷根千一帯をうろうろとして、花という花を目にしたとたん、近づいてパチリとやるのである。昨年秋にも、同じことを試みたことがある。実はきのう、私の住んでいるマンションのエレベーターで、家内が同じマンションの奥さんと乗り合わせた。そこでの話題は、「お宅のご主人、朝早くから、近所で花の写真を撮っているって、主人が言っていましたよ!」・・・な、なーんと、ちゃんと知り合いに見られていたようだ。それを聞いた家内、「そうなんです。朝から『花から花へ』と、蝶か蜜蜂のようにやっています」と、答えたそうな。 とまあ、確かにそういう調子なのであるが、まずはこの辺りの人には知る人ぞ知る花の名所、根津駅隣の学生マンションの前に行く。実はこちらのマンションは、管理人に相当、お花に詳しい人がいるようで、季節ごとに珍しい花の鉢を出しているのだ。その日は、フクシア、つまり釣浮草(つりうきそう)の鉢が良かった。この花については、昨年、たまたまここで目にしてから、その面白い姿形を大変気に入ったものである。この日も、私の期待を裏切らず、誠に愉快な恰好を見せてくれている。熱帯アメリカ原産らしいが、その別名通り、釣りの浮きそっくりである。 次いでやってきた根津神社の脇のS字坂では、坂の中腹のお宅の庭から、たくさんのアブチロン、別名:チロリアン・ランプが垂れ下がっていた。見れば見るほど、この花は面白い。何しろ、赤くて丸い袋の下に、黄色い筒に包まれたおしべが垂れ下がっている。チロリアン・ランプとは、よく名付けたものである。それにしてもこの花、あの寒い冬の季節にも枯れずに、ちゃんと付いていた。もっとも、数は相当少なかったけれど、熱帯ブラジル原産の割には、冬に強いようだ。 不忍通り沿いで、月下美人そっくりの花を見つけたときには、まさかこんな昼間に咲いているのかと、びっくりした。ネットで調べてみると、いやいや月下美人ではなくて、孔雀サボテンというのだそうだ。しかも、白と鮮やかな赤紫の色をしている。花の中心部には、風車のような雄しべらしきものがある。面白くて、ついつい見入ってしまった。こんな花が、この世の中にあるとは、まあ何と、愉快なことだろう。特にこの雄しべ、まるで深海で小魚を引き寄せる提灯鮟鱇の提灯ヒゲのようで、傑作ではないか。 それから、あちこちのお宅の庭に咲いているのが、薔薇である。赤い薔薇、黄色い薔薇、白い薔薇、そして紫色のバラもあった。これなどは、シャルル・ドゴールという品種ではないだろうか。古河庭園にあったものと同一種である。妙なところで、雑学の知識が生きる。黄色いマリーゴールドがあったかと思うと、色々な色のパンジーを植えているお宅もあった。あれあれ、ハイビスカスも一輪だけ見かけた。これから夏の本番だから、見栄えがするだろう。 ペチュニアを植えているお宅もあった。それも、色々な種類を束にして植えているから、一見して色々なペチュニアを眺めることができる。ちょっと頼りなさそうな花だけど、こうやって束になって見ると、それなりに力強く見える。ああ、懐かしい紫露草があった。空き地の雑草になってしまっている。昔、通学路でよく見かけたものだ。その脇に、黄色い花で、中央にモヤモヤと雄しべらしきものが立ちあがっている不思議な花がある。何だろうと思ってネットで調べると、未央柳(びょうやなぎ)というそうだ。中国原産で、別名を美女柳というそうな。 街角に、あの「七変化」が咲いていた。熊葛(くまつづら)科ランタナ属に属するそうだが、同じ一本の茎なのに、微妙に違った色の花を咲かせるらしい。この写真の花も、ピンク色、白色、黄色と、なかなかバランスのとれた色であるが、それの脇の同じから茎の花が、黄色が主体だったり、白色だったりと、少しずつ変わっている。 ところで、この写真のエッセイを書くときに、前回の「下町谷根千の花々(9〜10月)」のエッセイを振り返ってみた。その出だしには「民主党による政権交代の日」(2009年9月16日)とあり、鳩山由紀夫首相の内閣が発足したことを感慨深く書いていたが、それから8ヶ月後の本日には、もう鳩山首相は退陣していて、管直人首相に代わっていた。まったく、月日の経つのも早いけれど、それ以上に政治家が国民の信頼を失うのがあまりにも早過ぎると思うのだけれども、いかがだろうか。 下町谷根千の花々(9〜10月) (写 真)は、こちら。 2.本土寺の紫陽花と花菖蒲 千葉県の松戸と柏の間に、本土寺というお寺があり、初夏の季節は別名あじさい寺といわれるほどに紫陽花と花菖蒲が美しく、また秋になると京都や鎌倉にも劣らないほど紅葉が綺麗だという。ほほぅ・・・それでは、ちょっと行ってみるかと出かけた次第である。ネットで調べると、北小金という駅にあるらしい。常磐線の快速は停まらないが、千代田線の各駅停車でのんびり行っても30分もかからないようだ。でも、綾瀬行きに乗ったなら、北千住で乗り換える必要がある。結局、そのコースをとって、北小金の駅に着いた。 北小金という町は、そういうわけで、今では快速も停まらないほど小さな駅となってしまっているが、これでも江戸時代には、相当大きな宿場町だったそうだ。というのは、江戸日本橋まであと30キロという位置にあり、これは当時の人の1日に歩く距離に当たっていた。つまり、江戸から出立すると、まず最初に泊る宿場であり、逆に水戸から江戸に向かって旅をしてきて、明日はいよいよ花のお江戸だという所なのである。それを今では電車で30分という距離なのだから、近代文明がいかに世の中を変えてしまったか、よくわかるというものである。 それで、その繁盛した宿場町北小金がどうなったかというと、明治31年の常磐線の開業で一気に客足が衰えて、町全体がそれで衰退してしまったそうなのだ。今ではその北小金町は松戸市と合併してしまって、もはやそういう地名は駅名以外には何にも残っていないという。まるで絵に描いたような盛衰物語である。こういうことは、時代の如何にかかわらず、起こっていることだろう。たとえばナイロンなどの化学繊維にとって代わられた生糸、化学染料によって見向きもされなくなった紅花などの自然系染料などが思い起こされる。それどころか近頃は、新聞や雑誌や書籍などといった紙媒体が、近々、iPodやウェブにとって代わられそうな気がする。 話題が飛んでしまったので、再び今日の話に立ち戻ると、その本土寺というお寺は、北小金の駅の南口から数分歩いたところに参道の入り口がある。これがまた立派な参道で、道の両脇に高く聳えて立ち並ぶその松や杉の木々を見ただけで、ああこれこそ参道だとわかる。その立派な木々を見上げながら10分ほど歩いたところに、お寺さんがある。かつては、相当な寺域を持っていたことが一目瞭然である。寺の入り口には、朱塗りの仁王門がある。ただしこれは、ごく最近、再建されたと書かれていた。そこをくぐると、既に空気がひんやりとした感じがして、何かが違う。道の両脇には、こんもりとした青紫の紫陽花が咲いている。階段を下ると、日当たりの良い所に出て、そこが受付となっている。参拝券には、「四季の寺 本土寺」とあって、「浄域1万坪の起伏に富んだ地形と桜、楓が織りなす春秋の趣は殊更であり、特に初夏の菖蒲と紫陽花、秋の紅葉の花時は大変な賑いとなります」とある。では、その初夏の花を楽しむこととしよう。 順路をまっすぐに行くと、道の両脇には、紫陽花がこんもりとした群落を作って、咲きに咲いている。ちょうど満開のようだ・・・いやはや、あちこちが紫陽花に占領されているみたいである。こんな満開の時期とは知らなかった。良い日に来たものである。そのほとんどが手毬形の紫陽花であるから、青や紫や赤や白など色々で、誠に見ごたえがある。先々週に行った高幡不動では、その大半が額紫陽花だったのとは対照的である。額紫陽花は素朴で良いが、特に日本古来種は、あまりにも小さくて派手さがない。ところで、再びこの本土寺の話に戻ると、順路の左手には階段があって、その上には美しい五重塔が立っている。実はこれも最近の建立だそうだが、階段の両脇にてんでに咲いている紫陽花と、良く合っている。これが、この本土寺を紹介する写真によく出てくるシーンかと納得した。しかし、この日は午前中の大学での講義の後に行ったから、残念ながら午後の逆光になってしまった。露出補正をいろいろいじって試してみたが、どうもこれが良いという納得できる写真が撮れなかったことは、少し残念である。 その辺りにいたら、ちょうど2匹のダックス・フンドを連れてきた家族がいて、そのこんもりとした紫陽花を背景に2匹の写真を撮ろうとして四苦八苦していた。つまり、このワンちゃんたち、お座りは出来るのだが、そのあとがいけない。あちこちを見てしまったり、じっとしていてくれないものだから、お父さんが必死に餌で釣ろうとしていて、その表情の方が面白かった。 本土寺の縁起については、いただいたパンフレットにも長々と書かれていたが、要は700年ほど前の建治三年(1277年)に日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのが始まりらしい。そして「池上の長谷山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に朗門の三長三山と呼ばれ、宗門中屈指の大山として末寺百数十を統べ、山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に、七堂伽藍がその山容を誇ったものでありますが、惜しいかな度々の不受不施の法難と明治維新の廃仏毀釈運動(仏教とりつぶし)のために衰滅し、今は昔の威容とてうかがえません」とある。ははあ、明治維新の廃仏毀釈も、その衰退に輪をかけたようだ。中国の文化大革命のようなものだったのだろう。そして、「本土寺の『本土』とは、『我此土』(わがこのど)つまり、お釈迦様が本当の佛、本佛となって住む国土『本土』に由来します」ということらしい。 もう午後も遅くで時間がないので、本来の順路とは逆のようだが、人々が歩いていく祖師堂の右手の方へと紫陽花の林を見に行った。道の左右にある紫陽花が、人の背丈以上にもなって、あたかも乱舞しているようにみえるほどである。しかし、その大半が手毬形であるから、見ごたえがある。ちょうど、日が傾いてきているので、花びらに陰影がついて、写真を撮ると美しい。そこを抜けると、藤棚のある池があった。睡蓮はまだ蕾で、これから咲こうかというところである。藤棚の藤は、もう実がなっていて、大きな豆の鞘が目に入った。 そこから、さらに奥へと進むと、菖蒲池があった。もちろんその周りには紫陽花の群落があるから、花菖蒲と紫陽花が同時に見られるという願ってもない位置関係となっている。それだけでなく、菖蒲池の中には見物路があるので、そこを辿って行ったら花菖蒲が間近に見られる。もちろん、その池の中の路を通らなくとも、池の周囲を巡ると、たくさんの花菖蒲と紫陽花が重なっているように見える。いずれの花の色も青と紫だから、それが葉の緑と良く合っている。なるほど、これは素晴らしい景色である。来て良かった。 (平成22年6月20日著) 3.明治神宮の花菖蒲苑 明治神宮の花菖蒲苑は、以前この季節に見に行ったことがあるのだが、それから3年後の今日、花菖蒲が満開と聞いて、家内と再び訪れた。地下鉄千代田線の明治神宮駅を降り、大鳥居の下をくぐって鬱蒼とした照葉樹の森の中を歩いた。そこを抜けたところにあの花菖蒲苑があるのは、相変わらずである。まず目の前に現れる花菖蒲苑は、細長い瓢箪の形をしていて、それも昔と変わらない。以前は、普通のデジカメだったから、遠くから全体の花園を眺める写真を撮るということしか出来なかったが、今回は、200ミリの望遠レンズを装備したデジタル一眼カメラなので、画面一杯に、ひとつひとつの花菖蒲の写真を撮ることが出来る。これが、この間の進歩といえば進歩である。 花菖蒲の美しさは、もうあちこちで見てきたから、改めて言うまでもない。私は、真っ青のものも捨て難いが、それより今年は赤紫で白い線が入っているものを一番美しいと感じた。紫陽花といい、この花菖蒲といい、梅雨の季節に入ろうかという時期に咲く花は、このように青と赤紫の色の間を行きつ戻りつしているものが多い。 ところで、NHKのブラタモリという番組を見ていたところ、この明治神宮から水が湧き出しているという。それが原宿の竹下通り方向へ流れ出し、最終的には山手線と並行に流れる渋谷川という川になっていたが、東京オリンピックの時に埋め立てられて暗渠になってしまったということを知った。ちなみに、渋谷川は、童謡「春の小川」の舞台となった川だそうだ。 今回、入苑する時にいただいた説明資料に若干自分なりに解説を付けて、記録代わりに残しておくことにしたい。そもそもこの明治神宮御苑は、江戸の初期以来、加藤家、次いで井伊家の下屋敷の庭園だった。明治に入って宮内庁が所管するようになった。それからは代々木御苑といわれて、明治天皇が昭憲皇太后を伴い、たびたび訪れたという。そこで、花菖蒲は明治天皇が皇太后がお好きなのを知って、特に植えさせた花だったとのことである。大正11年に明治神宮が出来る前は、この辺り一帯は現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたようであるが、それを計画的な植林していったという。まずは針葉樹を植え、それから五十年後、百年後の姿を想定して最終的には照葉樹が中心の森になるように計画して、ここまでにしたとのことである。日本人は都市計画が不得手ではないかと思っていたが、それどころか、これは誠に素晴らしい能力があると証明したようなものである。 この明治神宮御苑は、面積にして83,000平方メートルもあり、東京ドームの1.8倍である。大鳥居からまっすぐ続く砂利道を行き、前方右手に参集殿が見える少し手前の道の左手に東門があり、そこから御苑地区に入る。雑木林のような所を通り、熊笹の道を行くと、左手に池が現われる。その池の中には、ピンク色の睡蓮が咲いているが、残念ながら少し遠いので、写真を撮っても、細かいところまでは写らない。池を見渡せる丘には、隔雲亭という和風の建物がある。さらに行くと、ようやく、瓢箪型の菖蒲田が現われるという寸法である。その瓢箪の中ほどまで行くと、四阿(あずまや)があり、そこからは、瓢箪全体が見渡せる。その瓢箪のもっと先には、地中から清らかな湧水が出ている「清正井」があるが、この日は人数を絞るためにこちらからは行けなかった。瓢箪のあちらこちらには、ちょうどサツキが咲いていて、花菖蒲にさらに色どりを添えていた。明治神宮のパンフレットには、「都会の雑踏を離れた別天地」とあったが、まさにその通りで、深山幽谷の趣きがある。 (平成22年6月13日著) 4.高幡不動の紫陽花 紫陽花の原産地は日本であるが、江戸時代にシーボルトが長崎からひそかに持ち出して彼の地で改良され、西洋紫陽花となって逆輸入されたらしい。日本に元々自生していたのは、額(ガク)紫陽花、つまり中心にごちゃごちゃと集まった小さな花々を、あたかも額で縁取るようにして少し大きな「装飾花」が咲くというものだった。ところが、西洋での改良の後は、その大きな「装飾花」が全体に咲く「手毬形」のものとなった。つまり、今では紫陽花というと、こちらの方を思い出してしまうが、実はこれは西洋で改良された後の姿なのである。 その紫陽花の色であるが、咲いている土の酸性の度合い、開花の日数の変化などで青にも赤紫にもなるので、花言葉は「七変化」とか「移り気」というらしい。この上の写真の紫陽花などは、同じ木の同じ花なのに、最初は真っ白だったものが、日数が経つにつれてこのようにピンク色が付いてきて、最終的には、すべて赤くなると教えてもらった。なるほど、移り気というわけだ。政界なら、さしずめ「風見鶏」というところだろう。ちなみに、土が酸性のときは青色、アルカリ性のときは赤紫色になりやすいそうな。日本の土は、たいてい酸性だから、青い紫陽花が多いということになる。 さて、今日の午後は、京王線に乗って、高幡不動尊まで行ってきた。お参りを兼ねて、ちょうど見頃の紫陽花を撮るためである。このお寺の縁起であるが、そのHPによると、「真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。」とのことである。
面白いことには、そのお顔たるや、高貴そうな顔もあれば、どう見てもその辺のお百姓さんのような顔まで、実に色々なことである。良く見ると、ホクロではないかと思える突起すら付いている仏様もいる。そうした数多くの仏様が白や青の紫陽花に囲まれて、実に幸せそうに座っておられる。だから、こちらも見ていて楽しくなるという、誠に不思議な山道なのである。いずれも自生種らしき白い山紫陽花を見つつ、20番目くらいまで辿って行った。さらにその上に行くと88番目のお地蔵様まで行けるそうだが、時間もなくなってきたので、山道から四季の道というところに出て、それを辿って元いた所に戻って来た。 さて、その紫陽花の山から出て、不動堂のところまで戻ると、ここでは毎日、護摩修行を行っているようで、参加を呼び掛ける案内が聞こえてきたのだが、先へ急ぐこととした。左手にすっくと立っている五重塔の脇を抜けて坂を上がっていくと、奥殿というところに出た。こちらで、不動三尊と大日如来(平安中期作)に参拝をし、新撰組資料を見た。何でもこちらは、土方歳三ゆかりの寺だという。 それからさらに上がっていくと、大日堂に至る。ここでは襖絵も立派だったが、鳴り龍というものがあり、ひとりずつ板敷の間に入って手を鳴らすと、ああら不思議・・・天井でその音に反応して、ビビ・ビューンとばかりに、大きな反響がある。まるで、弓を鳴らしているように聞こえる。ただし、その板敷の間の中にいない人には、聞こえない。これが鳴り龍というものである。誰も人がいなかったので、実は、5〜6回も手を鳴らしてみたが、いずれも、ビビューンという弓のような反響音が聞こえてきた。なるほど、これこそ、参拝客と天上の大日如来や不動明王との交流を表わすというわけか・・・これが今日一番の、面白い出来事だった。それにしても、日光の東照宮の鳴き龍は、参拝の人数も多かったせいもあるだろうが、これほど立派な音はしなかった。 最後に、入口近くの弁天堂の池で、緋鯉を見たが、これもまた、幸せそうに泳いでいた。先週行った清澄公園の鯉たちは、かわいそうなぐらいに餌を欲しがったけれど、それに比べてこの高幡不動の弁天池の鯉たちは、食が足りているのか、堂々として泳ぎ回っているのがよい。 (平成22年6月12日著) 5.花菖蒲と軽鴨と睡連 小石川後楽園は、六義園と同じく我が家から20分くらいで行けるので、四季折々に訪ねることの多い庭園である。いただいたパンフレットによれば、こちらは、寛永6年(1629)に水戸頼房が中屋敷として造ったもので、二代藩主の水戸光圀のときに完成した。あの水戸黄門様の庭園というわけである。回遊式築山泉水庭ということだが、築造に当たり明の遺臣である朱舜水の意見を取り入れたため、円月橋、西湖堤などの中国の風物を持ってきたそうだ。加えて、園の命名も朱舜水が行い、中国の范仲淹・岳陽楼記の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」から採ったという。・・・とまあ、そういうことらしい。 入口の脇にある涵徳亭の横を通り抜けて園内に入ると、目の前には枝垂れ桜の木がある。3月末には、素晴らしいピンク色の花をたくさん付けるのだけれど、私自身は、六義園の枝垂れ桜の方がもっと素晴らしいと思う。それはともかく、もう6月だから、桜の花の代わりに緑の葉をたくさん垂れ下げている。そこの左の道を進むと、さきほど述べた西瑚堤のほか、渡月橋、小廬山、通天橋、得仁堂などと続いている。なるほど、確かにこれらは中国趣味そのものである。右手には、大泉水があって、池の中央には蓬莱島がある。その池を回り込むように行くと、白糸の滝がある。滝というには、大袈裟すぎるとは思うが、中国や日本中の名所をこの狭い世界に造り上げようとしたのだから、まあ、それくらいは良いではないか。
いつもなら、そこを左手に行って円月橋に向かうところだが、この日は、花菖蒲を見に来たわけだから、そのまま真っすぐ進んで菖蒲田と稲田の方へと行った。ああ、ある。ある。花菖蒲が整然と並んでいる。その田の中に入ることはできないので、遠目から望遠レンズで撮ろうとした。ひとくちに花菖蒲といっても様々で、目にその青さがしみるような、真っ青な花菖蒲もあれば、青と白が縦に交互にあらわれてくる花菖蒲もあるし、それに白や黄色の花菖蒲があるなどと、まずはその色が様々である。それらをレンズ越しに眺めると、幸い、こちらの方に顔を向けてくれていて、なかなか良い構図となった。以前、見に行った潮来のあやめ祭りのときには、もう、辺り一面があやめ、菖蒲で一杯だったが、それに比べればこちらの小石川後楽園は、ほんの少しだけの田圃の中に菖蒲を植えているという、誠にかわいいものである。いや、品が良いというか、これが江戸趣味なのかもしれない。 その菖蒲田をひと回りしているうちに、稲田、つまり本物の稲を植えている所へ出たのだが、まあ、うれしいことに、そこに軽鴨(カルガモ)の親子がいたのである。母鳥は、田の畦の上にどっしりと構えて坐っている。その下の泥川のところに、小さな可愛らしい子鴨が8羽、それぞれに川の中に口を突っ込んで、餌を探している。それを見た見物人は、口ぐちに「まあ、可愛い!」などと大騒ぎをしている。しかし、そんな騒ぎには母鳥はビクともせず、堂々と子鴨を見下ろしていて、子鴨たちが川の中を動くにつれて、そちらの方へとのっそりと場所を移動する。つまり、ちやんと、見守っているのである。カラスなどに襲われたりせず、元気に育って、また来年にでも、この小石川の地へと飛んで来てほしいものである。
ところで、この軽鴨の親子がいた稲田の裏手には、今年の2月に写真を撮りに来たように、その時期になると、梅の香りに包まれた梅林が、その最盛期を迎える。ここに来ると、その時の梅のかぐわしい香りを思い出してしまったが、この季節にはもう、葉が茂った単なる雑木林のようになっている。というわけで、そちらには立ち寄らずに、大泉水の回りをどんどん進んでいくと、池の中には竹生島・・・琵琶湖のようである・・・、そして唐門跡がある。そこを左手に行くと、池があって、ちょうど白い睡蓮が満開を迎えている。ああ、これは美しい。緑色の水面の一部を丸い葉がぎっしりと覆い、その所々で白い花が咲いている。しばらく、うっとりとして見入ってしまった。 とまあ、そういうことだったのだが、元々は花菖蒲を目指して見に行ったのに、それに加えて、思わず軽鴨(カルガモ)の親子や、さらには睡蓮(スイレン)まで見ることが出来たという、とても充実した日だった。東京は、こんな風に何か思わぬ幸運があちこちに落ちているから、住んでいてこんな楽しいところはないと思っている。 (平成22年6月6日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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