悠々人生のエッセイ、団塊世代の五大趣味








 先頃の日本経済新聞に、黒川博行さんという作家が、団塊世代の五大趣味として「土いじり」、「おやじバンド」、「蕎麦打ち」、「俳句の会」、「メダカの飼育」というものを挙げていたので、思わず笑ってしまった。どれも、そっくりそのまま、私の友人たちに当てはまるからである。

 たとえば、「土いじり」であるが、これには2つの系統があり、焼き物つまり轆轤をこね回して作品を作る派と、花や野菜を育てる農業派とに分かれる。

 轆轤をこね回す派は、本格的なものになると自宅に電気炉などを据えてやり始める。私の友人もそうだ。そうなってしまうと、もはや病膏肓ここに極まれりということになる。作品の出来は、土のこね方、釉薬のかけ方や、その日の天候までにも左右されるというから、なかなか微妙で、それなりに味わいがあり、奥が深いものだそうだ。それだけに、うまく出来た場合はうれしさもひとしおといったところであろう。しかし、それは極めて稀なケースといえる。しょせん素人の作品であるから、とても日常生活には使えないゴミばかりができる。ところがそれを作った本人は「おお、うまく出来た」などと思い込んでそれを友人知人に配りまくるから、喜劇のような悲劇が生まれる。だから、これほど周りの人たちにご迷惑となるおそれのある趣味はない。まあ知る人ぞ知るという程度にとどめておくのが良い。

根津の花


 次の農業派は、中には実家が農業という方もおられてちゃんとした田んぼや畑があるので、退職後に帰省して本格的農業を始める人がいる。そういう人からお米や野菜をいただくと、正直言ってこれは嬉しい。見た目も味もその辺のスーパーで売られているものと変わりがないからだ。いやそれどころか、新鮮という意味ではスーパー物よりはるかに良い。ところが、退職後に地方へ移住した方の中には、広い庭を持て余して野菜作りを始めることが多い。そうすると、隣近所に教えてもらって作るものだから、それなりに上手くいって野菜がたくさん収穫される。そこまでは良いのだが、もとより素人なので、妙にひねくれた形の野菜など売り物にはならない野菜がいっぱい出来てしまう。そうすると、始末に困って、ご近所に配るだけでは処分できずに、友人知人に送付しまくる。いただく私としては、嬉しくて有難いのだが、段ボール箱の中に満載という形で土がいっぱい付着した野菜が届いて、さてこれをどうしようかと困惑する。息子の家も辟易しているし、隣近所や友人にお裾分けをしようとしても、「人」や「へ」の字形の薩摩芋や「し」の字形の胡瓜などを差し上げるのは、気が引けてしまう。

 都会に住んでいても、マンション住まいを選ばずに庭付き一軒家を好んでこれに住む人が多い。たとえそれが猫の額程度ではあっても、とりあえず庭といえるものがあれば、野菜作りに挑戦する人がいる。これも立派な農業派だ。これは大した収穫がないので、送ったりして周りに迷惑をかけることはない。それは良いのだが、私の友人の変化に気が付いた。その人は、暇さえあれば庭に出て手入れをしているというが、以前はすっくりと立っていた姿勢が、最近では気のせいか、どうも前屈み気味になって見えてしまうのが気になる。これって、職業病ならぬ趣味病だろうか?

根津の花、キクモモ


 「おやじバンド」というのも、これまたはた迷惑な趣味である。まず、練習のときには、うるさくてかなわない。それに、いささか腕に自信のある連中や、厚かましい連中は、いざ本番というときには、必ずと言っていいほど券を売り付けようとする。やや気が小さくて控え目な人は、自分で何十〜何百枚かを負担するのだそうだけど、団塊の世代ともなれば面の皮が厚いというのが唯一の売りだから、いまどきそういう謙虚な性格の人は珍しい。たまたま、取引先などに厚かましいタイプの連中が、もしいたとしたら、しぶしぶ買わずにはおられない。しかし、そうすると、お金の負担だけでなく、聞きたくもない会場に行って、下手な歌や音楽をじっと我慢して聞いていなければならない。これを称して、ドラエモンのジャイアン現象というらしい。ちなみに、このダジャレがわからない人は、子供が小さい頃に一緒に遊んでやった記憶がない人ばかりだろう。

根津の花、ビオラ


 ところで、大学時代の友人の中で、若い頃からハワイアンのバンドのボーカルでならした人がいる。仕事はもちろん頑張っていたが、それに加えて中高年になるにつけ昔のことが懐かしくなったのか、仲間と「おやじバンド」を結成して、歌いまくっていた。ところがつい最近、健康診断で喉頭がんにかかっていて、しかもステージWだと宣告されてしまった。ステージWといえば、もう手の施しようがないといわれたも同然である。もう愕然としたが、何とかしなければという気になって、インターネットでいろいろと調べたそうだ。

根津の花


 それで、とりあえず自分の白血球を体外で増やして自己注射をする免疫療法をしてくれる大学病院を探してきて、その治療を受けたようだ。しかしよく考えてみると、そんなもので完治するはずもないと思ったので、東京の大病院を紹介してもらってそこで診てもらったという。するとまあ、ステージWどころか、まだステージUの段階だといわれ、すぐその場での手術を勧められた。そして、場合によっては、がんを取り除いた跡に、自分の腸壁を移植して再建手術を併せてするかもしれないということで、手術の日を迎えた。そうやって体を開いてみると、がんの大きさは、まだ2センチ程度で、これならステージTだから、患部をたくさん取る必要はないということになって、手術時間が8時間の予定のところ、2時間で終わったそうだ。

 まあ普通、ステージTと言われて、実際に手術で患部を見るとステージWとなっていて、もうどうしようもないという例はよくあるパターンだが、この場合は、その逆だったという幸運な話である。自己免疫治療法が功を奏したのかもしれない。それはともかく、これなどは、おやじバンドなどといって、昔のようにボーカルとして歌うことをまた始めたから、喉頭がんという病気になったのではないかと思っている。その友達には悪いが、年寄りの冷や水といったところである。

根津の花、アマリリス


 さて、次の「蕎麦打ち」というのも、家族は、蕎麦ばかり食べさせられるという意味では迷惑かもしれない。しかし、総じて、そんなに悪くはない趣味だと思うのである。というのは、蕎麦を作る楽しみ、食べる楽しみ、そして食べさせる楽しみというたくさんの実益を兼ね備えているからだ。私も、旅行で福井県の田舎に行ったら、蕎麦道場なる建物があって、そこで家族と一緒に打ってみた。うむ、なるほど、なかなか楽しいものである。もっとも、食べようとしたら、打つ力が弱かったせいか、ボロボロと蕎麦が崩れてしまったのには、参った。現に私の友人の中には、これに凝ってしまって、麺棒やら大きな俎、それに蕎麦を切る道具まで買いそろえた人がいた。しかし、その後、どうなったかは聞いていない。まあ、聞かぬが花というところだろう。

根津の花


 「俳句の会」というのも、やや高踏な趣味という雰囲気がなきにしもあらずであるが、吟行の会などに入ったりすると、それとは反対に、とても生臭い話ばかりだという。もちろん、ご想像がつくと思うが、まあ、人間というのは、いくつになっても変わらないものである。ところで、私は、文章を書くのは比較的得意なのだけれど、どうもそれが短い俳句となると、特に季語が煩わしくて、あまり得意ではない。だから、たまに川柳もどきを詠むことはあっても、なかなか俳句にまでは、たどりつけないというわけである。

根津の花、クレマチス


 最後は、「メダカの飼育」という趣味だ。実は、我々が小さい頃には、近くにあるどこの田圃にもメダカがたくさんいて、タモで水を掬おうものなら、必ずといっていいほど、メダカを何匹か掬い獲ったものである。文字通り、メダカーの学校は、川の中、そうっと覗いて見てごらん。みんなでお遊戯しているよ」という状態だ。それがいまや何と、メダカは絶滅危惧種というではないか。まあ、だからといって、団塊の世代がなぜメダカを飼いたがるのか、私にはよく理解しがたい。でも、これは広く静かに拡がっていて、一種のブームなのだそうだ。へえぇぇっ。

根津の花


 「団塊の世代の五大趣味というのは以上でわかりましたが、それであなた(つまり、私)は何をしているの?」と問われたら、「体を使うのはテニス、手足を使うのはカメラ、頭を使うのはパソコン」と答えたい。つまり、団塊の世代の定番は、ひとつもない・・・これが、今日、長々と饒舌を弄した挙げ句に、言いたかったことである。

 では、さようなら、お休みなさい。

根津の花






(平成22年4月26日著)
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