悠々人生のエッセイ 奈良京都の桜の旅



奈良荒池から見た興福寺の五重塔



       目 次
1. 吉野山の桜と歴史 1.写真集
2. 中華百楽と奈良ホテル 2.写真集
3. 長谷寺の大観音様 3.写真集
4. 仁和寺の御室桜は 4.写真集
5. 平安神宮の枝垂れ桜 5.写真集


1.吉野山の桜と歴史 (写真集)

花矢倉展望台からの眺め


 「吉野に行かずして、桜を語ることなかれ」とまで言われているかどうかは知らないが、奈良の山中の吉野山は、平安のその昔以来、全山が桜の木で覆われていて、それはそれは素晴らしい景色だという。それでは、ちょうど桜の季節だから、ひとつ行ってみるとするかと夫婦で出かけたのである。

 少し早いが、東京発が朝8時の新幹線で京都へ行き、そこから近鉄特急で橿原神宮前で乗り換え、吉野に着いたのがお昼の12時半である。ここが奈良の奥地であることを考えたら、こんなに早く来られるとは思わなかった。これも、新幹線のおかげである。

 ちなみに、今回の旅は、往復の新幹線と奈良ホテルでの宿泊がセットになっているもので、気ままな旅を楽しみたい我々には、ちょうどよい。ただ、お仕着せのパック旅行ではないことから、行く先々で現地の手配を自分でしなければならないのが難点といえば難点である。たとえば近鉄京都駅で、吉野までの特急券を確保するのがそれだった。しかし、何とまあ便利になったもので、前々日に自分でインターネット経由で指定券を買うことができた。近鉄京都駅の券売機に予約番号を打ち込み、クレジットカードをスリットに通せば、特急券が出てくるという仕組みである。これなら、旅行会社などは要らないではないか・・・。

 さて、二人で吉野駅に降り立つ。駅頭に立って周囲の風景を見渡していると、なぜか、東京の高尾駅を思い出してしまった。どちらも修験道の本家だから、似ているのだろうか・・・。それはともかく、まず一歩を歩き出してみないと始まらないので、ゆっくりと前へ歩み始める。すると、どうやら我々夫婦は、かなり周りから浮いてしまっているのに気付いた。というのは、我々の周囲には、チロリアン・ハットを被り、リュックを背負うという登山の格好をした中高年の皆さんが大勢いて、それらが登山用の杖を片手に我々をどんどん追い越して行くのである。これはどうも、かなり場違いのところに来てしまったのかと一瞬、そう思った。

 歩いてロープウェイの乗り場へと行くつもりだったが、ふと前を見ると、小型タクシーが二台来て、そうした登山客のグループ数人を乗せていった。そうだ、この手があったかと、我々も小型タクシーに乗り込んだ。車中で親切そうな運転手さんに、「一番上に行って桜を見たい、だけど、山登りはしたくない」というと、「ほんなら、上千本(かみせんぼん)近くの展望台に行って、ほんで下へくだって下千本(しもせんぼん)辺りで降りはったらよろし。そしたら、下りで30分も歩けばよろしおま、ロープウェイに着きますわ。ただなぁ、いまはまだ、下千本や中千本やいうても、まだ五分咲きくらいでっせ。上千本はあまり咲いておまへん。でも枝垂れ桜ん系統だけは、早咲きでんねん。これなんかは盛りを過ぎとるけど、花はまだ残っていまんねん。そやから、これならまだ何とか見られまっせ」とのこと。

 久しぶりの関西弁だったが、ともあれ、それでお願いした。お仕着せではない手づくりの旅に出てみると、こういう行き当たりばったりとなってしまう。しかし、良い人に巡り合うと実にうまくいくというのは、我々の人生と似ている・・・いやむしろ、それが人生そのものである。

 さあ、それからどうなったかというと、「ええっ、こんな狭い山道を通るの?」とびっくりするほどの七折れの狭い狭い山道を車はぐんぐん進んでいく。雑木林ばかりで、桜などは全く見当たらず、蛇のように左右にうねうねと曲がる単なる山道そのものである。しばらく、うねりくねっている道を走ったために気分が悪くなりかけた頃、ぽっと目の前が明るくなり、山が開けたところに出た。その見晴らしの良いところに、吉野水分(みくまり)神社があった。世界遺産だという。

吉野水分神社


 水分(みくまり)神社は、朱色の鳥居は色が剥げ、中の桧皮葺らしき本殿もかなり古び、ささやかな庭も風雪に耐えてよくここまで生き残ったと思われるほどの風体である。とはいえ、庭の中央に主のように生えている枝垂れ桜は美しい。本殿の一角に、豊臣秀頼公寄進の400年前の御輿が置かれていた。いやまあ、確かにたいそう古びていて、触ったりすれば壊れそうなほどである。こちらは桃山時代頃に創建された神社かと思ったら、それどころか、千年前の延喜式には既にその名があって、お社(やしろ)の全体が重要文化財であるという。そこで、門前に掲げられていた云われを読んでみると、「創立年代は不詳ですが・・・豊臣秀吉が吉野山に花見に来た際、当神社に祈願して秀頼を授かった」などとある。なるほど、だから、あの御輿があるというわけだ。

吉野水分神社の豊臣秀頼寄進の輿


 さて、その水分神社を出たところに、とても見晴らしのよいところがあり、地図によると花矢倉展望台だったようだ。確かに、桜が咲きだしている下千本と中千本が一望の下に見え、この上千本は、まだ桜は咲いていない。それにしても遠くまで見渡せるものだ。視界の中央には、まだその時にはわからなかったが、後から立ち寄ることになる金峯山蔵王堂の大屋根を望むことが出来た。まるで馬の背の両脇をピンク色の桜の大群が押し寄せてきているように思われた。ちなみに、この花矢倉の地は、追手に追われた義経一行が逃げるとき、忠臣佐藤忠信がそのしんがりを引き受け、自ら義経の鎧をまとって、「我は義経なり」と叫んで敵を一手に引きつけ、攻め登る山僧めがけて矢を放ち獅子奮迅の働きをして一命を投げ出した所だそうな。

そこからふたたび急峻な山道を下って行き、間もなく運転手さん知り合いのお宅に着いて、ほっとした。そこでは、立派なお庭を見せていただいた。大きな枝垂れ桜があり、青い空にピンク色の花がよく引き立って美しい。こちらは民宿をされているようで、その名も「たいら荘」というらしい。運転手さんによると、平さんは、平家の落武者の子孫だそうな。

たいら荘からの中千本の桜の眺め


  引き続き、転がり落ちた方が早いと思うほどの急坂をタクシーは慎重に降りていき、道の両脇に広がる桜の大木に目を奪われる。かなり下ったと感じた頃に、桜に囲まれた「大塔宮仰徳碑」がある所に着いた。この辺りから、中千本になるらしい。大塔宮(おおとうのみや)護良親王は、後醍醐天皇の皇子で日頃から武芸を好み、鎌倉幕府の討幕に功があったが、足利尊氏や父の後醍醐天皇と不仲となり、鎌倉に幽閉されていたときに北条方によって暗殺されたという。その倒幕運動のときに、この吉野や高野山を転々として戦ったらしい。

大塔宮仰徳碑


 次に行ったのが、竹林院である。ここは、旅館をやっているようであるが、その庭園「群芳園」は、豊臣秀吉が吉野山の桜の花見を行った際に千利休が作庭し、細川幽斎が改修したいわれている池泉回遊式の借景庭園である。もちろん、手入れの行きとどいた京都の名刹の庭とは比肩しようもないけれども、失礼を承知でいうと、その構造は鄙にも稀な名園である。もっとも、現地で書かれていたように「大和三庭園の一」というのは、いささか自慢のし過ぎのような気がする。

竹林院の敷地内にあった西行の歌の碑


 その竹林院の敷地内に入ってみると、まず、西行の歌の碑が目に付く。「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの花をたづねん」というもので、吉野山にまた来たが、去年付けておいた道標の道を変えて、まだ見たことのない方の桜の花を訪ねてみようという、なかなか風流な歌である。そこから庭の方へと行くと、大きな枝垂れ桜が客を迎えてくれる。三階建て近くの高さがあり、その傘のように広がった枝のすべてにピンク色の花が付いているので、とても見ごたえがある。大きすぎて、下からでは全体を撮ることが出来ない。

竹林院の庭園群芳園の枝垂れ桜

竹林院の丘にあった山桜の花


 庭は、真ん中に細長い池、その奥には小山を盛り付けて奥行きを出している。手前には石灯籠、その上にのしかかるように枝垂れ桜があり、確かに、自慢されるだけのことはある池である。その池の奥にある階段を上がっていくと、小山の頂きに出る。そこには、色々な種類の桜が植えられており、今がちょうど八分咲きである。よく見ると、桜の花びらの中央に緑の五角形があるものなど、あまり見かけない山桜もある。そこにあった東屋にて、お抹茶と桜餅をいただいた。ふむ、これは良い・・・心は既に太閤の花見気分である。ちょうど、近くには茶釜も飾ってあった。私はこれでも、裏千家のお茶の心得が少々あり、とても懐かしい気持ちになった。

竹林院の丘でいただいたお抹茶と桜餅

竹林院の丘にあった茶釜


 竹林院を出て、道が二股に分かれるところで、タクシーと別れて、そのまま歩いて下っていくことにした。少し行くと、右手が開けているところに出たが、そこからは、中千本の桜が良く見えて、思わず感嘆の言葉が出た。向い側の山の斜面一杯に、白とピンクの桜の木々が広がっているではないか・・・これぞ、吉野・・・という展望場所である。

天女魚(あまご)


 そこからさらに下ると、ますます人通りが多くなってきた。しかも、ハイキング・スタイルの人は見かけなくなって、みな我々と同じように、街中を歩く恰好である。これこれ、こうでなくては・・・お土産屋さんも多くなってきた。おやおや、氷の上に魚を並べてある。なになに「天女魚(アマゴ)」だって? こんな漢字を書くとは、初めて知った。

中千本の桜の眺め

売店の枝垂れ桜の花のピンク色


 ははぁ、その隣のお店のピンクの濃い桜は美しい。このように店頭に、綺麗な桜の花が咲いている鉢を置いているところが多い。そもそも吉野山が桜の名所となったのは、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した山伏の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)がそのきっかけを作ったとのことだ。すなわち、役行者が金峯山寺を開くときに蔵玉権限を桜の木に刻んだという故事があり、それ以来、この地では桜を神木として崇められ、保護されてきたというのである。

吉水神社近くから見た金峯山蔵王堂

吉水神社入口


 世界遺産「吉水神社」という掲示があった。道を下りていかなければならないようだ。その途中、満開の桜の木越しに、金峯山蔵王堂が見える所があり、ため息が出るほど美しい。そこでしばし道草をした後、吉永神社に繋がる階段を登って行った。南朝の本拠と書かれている。あの南北朝の時代の舞台だった場所なのだ。それだけでなく、ここから見る中千本の桜も見事である。景色と歴史の二つのことで、しばし心が奪われた感がした次第である。

吉水神社からの中千本の桜の眺め


 境内に、後醍醐天皇御製の歌の碑がある。「ここにても 雲居の桜咲きにけり ただかりそめの 宿と思ふに」・・・まあこれは、南北朝の歴史をよく現わしている。南朝の始祖となった後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を目指し元弘の変を起こして失敗し、京都から隠岐に流された。その後、護良親王、楠木正成、足利高氏などが挙兵し、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条氏を滅亡させた。それから天皇親政の形をとる建武の中興を行ったのだが、専制が行きすぎて失敗し、足利尊氏が力を増した。そこで、後醍醐天皇が新田義貞と楠木正成に対して尊氏追討を命じられたのだが、この両名は湊川の戦いで敗北し、足利尊氏が室町幕府を開設するに至った。それ以来、朝廷が京都(北朝)と吉野(南朝)とに分かれて並立する南北朝時代が始まる。そういうわけで、南朝の始祖である後醍醐天皇は、京都奪回を夢見つつ、この吉野の地で寂しく亡くなった・・・ということで、この歌の持つ哀切な意味がわかるというものである。

吉水神社の義経の鎧と静御前の着物

弁慶ゆかりのところ


 吉水神社には、その名もずばり「南朝の皇居」と書かれている木の札が立っていた。そもそもこちらは、1300年前の白鳳年間に、役行者によって創立されたと伝えられる吉野修験宗の僧坊であったそうな。後醍醐天皇だけでなく、源義経や静御前、豊臣秀吉のゆかりの場所ともされている。すなわち、後醍醐天皇が「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音」と嘆き、源義経が頼朝の追手を逃れて静御前や弁慶などとともにこの地にしばらく滞在したことから、「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ」と歌われ、豊臣秀吉がこの地で盛大な花見の宴を催し「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」と詠んだという。そういうわけで、これらの話にまつわる秘宝のたぐいがたくさん飾られていたが、驚いたのは、義経の鎧で、これほど小さくては昨今の中学生でも着ることが出来ないのではないかと思われるほど、小柄なものだったからである。これが本物なら、義経はかなり小柄な男だったようだ。

御醍醐天皇の玉座


 神社を出て、いよいよ吉野の中心の金峯山寺に行き、蔵王堂の前に立った。これは大きいとしか言いようがない。安土桃山時代に建てられた国宝である。本尊は、金剛蔵王権現像で、今年の9月から12月にかけての100日間だけ、特別ご開帳となるようだ。しかしこの日は残念ながら、まだその時期ではなかった。

金峯山蔵王堂


 ちなみに説明文によれば、修験道は日本古来の山岳信仰に仏教とりわけ密教が結びついて造られた宗教だそうな。「大自然の霊気の中で改めて自己を見つめ、修行と反省の中に人間完成の道を求める実践の宗教」であり「山岳は、神仏の住む曼荼羅であり、道場である」という。

下千本の桜の眺め



2.中華百楽と奈良ホテル (写真集) 

奈良荒池から見た興福寺の五重塔


 吉野山は夕方になると寒くなるというので、ロープウェイ乗り場まで急ぎ、近鉄の特急を利用して、一路、奈良へと向かった。近鉄奈良駅では、昨年、この地を訪れたときに、結構良い味だと思った中華レストランに行った。駅ビルの8階にある「百楽」という店で、エビのチリソース、麻婆豆腐、地元の若鳥を使った棒棒鶏(バンバンジー)に、蒸した中華パンというアラカルトを注文した。どの料理も食材の味が引き出されていて、適当に甘くて美味しく、東京の赤坂辺りの中華にも負けない味だと思った。

 ただ、そうした料理人の腕や、客を次々と案内するテンポの速さに対して、ウェイターやウェイトレスの技量やサービスが追いついていない感じである。どんどん客が入ってくるのに、注文をちっとも取りに来ないとか、ウェイトレスはひとつの仕事でせっかくテーブルまで来るのに、たとえばお皿を下げないでそのまま帰ってしまうなど、無駄な動きが多い。また、ごく簡単な料理なのに、追加注文をしたことを悔むほど、なかなか持ってこないなど、いくぶんかストレスもたまるレストランであった。家内と、「ここは、こうしてアラカルトで注文するには相応しくないところだね。サービスの技量が伴っていない。だから、セット・メニューを注文する方が、お客にもウェイトレスにも幸せなのかもしれない」と話し合ったりした。

奈良ホテル外観


 それから、奈良ホテルに行き、新館に泊めてもらった。失礼ながら古びたホテルだと思ったら、創業100周年を迎えたそうだ。実は、インターネットでホテルの写真を見たときにそう思い、しかもJR系でホテル専業でないこともあって、これはホテルで夕食はとらない方がよさそうだと思い、夕食は注文していなかった。それで、先述の「百楽」にしたというわけである。しかし数日前に、友達にこちらに泊まるといったら、「あそこの食事は美味しいよ。仲人をしたときに、そう思った」と言われ、少し惜しい思いをした。

 それで、朝食はどうだったかというと、まあ、とびっきりおいしいというわけではなかったが、上のクラスのホテル並みではあったので、我々の判定は合格点である。もちろん、ウェイターやウェイトレスの技量やサービスの点では、老舗ホテルだけあって百楽よりはるかに上であった。それだけでなく、ネットによると、奈良ホテルは、1909年の営業開始で関西の迎賓館と呼ばれ、皇族が泊まりに来られる由緒あるホテルの由。関東でいえば日光の金谷ホテル箱根の富士屋ホテル軽井沢の万平ホテルにも比肩するようなホテルらしい。我々は関西方面には疎いので、事前にもう少し調べればよかった。誠に失礼をした。いずれにせよ、これで、弾丸ツアーの第一日は暮れたということになる。

奈良ホテル内部


 さて、第二日となった。朝早く起きて食事を済ませ、奈良ホテルの回りをカメラを持って散歩した。始めはホテルの回りにある染井吉野の白い花を、青い空を背景に撮った。真っ青な空の色と、ほのかなピンク色で包まれた白い花びらが相互に映えて、本当に美しい。これぞ日本の春という気がする。ホテルから道路に出る道すがら、右手に池があって、それに赤い色の橋が架かっていた。これは絵になると思い、それをパチリと撮った。

奈良ホテル脇の赤い橋


 それで、道なりに荒池の方に歩いて行くと、池の端で染井吉野が満開になっている。それを撮りながらそのまま歩を進めて行くと、荒池に沿う道の中ほどに着いた。するとそこには、これまで見たことのない絶景があった。池の向こう岸には、興福寺の五重塔が見え、その姿が池の水に写っている。しかもそれだけではなくて、池の端の満開の桜の花越しにその五重塔が眺められ、それらと空との対比が、一幅の絵画のようで誠に素晴らしいものであった。茫然としてしばらく眺めていたが、やがて我に返ってその感動を写真に収めようとカメラを構えた。ゆっくりと構図を考えながらシャッターを切っていった。これは、今年で一番の作品になりそうである。これだけでも、はるばる来た甲斐があったというものだ。

奈良荒池から見た興福寺の五重塔



3.長谷寺の大観音様 (写真集) 

長谷寺からの桜の眺め


 荒池の畔でひとしきり写真を撮った後、ホテルに戻り、タクシーでJR奈良駅に行った。近鉄を使わなかったのは、こちらの方が、長谷寺のある桜井駅には乗り換えなしで行けるからである。路線図を見ていると、この辺りではJR桜井線というより、万葉まほろば線などと書かれている。国のまほろば・・・中心という意味のあれか・・・良いネーミングだけれども、それと万葉とをくっつけるなんて、聞いたことがないと思ったら、2010年3月13日のダイヤ改正から使用されているという。なんだ、つい20日前からではないか。

 そのワンマン電車はのんびりガタゴトと走って行き、天理駅、巻向駅などを経由して、30分ほどで桜井駅に着いた。あらかじめ、JTBで駅前からの観光タクシーを頼んでいたので、駅頭に並んでいたタクシーのひとつに乗り、そのチケットを渡した。ところが、その運転手さんは初めてそれを見るらしく、その辺りに駐車していた同僚に聞きに行くなどのハプニングがあったが、ともかく長谷寺に向かってくれた。

長谷寺本堂の桜


 途中、運転手さんが、「下の駐車場から登らはんのはしんどいから、一番上まで行きますわ。それで、下の駐車場で待ってますわ」といってくれた。ああ、これは吉野山方式と同じである。どこまで行くのだろうと思っていたら、何と、長谷寺のあの急坂を一気にタクシーが登って行き、そのおかげで、あっという間に本堂の近くに着いた。昨日の吉野山で、家内が少し足が疲れたといっていたので、これは有り難かった。高いところだけに、景色は抜群によい。それを手前に咲いている桜の花越しに見るというのは、なかなか見られるものではない。それにしても、もしこのタクシーを使わなければ、登廊(のぼりろう)の、あんな急な階段を上る必要があったのかと、上から廊の中を見降ろしてびっくりした。

長谷寺登楼


 現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山であり、 また西国三十三観音霊場第八番札所ともなっている由。この日は、本尊十一面観世音菩薩立像の特別拝観が行われていた。室町時代の作の重要文化財である。我々は、何にもわからないまま、その拝観券をいただいて、中に入ろうとすると、まず入口でお坊さんから、手に五色の紐を巻いてもらった。そのとき別にいただいた説明文によると「この五色線は、仏の五つの智慧をあらわす白・赤・黄・青・黒の五色の糸をより合わせて腕輪を作りました。これを身につけることにより観音様とご縁が結ばれたという印になります。災いを除き、安心を与えるこの腕輪をお帰りになられた後も大事にお持ちください」とあった。

長谷寺本堂特別拝観入口


 それで、お礼を申し上げて本堂の暗いところに入ると、一瞬、目の前が暗くなる。しかしやがて暗さに目が慣れると、すぐ前に、大きな両足があった。黒光りをしている。本尊十一面観世音菩薩立像の足だった。どうも、その前に見たポスターによると、信者はこの足の指に手を触れて、願い事をするらしい。我々も周りの人たちに倣って、家内安全、親類一同の無事を願った。こういうときには、日本人というのは便利である。宗教の違いに無頓着なのだから・・・いつの間にか我々も、真言宗の信者となっていたというわけである。まあこれが、狭い日本列島で先祖代々暮らしてきた智恵というものだろう。

長谷寺本堂から見た五重塔


 その足を一周しても、要するに観音様のお御足の部分しか見えない。上体はもっと上にあるのだ。どうなっているのだろうと思いつつそこから出てきて、やっと様子がわかった。その上の階には、お坊さんが信者を集めて読経をしておられて、いわばそれが二階に相当し、さらにその上でもお顔を拝めるようになっているみたいだ。観音様の高さは約10メートルというから、なるほどうまく造ったものである。

長谷寺五重塔


 ちなみに、この本堂の建物は、小初瀬山中腹の断崖絶壁に南面して建てられた大殿堂で、崖にへばりつくように建てられているから、懸造り(舞台造)というそうだ。そういえば、清水寺の舞台も、これとそっくりである。こちらの本堂にも、今の言葉でいえば展望台があり、そこからの眺めは天下一品というところである。また、その展望台の脇のところからは、桜に囲まれた五重塔が見えて美しい。あとからその五重塔の下に行って写真を撮ったが、近くから見ても建物の丹色と桜のピンク色との対比がきれいで、素晴らしい景色だった。

長谷寺仁王門


 長谷寺を出て、そのタクシーで桜井駅に戻り、近鉄で京都に向かった。車中での昼食は、桜井駅中で買った「柿の葉寿司」である。どんなものかと思ったら、鯖と鮭がひとひとつ、柿の葉で長方形に包まれているものである。包み紙には「柿の葉寿司は、熊野灘から奈良へ向かう鯖街道の名産」とある。京都で鯖街道といえば、若狭湾で獲れた鯖が、人の背中に背負われて一晩かかって京都まで運んで来られる道であるが、なるほど、ここでは若狭に当たるのが熊野灘で、京都が奈良なのか・・・。

 それで、同封されていた寿司屋さん(中谷本舗)の説明書を読むと、「急峻な山に囲まれた山里では、海の幸は貴重なもの。熊野灘で水揚げされ、浜塩を施した鯖は、背負い籠に詰められ、高い峰を越え、谷川の難所をわたって村々に運ばれました」とある。ああ、若狭の鯖と同じだ。「それをこの地の人々は、薄く切ってご飯の上に乗せ、手近に豊富にあった山柿の葉に包んで重石をかけ、熟成させて祭礼の日のご馳走としました」ということらしい。ちなみに、柿の葉には殺菌作用があって、保存食に使われるそうだ。そういうわけで、これを車中で味わって食べた。・・・感想ねえ?・・・一口サイズで食べやすいし、おいしいのは事実であるが、実はここ十数年来、健康のためにと家内が減塩食に取り組んできたせいだと思うが、柿の葉寿司は、とてもしょっぱく感じた。


4.仁和寺の御室桜は (写真集) 

仁和寺北庭の池と背景の五重塔


 午後1時過ぎには、もう京都に着いてしまった。そこで、手荷物をコインロッカーに預けようとしたが、何とまあ、どのロッカーも満杯である。探しに探して、とうとう駅ビルの端にある、手荷物一時預かり所に着いてしまった。そこに預けて、すぐにタクシーに乗り込んだ。前回、春に来たときには、醍醐寺の桜を見に行ったので、今回の行き先は御室桜(おむろざくら)が咲いていたらと思って仁和寺にした。あの、木の背たけは低いが、鈴なりに咲く桜である。

仁和寺御殿入口横の桜


 仁和寺の歴史は、そのHPによれば要するに、仁和2年(886年)に光孝天皇によっ発願されたものの志なかばにして崩御された。そこで次の宇多天皇が遺旨を継がれて造営につとめたところ2年後の仁和4年(888年)になって完成させ、「仁和」の年号をもって仁和寺(にんなじ)と呼ばれるようになったとのことだが、その宇多天皇は、退位後は出家して30余年もの間、真言密教の修行に励まれたという。それ以来、仁和寺は明治維新まで皇子皇孫が門跡になって来られたそうな。だから、建物内部が御所とそっくりなわけだ。もちろん、世界遺産に登録されている。

仁和寺二王門


 仁和寺の二王門の前に着き、その大きな門を見上げた。また京都に来たという実感がする。前回この仁和寺に来たのは1月の寒い寒い季節で、我々のほかにほとんど人はいなかったが、今回は温かい季節とあって、鈴なりの拝観者である。そういう中に混じって、宸殿の中を見学させていただいた。御殿入口横の桜が美しい。建物に入ってみると、歴史書の図で見た御所の内部とまったく同じ造りであることがわかる。もっとも、御所そのものではないから南庭に勅使を迎える門があり、そこを歴史で習った「しとみ戸」が続く長い廻廊を通っていくと、左近の桜、右近の橘がある。これも、歴史の図と同じだ・・・中の部屋は、床の間、違い棚、美しい大和絵の襖、格子天井など、金色を貴重とした誠に優雅なものである。なるほど、これが門跡寺院の風格というものか。

仁和寺北庭の池


 その南庭を通りぬけて北庭にさしかかった。手前は白砂の石庭風だが、その後ろには、細長い池があり、緑の水面が美しい。池の中央には、石の橋と小燈籠があって、見ごたえがある。ああっ、池の向こうには、五重塔が見える。青い空にすっくと立つ塔は、とても清々しい。これが借景というものか。霊明殿を通って、長い廊下をぐるぐると回って退出した。

仁和寺の桜

仁和寺五重塔


 外に出ると、ようやく参道の両脇に、染井吉野があることに気が付いた。そして、肝心の御室桜のところまで行ったのだが、遅咲きの桜らしくて、残念ながら、まだ蕾だった。そこで、五重塔の方に行った。すると、こちらは枝垂れ桜が満開なので、それを前景とすると、遠近感が出てなかなか味のある写真を撮ることが出来た。参道の脇に、明るい紫色の花が咲いていたので、何だろうと思ったら、家内によると「みつばつつじ」という種類だそうだ。今が満開である。丹色の鐘楼の脇を通りかかった。近くの枝垂れ桜とよく調和している。その写真も、忘れがたい1枚となった。

仁和寺鐘楼

仁和寺みつばつつじ



5.平安神宮の枝垂れ桜 (写真集) 

平安神宮應天門


 仁和寺を退出した後、どうしようかと思っていたところ、家内が急に、平安神宮へ行ってみようと言い出した。私は、あそこは、大きな朱塗りの鳥居と本殿しかないと思っていたものだから、どうかと思ったものの、家内のいうとおり、タクシーを拾って行き先を告げた。途中、川の両脇で染井吉野が満開を迎えていた。もし、平安神宮がさほどのものではなかったら、あの辺りを散策してもいいなと思ったほどである。そうこうしているうちに、平安神宮の大鳥居の近くまで来た。

平安神宮の枝垂れ桜


 平安神宮については、恥ずかしながら私は、時代祭りを挙行するところという程度の知識しかなかった。今回、改めてそのHPを見させていただくと、ご祭神は、桓武天皇と孝明天皇ということだった。京都を都に決めた桓武天皇はともかく、幕末に強硬な攘夷論を唱えられて明治維新の確か2年前に崩御された孝明天皇もご祭神だったとは、ついぞ知らなかった。時代の節目を作られた天皇ということか・・・それにしても、それは明治天皇ではないか・・・いやいや明治天皇は京都を出ていったので、京都最後の天皇ということで、孝明天皇になったいるのかもしれない。つまり、京都が都であったときの最初と最後の天皇ということか・・・。

平安神宮の枝垂れ桜


 さて、應天門と書かれた巨大な丹色の門をくぐり、左近の桜が美しい大極殿の前を通って東西南北の四つに分かれているという神苑に入った。これは、神域を囲っている庭に当たるところである。最初は平安の苑であり、ピンクの枝垂れ桜が満開を迎えていて、実に美しい。ははぁ、平安神宮とは、こういう所だったのかと、己の不明を恥じるばかりである。着物姿で歩く観光客らしき女性もちらほらといて、桜に良く似合っている。おっと、ウチのカミさんの写真も撮らなければ・・・しかし、どんな美人でも、この桜の美しさには負けてしまうだろう。

平安神宮の和服の女性


 南神苑にある平安の苑の細い流れは、北神苑の白虎池という、やや大きな池につながっている。その辺りに垂れ下がる枝垂れ桜の枝といったら、たとえようもないくらいに美しい。この枝垂れ桜を背景として、家内と写真の撮り合いをしたのだが、これがなかなか難しい。まずは、人物を主体にするか、それとも枝垂れ桜を主体にするかが大きな分かれ道である。人を主体にするなら、顔と上半身を画面の真ん中にドーンと入れて、その背景に桜をちょっとだけ配せばよい。そうすると、写真としては収まりがよい。逆に、枝垂れ桜を主体にするなら、人物にその木の近くに立ってもらって、それで木の全体を写すとよい。よく、観光地で観光客がお互いを撮り合っているのがこの構図である。

 ところが、家内も私も、欲張りなことに、人物も枝垂れ桜もどちらも撮りたいと思って撮るものだから、人物の半身が切れてしまったり、構図の中心が定まらなかったりで、どうにも中途半端な写真となってしまった。これから、人物の写真の撮り方も、覚えなければと反省する結果となった。

平安神宮の染井吉野


 中神苑の蒼龍池にさしかかると、傾く日差しを一身に浴びている染井吉野の桜の木が素晴らしい。こちらには、池の中に飛び石のような遺構があり、臥龍橋というらしい。その丸い石材は、豊臣秀吉が三条と五条の大橋を作ったときに使われた橋脚だとされる。東神苑の栖鳳池に入った。池の向こうの建物、尚美舘(貴賓館)が池の水に写り、その姿を枝垂れ桜がいっそう引き立てている・・・綺麗だ。少し行くと、泰平閣という橋の役割をする建物が池に架けられていて、橋殿といわれるらしい。これも、実に優美な姿をした建物である。それを通って、池全体をもう一度振り返ってみると、はっと息を呑むほどの美しさである。

平安神宮尚美舘(貴賓館)


 そこで私が家内の、逆に家内が私の写真を撮ったところ、二人とも非常に満足した顔で写っていたのである。先ほど、お互いの写真を撮ろうとして四苦八苦したときとは大違いである。 そこで思いついたことは、写真というのは、テクニックというものも無論大事だけれど、その場の感動をそのまま写し撮ろうという気持ちの問題がもっと大事なことなのかもしれないということである。

平安神宮泰平閣


 というわけで、一泊二日のあわただしい奈良と京都の桜を見る旅は、終わったのである。最後は、京都駅の新幹線乗り場にある、いつもの京都名物「鰊そば」を食べたのだが、この日はとてもそれでは足りず、帰りの車中でいろいろと食べてしまった。体重計に乗るのが、少しこわい気がする。

平安神宮東神苑の栖鳳池




(平成22年4月 6日著)
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