なだらかな山肌の谷間の一面が、白やピンク色に染まり、遠目には雲がたなびいているように見える。その中に入って行くと、心地よい梅の香りがして、幸せな夢の中に誘われているような気持ちになる。これが、吉野梅郷の中の、梅の公園の風景である。吉野の郷といっても、場所は東京の奥地で、青梅駅近くの日向和田駅にある。東京に長く住んでいるけれど、このような梅の郷があるとは、ついぞ知らなかった。 立川から半時間ほどJR青梅線に乗り、青梅駅から二つ目の日向和田駅に降りる。そこから歩き出して、多摩川に架かる神代橋を渡り、さらに10分くらい歩くと、青梅市梅の公園に着いた。梅の花が放つ芳香が、公園の入口に近づいただけで、辺り一面にただよってくる。敷地内に入ると、起伏に富んだ地形を生かして、たくさんの梅の木が植えられている。この公園を中心に、周辺の地元農家の梅園やお寺に約25,000本もの梅の木が植えられていて、これらを総称して吉野梅郷というらしい。こうして見られる数多くの、また数々の種類の梅の木のほか、梅郷内には、吉川英治記念館、青梅きもの博物館などという観光スポットもあるらしい。しかし、残念ながらこの日は、そういうものまであるとは知らなかったことから、朝は自宅を遅い時間に出たので、そこまで足を延ばす余裕がなく、もっぱら梅の公園を散歩するにとどまった。しかしそれでも、早春の梅を久々に心行くまで堪能することが出来た。 さすがに梅の里だけあって、梅の公園にたどり着くまでの道々の民家の庭先にも、様々な梅の木が植えられていた。私は、これほど多くの梅の種類を見たのは、初めてである。梅の公園に入ったところ、一口に白梅や紅梅というが、それどころではなくて、まず色からすると、白梅や紅梅のほか、赤梅といいたいほど真っ赤な種類がある。梅の花弁についても、標準的な5枚にとどまる花びらの木はここではむしろ珍しいくらいで、5枚であっても重なっていないすっきりとした印象のもの、花びらが波打っているもの、あるいはその逆に八重桜のように花びらが何枚もあるものまである。また、木の立ち姿についても、枝が捻じれて付いている普通の梅の木もあるし、しだれ梅の木もある。 それらに近づいて写真を撮り、また周囲の景色と合わせて遠目で眺めながら、その梅の谷間を登っていく。すると、谷合いから数多くの民家とその背景となっている山脈を眺める場所に着いた。手前の梅の木々とよく調和して、誠に美しい風景である。とりわけ、東屋のある位置は、非常によく考えられていて、そこに坐って見渡すと、いずれも景色が素晴らしい。それに、写真からはわからないが、あたりにただようほのかな梅の香りが天然のアロマ成分となって、我々の鼻をくすぐるのは気持ちよい。あたりで、親子連れが並んで写真を撮っている微笑ましい場面もある。
・白一重 → 梅郷(バイゴウ)、持田白(モチダシロ)、玉英(ギョクエイ) ・白八重 → 大輪緑萼(タイリンリョクガク)、緑萼枝垂(リョクガクシダレ) ・淡紅一重→ 鶯宿梅(オウシュクバイ)、小輪鈴鹿の関(ショウリンスズカノセキ) ・淡紅八重→ 鴛鴦(エンオウ)、新平家(シンヘイケ)、朱鷺の舞(トキノマイ) ・紅一重 → 大盃(オオサカズキ)、関守(セキモリ) ・紅八重 → 幾夜寝覚(イクヨネザメ)、紅枝垂(ベニシダレ) ・濃紅一重→ 大輪緋梅(タイリンヒバイ) ・濃紅八重→ 鹿児島紅(カゴシマベニ) いずれにせよ、これほど多くの種類の梅があったのかということに、まずは驚くところである。これらの中には、吉野梅郷原産の梅もあれば、大分豊後産、鹿児島産の梅もあるし、あるいは野梅系のものもある。梅に愛情を持つ育種者が、長い間、大切に育て上げ、品種改良に努めて来られた成果であろう。 さて、出口の近くに、黄色い粒々の花がたくさん咲いている木があった。これは珍しいと思ったのでその説明の札を見たところ、山茱萸(さんしゅゆ)という木の花である。「季節の花300」さんによると、中国と朝鮮半島が原産地で、日本に渡来したのは江戸中期とのこと。なんでも「木全体が早春の光を浴びて黄金色に輝く」ことから、別名を「春黄金花(はるこがねばな)」というらしい。ううーむ、確かにそういう雰囲気がなくもない。また、その近くには、ラッパ水仙とでもいうのだろうか、元気のよい西洋水仙が植えられていた。 その梅の公園から、バスで青梅駅に出た。駅の中に漫画の天才バカボンが逆立ちしている人形があり、その横には、青梅について、次のような解説が書かれていた。 「江戸の頃には青梅縞(おうめじま)の市場集落『青梅宿』、終戦後は空前の織物景気で西多摩随一の繁華街、物が集まり、人が集まり、活気にあふれた青梅。 古い街並、商家、路地、街灯、映画看板、漫画館・・・。ここ青梅には、まるでスクリーンから抜け出したような懐かしい昭和が生き続けています。あなたに元気を与えてくれる昭和、瞼のスケッチした昭和がここにあります。 ようこそ、昭和の街、青梅へ。」
ははあ、それでは、ちょっと街中でも覗いて来るかと思い、駅前からブラブラと歩きだした。まっすぐ行って右に曲がると、左右に古い映画の看板のようなものがある。「二十四の瞳」、「俺たちに明日はない」、チャプリンの「街の灯」など、たくさん目に付く。古い商店街と、よく似合っている。後ほどいただいたパンフレットを見ると、これらの看板は、久保板観氏と明星大学造形芸術学部学生有志の作とのこと。なかなか、面白いことをするものである職業柄、映画の著作権との関係はどう処理しているのだろうかと気になるところであるが、まあ、それはともかく・・・今日は休日だ。 ちなみに、その先に昭和レトロ商品博物館というものがあって、そこの喫茶店で一休みをしてきた。きょうは、梅を見て、その帰りには昭和のレトロな世界に触れるという、不思議な組み合わせの一日であった。 【後日談1】吉野梅郷の全滅から復活して3年 私たちが吉野梅郷を訪れたのは、2010年のことである。今から思うと、それは梅郷の最盛期だった。それからほどなくして、全国的に猛威をふるった「プラムポックス・ウイルス」が吉野梅郷を襲った。わずか4年後の2014年、 青梅市梅の公園を中心に25,000本もの梅があった吉野梅郷は、泣く泣く全ての梅という梅の木を伐採せざるを得なかった。残念なことに、ここに吉野梅郷は、文字通り全滅してしまったのである。 その後、梅郷の再生に向けて新たに梅を植樹し始めて、2017年にようやく復活した。梅の公園内には、現在1,200本の梅が植えられている。ところが、2020年になって今度は人間界において「新型コロナウイルス感染症」が全世界的に流行し、既に2年近くも経つというのに、感染が一向に収まらない。皮肉なものである。 【後日談2】青梅から映画看板がなくなる? 久保板観さんは、1941年に地元の青梅に生まれ、中学卒業後に映画館「青梅大映」で映画看板作成の仕事に就き、それから1973年の映画館の廃業まで4,000枚もの看板を描いたという。1994年から地元の商店街から頼まれて再び映画看板を描き始めてその作品が青梅市内のあちこちを飾るようになった。我々が見たのは、そういう映画看板だった。 ところが、久保板観さんは、2018年2月4日、帰らぬ人となった。享年77歳だった。それから8ヶ月後、青梅駅前商店街の映画看板が撤去されることとなった。理由は、先日の台風24号で一部の看板が落下したためだというが、久保さんの後継者がいなかったということもあったのだろう。残念なことに、昭和の雰囲気を残した街が、また一つ消えていく。昭和は、遠くなりにけり。 (平成22年3月22日著、令和3年9月4日追加) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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