少し気候が良くなってきたし、そろそろ足ならしにハイキング気分を味わいたくなった。そこで、まだ菜の花が咲いているから、それを前景に雪を被った富士山を撮ってみたくなり、神奈川県二宮町の吾妻山に向かうことにした。標高わずか136メートルというから、山ならぬ丘登りをすることになる。光の当たる加減からして、写真を撮るなら午前中に到着するのが望ましい。東京駅から東海道線で熱海行きに飛び乗った。ところが、朝早くのときは晴れていた天候が、二宮に近づくにつれて、晴れてはいるものの、薄い雲がかかったようになり、風も強くなってきた。あまりに南からの風が強いので、国府津駅の辺りで徐行運転をしているから、全般的にダイヤが乱れているという有り様である。 大船に差し掛かった辺りで家内と相談し、鎌倉見物に切り替えようかとも思ったが、結局、最近は運動不足気味だからという理由で当初の案通りに行くことにした。二宮駅に降り立ち、とぼとぼと歩き出して、町役場前の坂を上がっていった。吾妻山公園入り口という看板の下をくぐって、急な階段を一気に登っていく。途中、疲れた頃に、うまい具合に木の切り株が二つほど置いてある。まるで、「さあ、ここで休んでください」と言われているようなものである。それを2人で適宜利用させていただいて、ぼつぼつと登って行った。上の写真は、その途中にあった花で、「季節の花300」さんによれば、これは、連翹(れんぎょう)、古名は「鼬草」(いたちぐさ)という。中国が原産地で、花言葉は「集中力」とのこと。登っていく道の左右に咲いていて、葉など何にもない裸の枝から、ニョキニョキと生えていた。まっ黄色が魅力的であるが、花は下を向いているので、写真は撮りにくかった。 そうこうしているうちに、やっと管理棟なるところに行きついた。建物の近くには、著莪(しゃが)の花が植えられている。「季節の花300」さんによると、花言葉は「友人が多い」、あやめ科とのこと。おもしろいのは学名で、Iris japonicaといって、特に「ジャポニカ」という名が付けられている。トキのニポニア・ニポンと同じで、これは覚えやすい。 管理棟でまたひと休み。管理棟前の空き地には、手前に紫の花の群落、その奥には黄色い菜の花の群落が作られている。この紫の花には花大根(はなだいこん)という、誠に面白くも何ともない名前が付けられているが、別名の「諸葛菜」(しょかっさい)の方が、歴史好きにはピンとくる。「季節の花300」さんによれば、三国志時代の諸葛孔明が、行く先々にこの種子を持って行って、食糧にすべく栽培したからそう名付けられたという。皇居の千鳥ヶ淵などで群生しているというが、知らなかった。もうすぐ咲く桜の季節に行くときには、探してみよう。 さてそれで、また黙々と登り、やっと展望台に到着した。道を知らなかったから、ここに至るまで、とてつもなく長く感じたけれど、これなら、一気に登っていくと20分以内で着くのではないかと思う。そういうわけで、たいして汗もかかなかった。ところで、展望台のある広々とした丘の頂上からは、左手に相模湾の海が、右手に富士山が見えるはずだったが、残念なことに富士の方向は、山裾すら見えなかった。しかし、菜の花畑は期待通り眼下に広がっていたし、ちょっとした運動にもなったので、まあいいかという感じである。今度来るときは、ウェブのライブカメラで確認してから、来ることにしよう。 丘の頂上で散歩した後、さあ帰ろうかという段になって、家内が「ローラー滑り台」に乗ってみたいという。確かにそれを使うと管理棟のあるところまで一気に下って行けるけれど、だいたい大人が乗れるものかと思って乗り場まで行ってみたら、ひとり100円だと書かれている・・・大人でもいいのか・・・お尻が痛いのではと思ったら・・・小さな敷物があるらしい。では仕方がないと思って乗ったのだが、まあ、そろばんに乗ってその玉を使って移動しているような感じである。案外、速度がついてしまうので、両足の靴を側面に接触させてブレーキにしないと、飛び出しそうである。それやこれやでバタバタしているうちに、着いてしまった。乗った後で反省しても仕方がないが、そもそも体の重たい私などは乗るべきではなくて、これは、そもそも体重の軽い女性や子供向きの乗り物である。 二宮駅に戻り、そこからわずか10分程度のところにある小田原駅に向かった。我々は、小田原はよく通過するのだけれど、未だに降り立ってじっくりとお城を見物したことがない。そこで今日は、よい機会だと思って、小田原城の正門に向かった。途中の商店街で、ういろうの駅前店を見て、ああ、まだ薬局をやっている・・・でも、併設の形で喫茶もやっているのはさすがだ・・・と思いつつ、その前を過ぎて、お城の堀に架かっている橋を渡った。 小田原城本丸の正門に当たる常盤木門をくぐる。そこで、親子連れが記念写真を撮っていたが、撮られる方の子供たちは直立不動の姿勢で、撮るお母さんは、しゃがみ込んでカメラを構えて奮闘しているという、微笑ましい風景だった。お城の中には、たくさんのソメシヨシノの木があって、桜のつぼみを付けている。しかし、まだ咲いてはいない。来週末には満開ではないだろうか。 小田原城歴史見聞館というところに入り、お城と北条家5代の歴史を学ぶ。戦国大名としての北条早雲の成立、三大奇襲戦のひとつとされる北条氏康の河越野戦(いまの川越の地で、上杉氏などの10倍の敵を野襲で打ち破った)、豊臣秀吉による小田原攻めなどである。面白かったことをふたつだけ述べると、もともと開祖の早雲の姓は、「伊勢」であったが、関東にまで勢力圏を広げる際には、関東武士の間になじみのある姓がよいとのことで、息子の氏綱の時に、鎌倉の執権で最も著名な「北条」姓を名乗ったそうだ。それから、江戸時代の末期に、小田原の宿場の様子などを撮った写真があり、それをめくるとその下に現在のその場所の写真があって、それらを照らし合わせることが出来るようになっていて、なかなか興味深かった。
さて、小田原城に入ったのだが、残念なことに、これは戦後になって復元された鉄筋コンクリート製のイミテーションである。本物は、明治維新の際のどさくさで、明治3年に天守などが売却のうえ破却され、明治5年には銅門(あかがねもん)が同じ運命をたどった。挙句の果てに大正12年の関東大震災には、石垣まで崩れてしまったという散々な歴史であることを知った。昭和35年に復興された現在のお城は、3重4層の本瓦葺きで、総工費8000万円かかったという。ちなみに、この8000万円というお金・・・平成の現代では億ションのひと部屋すら買えない金額である・・・この間の物価の上昇がわかるというものである。 小田原城内の展示で、またまた面白かったことがある。それは、小田原ちょうちんのことである。小田原駅構内にも、寸胴の形をした大きなものが吊り下げられている。それが、なぜ江戸時代に名産になったかというと、コンパクトに折りたためるので、持ち運びに便利であっただけでなく、紙の貼り方に工夫があって、多少の雨風に当たっても紙が剥がれない頑丈さにあったというのである。確かに、展示されていた現物は、現在のお菓子の平べったい丸い缶のようなものだが、それを上下に伸ばすと、結構な長さのちょうちんになり、それを懐中に入れるための巾着袋とセットになっている。手先が器用でコンパクトなものを作り出すことが出来る日本人の特質は、既に江戸時代からあったのかと、改めて感心したところである。 それはともかく、天守閣の周囲を外の光を浴びて一周できるようになっている。そこを歩くと、相模湾の海やら市街地や山並みが見えて気持ちが良いことこの上ない。これが、一国を領する気分というものかと、少しわかった気がする。秀吉の一夜城の方向が示してあって、ああ、あそこがその舞台かと納得する。それまで、北条氏は、上杉と武田の二回にわたってこの地を攻められたが、いずれも籠城戦法で撃退できた。その成功体験があったものだから、秀吉の小田原攻めに対しても籠城で戦おうとしたのだが、何しろ秀吉は21万人も動員したことから、まったく目算が狂ったということらしい。 小田原駅から東京に帰ろうとして、来たときと同じようにまたJRに乗って東京駅で降りて二重橋駅から千代田線に乗るか、それとも小田急線で新宿駅に行ってそれから帰るかと迷っていたら、少し待てば小田急のメトロ・ロマンスカーがあることに気が付いた。これは、千代田線直通だから、我が家までそのまま帰ることができる特急である。その青い美しい車両に乗り、帰途に着いたというわけである。ちなみに、小田原城の中も、階段を延々と登る必要があった。吾妻山と合わせて、一日に二回も山登りをした気分である。そういう意味では、疲れる休日であった。しかし、三連休の初日であるから、また大丈夫だろう。明日はテニスだから今晩は早く寝ることにしよう。それから、言い忘れたが、小田原の駅ビルで、箱根の富士屋ホテルがやっているレストランがあった。ウェイトレスやウェイターの皆さんは、よく訓練がされているようで、非常に礼儀正しかったし、また食事もホテルのレベルで、非常に満足したことを付け加えておきたい。 【参 考】 吾妻山公園についてのHP 吾妻山公園は360度の大パノラマ。箱根、丹沢、富士山が手に取るような近さに感じられます。南に広がる相模湾は、晴れた日には大島や初島も見ることができます。一面芝生のさわやかな園内は、休日になると家族連れや若者たちでにぎわっています。 (平成22年3月21日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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