悠々人生のエッセイ









1.羽田から搭乗

 年末年始を少しは暖かいところで過ごそうと、親子3人で瀬戸内への旅を計画することにした。家内はまだ行ったことがないから金比羅宮と鳴門を見たいといい、息子は岡山と倉敷に立ち寄ってみたいという。私は、30数年ほども前のことだけれども、倉敷と金比羅には行ったことがあるが、鳴門の渦潮は見たことがない。全員の希望を考えて、岡山空港から入り、各地をぐるりと回って徳島空港から帰ることを考えた。ところが、予約時点ではまだ1ヶ月以上も先のことだというのに、四国側ではお正月を迎えるのに適当な宿が見当たらない。そこで、大晦日から元日にかけては倉敷の老舗旅館に泊まり、そこから特急で瀬戸大橋を通って琴平へ直行し、翌日は高松にあるしがないホテルしか見つからなかったのでとりあえずそこに一泊し、次の日に鳴門を見物することにした。

 いよいよ出発の大晦日の朝となった。午前7時30分の羽田発のJALに乗るため余裕をみて1時間前に飛行場に着くには、5時20分に自宅を出なければならない。これは早い・・・早過ぎる・・・朝寝坊気味の私としては、つらいところである。加えて、ちょうど遠足前夜の小学生のごとく前夜は気持ちが高ぶって寝付きが悪いのではないかと思ったが、案ずるまでもなくいつもの通り寝入った。そして、朝は家内が目覚まし代わりとなってくれて、何とか時間に間に合うように起きることが出来た。そして、浜松町からモノレールに乗って空港第一ビルに着き、四国方面の便が出発する南口の方へと行った。

 国内線では、機内持込み手荷物の大きさが各社まちまちだったのを、つい最近統一したというが、巻き尺を持って厳密にチェックしていた。こういうところは、日本の航空機会社は本当に几帳面である。ところがこれと軌を一にして手荷物検査だけでなく身体検査が厳しくなった。金属探知機がビーッと鳴ったお客には、徹底したボディ・チェックを行っていた。もう、そこまでするのかと眉をひそめたくなったほどである。私も、携帯電話は外したが、ベルトのバックルのせいで鳴るのではないかと気になったが、幸い、そういうこともなく無事に通過できた。

 搭乗口横の待合室には最初、あまり人がいなかったが、出発時刻30分前からぞろぞろ乗客が集まり、窓から見えるあの小さな飛行機に、果たしてこんなに乗れるものなのかと思ったほどである。機内に入ると、われわれ夫婦と息子の3人が横一列になって機体の中央部付近に坐ることができた。飛行機が離陸してしばらく経つと、ドリンクのサービスが始まった。そのとき、家内が上の棚に乗せた荷物から、消音ヘッドフォンを取り出そうとしたら、最近は自分の荷物でも飛行中は勝手に取り出せない規則だというので、スチュワーデス・・・近頃はキャビン・アテンダントというのか・・・さんが、代わって取り出してくれた。いやはや、これは厳しくなったものだ。

 岡山までどんな飛行ルートをとるのかと思っていたら、太平洋上ではなくて、日本列島の中央寄りやや南を列島に沿って飛んでいた。機体の進行方向に向かって右手に座っていた私には、八ヶ岳のような山が見え、それから濃尾平野を縦に横切る木曽川などが見えて琵琶湖に至り、しばらくして兵庫県の山中に入ったことがわかった。するともう着陸である。わずか小1時間の空の旅であり、朝の9時前にはもう岡山飛行場から、タクシーに乗り込んでいた。まあ、東京と何と近いことかとびっくりする。


2.岡山城と後楽園

 我々の行き先は後楽園と岡山城であるが、運転手さんのお勧めに従って、まず後楽園に向かった。タクシーから降りると、いやもうその寒いことといったらない。後から聞いたところでは、この大晦日から元日にかけて、典型的な西高東低の気圧配置となったようである。北海道から山陰の日本海側では、所によって一晩で1メートルを超す積雪に見舞われたそうな。その影響で、瀬戸内海地方までもが、マイナス1度だったという。確かに、我々の間を吹き抜ける風は、頬を冷やし、体を氷のように冷たくする。そういう中で、まあせっかく来たから見物しようといっても、やはり限界がある。

 そういうわけで、特別名勝・岡山後楽園をじっくりと楽しむどころではなかったのであるが、いただいたパンフレットを見てみると、こういうことが書かれていた。「岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687年)に着工、元禄13年(1700年)には一応の完成を」みたもので、「岡山城の後に造られたという意味で『後園』と呼ばれていたが、『先憂後楽』の精神に基づいて造られていることから、明治4年に後楽園という名に改め」られたという。しかし、昭和9年には水害に、昭和20年には戦災で大きな被害を被ったが、江戸時代の絵図に基づいて復旧を行った由。

 園内に入ってみると、広々とした池があり、広大な芝生が広がっている。しかもそれが茶色く枯れているので、非常に寒々しい。あまつさえ、零下1度の風がその広い池の上を吹きわたってきて、耳がちぎれそうに寒い。その中をさっと一周したが、正直言って、景色を楽しむどころではなかった。池の中を悠々と泳いでいた鯉よりも、我々の方が寒かったことは間違いない。ちなみに、後楽園のHPによれば、「凛とした美しさが心地よい後楽園の冬」などとあるが、とんでもないと思う。しかしながら、「沢の池」に浮かぶ「砂利島」、「中の島」、それに少し小高くなっている「唯心山」などは、芝生が青い時期やツツジの季節には、さぞ美しいことだろうし、また、「鶴鳴館」という建物も、非常に風情がある。また時期を違えて、来てみるべきだと思った。しかし、全般的な印象として、芝生が幾何学模様を描くがごとくに広がっていたせいか、とても西洋的な感じを受ける庭園である。もっとも、部品としての山や池は、日本庭園そのものであり、東京の小石川後楽園や六義園にありそうな風景である。誠に不思議な日本庭園といえよう。

 それから、寒い中を後楽園から出て、その周囲の塀を半周して旭川に架かっている橋を渡り、対岸の岡山城に向かった。川を渡って来る風が冷たいので、身にしみる。残念ながらこの城も戦災で焼けてしまったが、内部はコンクリート、外側は往時の城と同一になるように再建したものだという。岡山城のHPによると、「慶長2年(1597)、豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城した岡山城。三重六階の堂々たる天守閣は織田信長の安土城天主閣を模して築かれたと伝えられ、全国的にも珍しい不等辺五角形の天守台をしています。関ヶ原合戦以前の古式を伝える貴重な天守です。(中略)黒い下見板張りの外観から別名『烏城(うじょう)』と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、『金烏城』の名もある名城です」とある。なるほど、「白鷺城」といわれる姫路城と比べて、色が黒いことから「烏城(うじょう)」というわけだ。その黒い壁に白い窓が映え、加えて上部にいくと金色の横線と鯱も加わって、実に優美な印象を受ける。戦前のお城がそのまま伝わっていれば、どれほどよかったことか。

 それから、お城を離れて歩き出すと、そろそろお昼近くになった。少し歩くと、電車が直角に曲がる大きな通りに出て、その辺りにあった大きなホテルに入った。ここで、お昼をいただくだけでなく、冷え切った体を暖めたいと思ったからである。イタリア料理店だが、まあその値段設定の安いこと、いくら食べて飲んでも、一人当たり千円もいかない。しかも、結構おいしい味だったので、二度びっくりした。

 十分に休めたので、タクシーを呼んでもらってそこから岡山駅に向かったのだが、駅はすぐ近くだった。途中、市内電車が走っていたが、それがまたてんでバラバラの車体なので、経費節減が狙いとは思ったが、不都合がないのだろうか。何には懐かしい気がするデザインの車体があった。運転手さんに聞くと、「全国各地のいらなくなった電車が走っているのですワ」とのこと。ははぁ、動く電車博物館と化しているらしい。「でも、全国各地で市内電車をなくしたなんて、もうはるか昔のことでしょう」というと、それで「珍しくこの間、ドイツ製の綺麗な車体の電車を買ったんヤけど、めったに見ませんワ」という。なるほど、これは虎の子というわけだ。

岡山駅前の桃太郎像


 そんなやりとりをしているうちに、岡山駅前に着いた。旧制高校のバンカラ姿の像があり、それから有名な桃太郎像がある。写真を撮ろうとしたが、バンカラ姿の方はちょうど光の具合がよくなくて、良い写真は撮れなかった。桃太郎の方は、光線の具合は良いのだが、背景にJRの広告が写り込んで、どうもよろしくない。それに、犬や猿をもう少し大きくしてやらないと、かわいそうである。おや、頭の上には鳩のような雉が乗っているではないか、これは変な像だと思ってよく見ると、何とそれは、本物の鳩だった。

 早合点するのもいいかげんにするべきだと反省しつつ、駅の建物に入った。そうだ、岡山に来たのだから名物の「吉備団子」でも食べようと思い、一番小さな箱を買い求めた。後ほど、宿で開けて食べてみたが、頼りない大きさの、これまた頼りない味の柔らかいお菓子だった。似たようなものに福井の羽二重餅があるが、食感と外見はそちらの方がはるかに勝っている。これでは、全国的にはあまり売れそうもないと思った。


3.倉敷美観地区

 岡山駅から電車でわずか17分で、倉敷に着いた。なかなか近代的な駅ビルで、二階部分から見下ろすと、駅前にロータリーがあっる。その中に花時計が設えてあるが、これがまた文化的な雰囲気がする、なかなか洒落たデザインの時計である。我々が泊まる宿屋は、「料理旅館 鶴形」といって、倉敷美観地区の中ほどにある。そこまで、直接タクシーで乗り付けた。着いてみると、まるで江戸時代の商家を思わせる建物である。聞くと、1744年に建てられた商家を改装して使っているという。鶴形のHPによれば、「倉敷川に影を落とす蔵屋敷と柳の並木、古い倉敷に心行くまでひたれる純和風の旅館、265年の歴史のしみ込んだこの由緒ある館は、ささやかな規模ながら隅々まで往時の繁栄とその面影を留め、瀬戸内の新鮮な魚介類を使った料理と相まって、必ずや倉敷の旅をいっそう楽しく感慨深いものといたしましょう」とある。なるほど、上手に表現するものである。

料理旅館・鶴形


 玄関の引き戸を開けて中に入ると、左手に花を積んだ御所車があり、花嫁衣装の内掛けが飾ってある。なかなか豪華なものである。これでさぞかし立派な部屋かと思ったら、別に庭に面しているわけでもない女中部屋のようなところに通されて、いささかがっかりした。しかし、考えてみると、外が零下のような寒い日だったから、そんなときに大きな窓のある日本家屋で一晩を過ごすと、たまらなく寒かったに違いない。そういうわけで、まあ、これでよかったのではないかと家内と話していたところである。その宿に荷物を預け、倉敷美観地区の散歩に出た。私は、倉敷川周辺の江戸時代そのままの街並みを写真に撮るのに夢中となり、家内と息子はそれに付き合うのは御免とばかりにそこから早々に切り上げて、寒いからといってアイビー・スクウェアの方へと行った。

吉備団子の廣榮堂本店


 私がまず撮ったのは、建物の屋根に鶏の風見鶏のある廣榮堂本店である。ここは、さきほど岡山駅で買った吉備団子の製造元だ。その名も「むかし吉備団子」というのが主力製品らしいが、我々が買ったのは「元祖吉備団子」で、「五味太郎氏のデザインした可愛らしいキャラクターに包まれた楽しい吉備団子、『むかし吉備団子』より入り数も多く日持ちも良い(約2週間)です」という。この廣榮堂本店を皮切りに、倉敷川を前景に入れて、昔の商家風の建物を撮りに回った。柳が往時の雰囲気を醸し出しているが、残念ながら冬のさなかなので、肝心の柳葉が少なく、風にも揺れてくれないのは、笑い話のようである。柳の幹を見ると、もう相当に古い木ばかりである。いつまで持つことやら・・・ここでも世代交代が必要なのかもしれない。

アイビー・スクウェア


 そうこうしているうち、家内から携帯電話で呼ばれたので、私もアイビー・スクウェアに行った。私たちは30数年前の新婚旅行の時に行ったことがあるので、実はその時と、どの程度変わっているのか、それとも変わっていないのかを見てみたいと思っていた。入口などは、当時そのものである。中庭も、その中庭に面した廊下を兼ねた大ホールも、これまた記憶にある通りである。何だ、さほど変わっていないではないかというのが感想だが、それで安心したような、がっかりしたような・・・でも、この時代、変わらないということは大事なことかもしれない。昔を思い出すついでに、中庭に少し残っていた蔦の葉を生かして、彩度を上げて写真を撮ってみた。これはなかなかうまくいって、それらしき写真が出来上がったのは、うれしかった。

 敷地内に、オルゴール・ミュゼがあり、オルゴールのコンサートが開かれるというので、3人でそれを鑑賞した。オルゴールについては、文京区の「オルゴールの小さな博物館」で詳しい知識を仕入れているが、こちらはどのようなものだろうという好奇心があった。まずシリンダー・オルゴールを聞かせていただいたが、なかなか良い音である。

 次にディスク・オルゴールを見せていただいたが、これは司会者が現物を持ち回って触らせてくれた。いままで、ディスクに空いた表の穴ばかりに注目していたが、デカスクの裏には、突起があることがわかった。ああ、これでピンを跳ねるから音が出せるのかと納得した。その演奏であるが、それぞれの音に心地よい余韻が残り、美しい響きが伝わってくる。さきほど述べた文京区のオルゴールの小さな博物館では、演奏中にディスクが擦れるバタバタという雑音が気になったが、こちらではそういうことは一切なかったのには驚いた。どうやら、文京区の博物館の方は、機械の調整が不足しているようである。

 司会者が「この優れたシリンダー・オルゴールは、なぜエジソンの蓄音機に負けてしまったのでしょうか」と問いかける。答えは、「人の音声をそのまま録音できるからです」という。つまり、生の音をそのとおりに保存できるからだ。かくして機械音たるオルゴールは、現代の歌声やピアノやバイオリンの音声との戦いにやぶれて、歴史のかなたへと消えていく運命をたどった。しかし、改めてこうして聞いてみると、オルゴールというものは物理的な機械音とはいえ、なかなか美しい響きを持っている。年に一回ほどは、こうして聞く機会を持ちたいものである。

 最後に司会者は、ストリート・オルガンという、ヨーロッパの街角で演奏している手回しオルガンを回してくれた。そういえば私たちも以前、パリのモンマルトルの丘で、ロマの女性が回していたのを思い出した。こちらの司会者による演奏も、なかなか調子がよくて、それこそ踊りだしたい気分となる。すると、「どなたか、回してみませんか」という。これは良いとばかりにさっそく手を上げて、ハンドルを回し始めた。最初は、慣性の法則の通り、いささか重いが、動き出すとなかなか軽快に回る。ただし、下から上へはちょっと重くて、その逆は軽くなるので、その間に回転速度を変えないようにするには、コツがいる。それを会得してからは、調子に乗って最後まで演奏してしまった。ハンドルを回していると、たくさんポツポツと穴の空いた白い紙のロールがどんどん巻き取られていく。これは、いわゆるオートマタであることを思い出した。

 それから、大原美術館に行ったのだが、残念ながら大晦日のこの日はお休みだった。それでも、門の隙間から覗いてみると、昔その前で写真を撮ったロダンの像がちらりと見えたし、美術館の隣には喫茶店のエル・グレコがあって昔のままの佇まいだったので、センチメンタル・ジャーニーとしては少しは満足したのである。

 料理旅館鶴形に戻り、お風呂に入った。ところが、お風呂が外にあるので、いったん外気に晒されてから着替えなければいけない。それに、湯船は狭くて、まるで自宅のユニットバスのようだ。加えて、カランが二つしかないときている。そんな中、私が入ると先客がひとりいて、湯船に首までつかって、お湯を溢れさせていた。私と似たような背丈のその人は、それから扉を勢いよく開けて、出て行ってしまった。

 私は、体を洗ってから、ひとり湯船につかったのだけれど、ひとつ、自尊心をくすぐられたことがある。何かというと、私が首までお湯につかったとき、湯が溢れるどころか、まだ1センチほど、湯船には余裕があったからである。つまり、1センチ掛ける湯船の表面積分の体積だけ、先客より私の体・・・おそらく腹・・・の体積が少ないということだ。そのおじさんとは、翌朝にダイニングルームで顔を合わせて、ひょいと挨拶をし、一瞬、優越感を感じてしまった・・・我ながら誠に浅はかなことである。

 さて、食事の時間となり、若い仲居さんが献立表のとおり、次から次へと料理を運んできた。その中で、前菜、お造り、それに鰆西京焼が私の口に合った。それから、岡山名物のママカリは、マリネ風の酢の物として出てきた。全体としてボリュームが多いので、最近は食が細くなった家内がこれだけの量を食べられるのかと気になって見ていたら、すべてをすっかりと平らげていたので、安心した。どうやら後始末のための息子の出番はなかったようだ。

 さて、その日の朝が早かったので、もう午後10時には寝る準備が整った。その前に実家の両親に電話をしたところ、一族郎党が集まって楽しく食事をし、大いに飲んでいるようだった。しかし、寒さがひどくて大雪らしい。年末の挨拶を済ませて電話を切った。床に着くと、さすがに疲れていたらしくて寝付きが早く、気がついたらもう元日の朝となっていた。交互におめでとうと言い交わして、さっそく朝食に向かう。食卓では、一夜干しの魚を焼いて食べるのが実においしかった。

 再び倉敷駅から岡山駅へと行って、そこから高知行き「南風5号」という特急に乗った。琴平まで乗り換えなしで行けるようだ。21世紀も早や10年目に入ったというのに、まだ鉄道が電化されていないようで、昔ながらのジーゼル機関で走る。ズズズーッというエンジンの音が、いささか耳障りである。でも、しばらく乗っているとそれにも慣れてきて、やがて瀬戸大橋にさしかかった。列車は結構なスピードで走っている。その中で瀬戸内海の島々を撮りたいと思ってカメラを向けたが、橋の構造物が邪魔になって、なかなか狙って撮れるものではないことがわかった。仕方がないので、ともかく連写して、その中で橋脚に邪魔されずに撮れている写真を選ぼうと考え、パシャパシャと連写をしていったところ、そのうち20枚に1枚くらいの割で、まあまあ使える写真が撮れた。これからは、こういう方法で行けばよいと、ひとつ学んだ気になった。


4.金比羅宮へ参拝

 小1時間ほどで琴平駅に着いてしまった。案外早いものだ。駅の正面には「賀正」とあり、正月らしい雰囲気が感じられる。ところがここも、寒いのである。零下1度ということで、宙に白い粉のようなものが舞う。あれはひょっとして、雪ではないかと思ったが、やはりそうであった。でも、積もるほど降っているわけではない。外気にふれると耳が冷たくなるので、かねて用意してきた毛糸の帽子を被り、駅から参道に向けて歩きだした。途中で高燈籠なるものがあり、昔のものしては、とても高い構造物である。そこを過ぎて左手に折れ、もっと歩こうとしたら、寒さがますます強くなってきたように感じた。それでは、この当たりで一息つこうと思って、交差点の角にある讃岐うどん屋に入った。ストーブがあるので、暖まることができたから、これは良かった。

 息子が持っていた旅行書には、讃岐うどんの食べ方という欄があったから、事前に車中でそれを読み、勉強して行った。それで、かけ、釜揚げ、釜玉、きじょうゆなどと、うどんの種類を覚えたつもりだったのに、この店のメニューには、詳しくは忘れてしまったが、そのどれにも当てはまらないものがたくさんあった。さすがに月見ときつねだけは全国共通であるが、その他は、まるでさっぱりわからない。仕方なく、かけうどんに当たるもの店員さんに聞いて、それを注文し、出てきたものをいただいた。とりわけ美味しいというものではないけれど、麺も出汁もまあまあの味である。おかげで体も温まってきたので、それでまた、参道へと戻って歩いていった。

 途中、「中野うどん学校」なるものがあって、妙な名前だと思っていたら、1600円弱で、お客に自分のうどんを打たせてそれをその場で食べてもらい、うどん打ち認定証と麺打ち棒を差し上げるというものらしい。地方によくある蕎麦打ち道場のようなもので、面白いアイデアだ、やってみたいと思ったが、予約制とのことで諦めた。

 そのほか、参道の両脇には様々なお店があり、それを冷やかしつつ階段を登っていくというのが流儀らしい。ところでその階段はというと、何とまあ、本宮まで785段もあるらしい。参拝客は、皆さん黙々と階段を上がっている。うまいことに、放送で「コンピラ フネフネ オイテニ ホカケテ シュラシュシュシュ」などと、調子のよいリズムで民謡が流れている。そうか、これに乗って階段を上っていけばよいのか・・・うまく考えられている。

 金毘羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ
 まわれば 四国は 讃州 那珂の郡 象頭山
 金毘羅大権現 一度まわれば  金毘羅み山の
 青葉のかげから キララララ 金の御幣の
 光がチョイさしゃ 海山雲霧 晴れわたる
 一度まわれば・・・・


 階段が狭くなったところに、駕籠屋のたまり場があった。江戸時代以来の駕籠で、紅白の飾りのついたものの中にお客を乗せて、エッサ・ホイサとかつぐ、あの駕籠屋である。ちょうど先ごろ、家内が足を痛めてつい最近それが回復したばかりで、長時間の階段の昇降ができるのかと心配していたところである。だから、乗ってみないかと勧め、駕籠のお世話になることにした。途中の385段くらいのところまで、行ってもらえるとのこと。ただし、それ以上は神域ということで、商売は御法度らしい。そこまでの往復で、料金は6,800円である。

 二人とも同じ背の高さで、もう60歳はとうに超えているような駕籠かきさんたちが出てきた。一瞬、大丈夫かなと思う。しかし、その懸念はすぐに消えた。担ぎ方や語り口に、まあ何というか、それこそベテランなりの味があるのである。おひとりは、もう20年もこの稼業を続けているらしい。この方は無口だが、もうひとりは、朴訥ながらも讃岐弁でときどき観光案内をしゃべってくれる。たとえば家内に対して、「お姉さんな、この近くにカナマルザってんのがあってな、うちらその近くを通るんねん。そこな、古い芝居をやりおんねん。テンポ三年にでけたと言いおるねん。200年も前だというねん。古いやろ。ワシもな、この間の興業でボランチアいうて、舞台回すの、手伝うたで。お姉さん、歌舞伎好きか?」という調子である。もう50歳をとうにすぎている家内を相手に、何がお姉さんだと茶々を入れたいところだが、家内は別に噴き出さずに平然と聞いていたので、これも可笑しかった。

 家内の膝に白い毛布をかけてくれて、さあ出発ということになった。文字通り階段を一歩一歩と踏みしめながら丁寧に登っていく。いやこれは大変な仕事である。とても、お猿の駕籠屋のように、エッサ・ホイサと気楽にかつげるものではない。聞くと、駕籠の重さが20キロというから、それに家内の体重が加わるので、ひとり35キロを担いでいる状態である。それが、片方の肩に全部かかって来るのだから、容易なことではない。ときどき、左右を入れ替えていた。途中から、今日は元日で、大勢の参拝客に迷惑だからと、金丸座の裏手を通る裏街道を通って、目指す中間地点の大門へと急いだ。

金比羅さんに参る途中の旭社


 さて、駕籠かきさんたちは、そこで家内を下し、30分後にまた来ると言い残して再び下って行った。もうひと仕事するらしい。商売熱心なことだ。大門を入ってしばらく登ると、ちょっとした広場のようなところに出る。社務所門の前で、その左手には白と黒の二頭の馬がいる神厩と、それから大きな船のプロペラがあって、人目を引いていた。さすがに、船を守る神様だけのことはある。

 さらに階段を上っていって、旭社というところに着いた。これで最後かと思ったら、とんでもない。またその先に急な階段があった。それを登りきると、海抜251メートルの本宮に着いた。やっとこさという感じである。そこからは、讃岐富士など讃岐平野が一望の下に見られる。ああ、これは30数年前に見たのとまったく同じ風景である。懐かしいなぁ・・・そこから本宮を振り返って見ると、こちらは昔の記憶とは違って、とても古ぼけていた。もっとも、私自身も歳をとったので、お互い様かもしれない。

金比羅さんの本宮から眺める讃岐富士


 その金比羅さんの本宮で参拝の後、神札授与所で息子が破魔矢を買うのに合わせて、私たちは矢だけの「幸先矢」というものを買った。普通の神社では、こちらの方を破魔矢というが、この金比羅さんでは、弓と矢を合わせたものを破魔矢というらしい。それを買うときに、少々無理筋かなと思いつつ、巫女さんに「これは飛行機に持ち込めますか」と聞いた。すると若い美人の巫女さんは、「そうですね。持ち込ませないなんて、そんな罰当たりなことはしないでしょう」と言ったので、思わず大笑いしてしまった。

 それから今度は逆に階段を延々と下っていき、やっと下の賑やかな参道まで戻った。小腹が空いたので、何か気のきいたものを食べようとしたが、目に付くのは讃岐うどん屋ばかり。まあ、こうなったらしばらくうどんの顔を見たくなくなっても構わないと思って、またうどん屋に入った。そこで注文しようとしたら、これまた予習してきたものと違って、きつねと月見以外は、メニューに書かれていることがさっぱりわからない。特に、「しょうゆ」というのは、醤油を注文するのと勘違いしてしまいそうである。さきほど入ったうどん屋とも違う。少なくとも香川県内ぐらいは、うどんのメニューを統一してほしいと思う。

 それでまあ、私は確実なきつねを注文し、家内は「しょうゆって何ですか?」と聞いてからそれを注文したところ、器にうどんだけが入れられているものが出てきた。それで、ああ、これはしょうゆをかけて食べるものかと気がつく有り様であった。そのしょうゆも、テーブルの上に置いてある普通のしょうゆにすぎない。ところが食べてみると、うどん自体に味が付いていて、まあまあ美味しかったそうだ。

 帰りは、高燈籠のすぐ先に琴電の駅があったので、それに乗ってみた。3両編成の電車が入ってきて座席に坐ると、すぐに出発した。乗客の数が少ないから座席に優に坐れて、立っている必要はない。元日の初詣の帰りだというのに、これは寂しいことだと実感する。これはもちろん鈍行電車であり、走ったと思ったらすぐに次の駅に着いてそこでしばらく止まる。この調子では、高松に行くのにどれだけ時間がかかるか想像もできない。不便この上ない。なるほど、これでは電車を使う人が減るわけだと思った。もう少し、利用者の身になった工夫というものが必要ではないか。

 たとえば、山手線浜松町駅から羽田空港に向かうモノレールは、以前に東急が走らせていた頃は、ひどかった。途中の競馬場やら整備場などのつまらない駅にひとつひとつ止まるものだから、うろ覚えだが40分近く経ってもなかなか付かずにイライラした。それがJRに買収されてからは、見違えるようなダイヤとなり、途中をすっ飛ばして終点の羽田空港までわずか20分で着くようになった。サービスはこうでなければいけない。


5.鳴門の大渦見物

 そんなことを思いながら、いつの間にか高松に着き、その日に宿泊するホテルに行った。金比羅の階段やら琴電の遅さに思わず手間取ってしまい、もう夕刻になったので、栗林公園に行くのは断念し、その夜は、親子3人でゆったりと過ごした。翌朝、徳島行きの特急「うずしお」に乗り、1時間12分で徳島に着いた。駅のデパートでは、若い女性が長蛇の列をつくっていて、何かと思ったら新春の初売りだった。景気づけに、鳴門太鼓のパフォーマンスが行われていて、その音の大きさといったらなかった。

 早々にその場を後にして、鳴門行きのバスに乗ったのである。途中、鳴門市内を通ったが、目抜き通りがシャッター通り化していて、そのシャッターが錆付いているほどである。元日だというのに晴れ着姿の人などまったくいない。そればかりか、市内ではほとんど人の姿は見かけず、たまにいても、よれよれのジャンパーを着た高齢者の方ばかりである。これはひどい・・・ひどすぎる。地方の衰退をひしひしと感じた。後から空港へ行くために乗ったタクシーの運転手さんがこんなことを言っていた。「箱モノばかり作りおって碌な産業も育てて来なかったんですわ。特産は、ラッキョと鳴門金時というサツマイモだけという始末。もうこの辺は、第二の夕張やで・・・税金は何でも馬鹿高いから、どんどん人口が減ってきているんですわ。安いのは、水道だけや・・・それも、近くの吉野川から有り余る水を引いてきているんやから、当たり前やけど・・・ほれ、あそこのボロボロの建物、何かわかりまっか? あれが市役所ですんや」

わんだーらんど号


 やがて、鳴門観光港に着いた。そこには、やけに新しい建物があって、その先につながっている桟橋には、白くて緑の線が入った船が二隻、繋留されていた。ひとつは大型船で、「わんだーらんど号」という。もうひとつは小型船で、「アクアエディ号」という。どう違うのかと思ったら、アクアエディ号は水中観潮船だという。実は、東京からインターネット経由で予約したのだが、わんだーらんど号は予約不要、逆にアクアエディ号は予約必要と聞いて、もちろん予約が必要な方がよいのだろうと思ってそちらの予約を済ませていた。しかし、いざ現地にやってきてどういうものかと様子を見ると、珊瑚礁で泳ぐ魚ならともかく、水中観潮と称して洗濯機の中みたいにただ水中で渦巻いているのを見るということがわかり、馬鹿馬鹿しくなった。現に乗船して渦潮の泡を見たら、目が回ってきた。

 それはさておき、昼食をとるつもりで来たのに、この建物は図体は大きいにもかかわらず、レストランはないという。困ったと思ったが、この周辺にはこれという食事をするところもない。仕方がないので、予約した1時15分まで待つことにした。1時30分に満潮を迎えるので、その時刻がちょうどよいと聞いていたから、これを早めるわけにはいかない。そこの売店で売っていたパンやら土産物の金時パイが、お昼代わりである。

 そうこうしているうちに、乗船時間が来て、アクアエディ号に乗りこんだ。まず、船底の席に坐れという。船底に降りて、びっくりした。これは、沖縄のグラス・ボートと同じである。船底の両サイドが斜めのガラス張りとなっていて、海中が見えるのだ・・・。船が動き出すと、緑色の海水がゴホゴボっと泡立ち、斜めに走りだすのがよくわかる。しかし、そんな調子で渦潮の泡を見ても仕方がない。目も回ってきたから、こんなところはさっさと脱出するに限ると思って、船の上部デッキに上がって行った。

鳴門の大きな渦潮


 進行方向の右手には、鳴門大橋がかかっていて、それに向かって近づいていくと、橋の真下辺りが、泡立っている。黒っぽい海の色が、そこだけ白や緑色に変わっている。そこに向かって船は、どんどん近づいていき、とうとうそのすぐ横に着いて、その回りを円を描くように走り始めた。大きな渦潮が見える。ああ、これかと感激する。渦潮の周りには、我々と同じような別の観潮船が回る。なるほど、渦潮はすごい迫力である。こうでなければ・・・近すぎて、かえって全体像がわからないとは、皮肉なものであるが、潮風に打たれて、とても気持ちがよかった・・・それにしても、水中観潮船って、いったい何だったのだろう?

阿波踊りのお人形


 帰りは、徳島空港へタクシーで行き、そこからJAL便で羽田に戻った。徳島空港では、阿波踊りのお人形さんがなかなか良かったが、今度は本物の阿波踊りを見に行きたいものだ。

 ところで、破魔矢の機内持ち込みであるが、係員のお姉さんが巻尺で長さを図り、「ううーん、長さはちょっとオーバーしていますねぇ、でも、全体の長さの合計はもちろん問題ないし・・・うむむむ・・・これを貨物室に預けると、壊れたりしたら困りますよね」と、悩みに悩む。私が「はあ、何しろ、金比羅さんの縁起物ですからね」というと、「では、特別に持ち込めるようにしましょう」と言って、何やら記号を書いた青い紙を張り付けてくれた。そういういうわけで、とても親切かつ柔軟に対応していただいたことから、幸いにして、「巫女さんが、持ち込ませないなんて、罰あたりだと言っていましたよ」という物騒な言葉は、使うまでもなかったのである。さすがは、お遍路や巡礼に理解のある四国の空港だけのことはあると思った。JALは、現在たまたま経営危機に陥っているが、こうやって頑張っている現場の皆さんには、是非とも、累が及ばないようにしてほしいものである。





(平成22年1月 5日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)




ライン





悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2009, All rights reserved