目 次 |
1.今熊野・泉涌寺・霊雲院 |
2.東福寺の紅葉の海 |
3.永観堂の晶子歌碑 |
4.高台寺のライトアップ |
5.長岡京の光明寺 |
6.嵯峨野の常寂光寺 |
7.嵯峨野の祇王寺・落柿舎 |
8.宝厳院のライトアップ |
9.二条城の秋景色 |
(参考) 写真の索引へ |
1.今熊野・泉涌寺・霊雲院 紅葉の季節は、その年によって見ごろの時期が異なる。これは桜の季節と同じで、こればかりは自然のお天気の巡り合わせ次第であるから、仕方がない。しかしそうはいっても、見ごろはせいぜい一週間、長くて十日間くらいであるから、東京で仕事を持っている身としては、二週続けて行くこともできない。だから、これは一種の賭けとなって11月23日の三連休か、28日からの土日という二者択一となる。そこで結局のところどうしたかというと、後の方の日程にした。 実はこの選択は、実に正しかったといえる。というのは、山の方は紅葉が早いが、それでも実際に行ってみたところ、ほとんどの木々にはまだ多くの紅葉が残っていたし、里の方ではこれから散り始めるという絶好のタイミングだったからである。これは、たまたま今年は11月に入ってから気温が上下して、例年より紅葉の時期が長くなったというのである。もっともその反面、あのしたたる血のような真っ赤な紅葉というのは、さほど見られなかったというが、それよりも我々のような遠来の客には、ともかく紅葉がちゃんと見られる方が有り難いことは、いうまでもない。今回は、京の洛中が主体というよりは、なるべくその外縁部に行くようにしたから、なおさらである。それでは、われわれが訪れた古刹の数々を順に記していきたい。 まず、子供に囲まれた僧侶の像がおわした。その名を「子護大師」という。なるほど、お顔がとても優しい。さらに坂を登ると、これまた品の良い観音像があった「ぼけ封じ観音」とのことで、そのネーミングには、不謹慎と思いながらも、思わず笑ってしまった。そんな直截的なお名前の観音様が現におられるとは思わなかった。 そのすぐ後ろには、この寺の堂々たる本堂がある。そしてその向かって右手には「大師堂」という建物があり、そのところに巡礼中らしき年配の夫婦がおられて、京都弁で説明中のおじさんがいる。ははぁ、ここは西国巡礼の札所なのか・・・。加えてボケ封じとは、これは妙な組み合わせである。 ではそれではと、「ボケないように」との念を込めて丁寧にお参りをしたが、やはり何か妙な気分であった。どうも、しっくりと心の中に落ちていかない感覚がするのである。ボケを心配するには、いささか早すぎる歳のせいであるかもしれない。そう考えつつ、本堂前の緋毛氈の長椅子にてちょっと一服をし、甘酒をいただいたが、寒い朝だったので、心から温まった。売り子のお姉さんに、「甘酒の生姜が、よく効いて美味しかったですよ」というと、にこりと笑ってくれた。
さて、それから東福寺へと向かった。わずか10分くらいの距離である。途中、東福寺塔頭のひとつ、霊雲院を訪れた。ここは、普通は拝観ができないと聞いていたが、幸いにもこの日は、九山八海・臥雲庭園を拝観できるという。これは、ひょっとして作庭家の重森三玲(みれい)の庭ではないかと思ったら、やはりそうだった。重森三玲(1896年-1975年)は岡山県生まれで、いけばなを能くしたほか日本庭園を独学で学び、その研究家として有名だっただけでなく、自ら優れた枯山水の庭園を作った。力強い石組みと苔の地割りが特徴的であるとされる。
ちなみに、その場でいただいた霊雲院の案内書によれば、「第七世の湖雪守は肥後熊本の人で、藩主の細川忠利と親交があったが、和尚がこちらの住職となったときに、寺産五百医師を送ろうとしたところ、和尚が『出家の後、禄の貴きは参禅の邪鬼なり。庭石の貴石を賜はらば寺宝とすべし』とおっしゃったので、細川家では『遺愛石』と銘をつけ、須弥第と石船を作って贈った」とのこと。良い話ではないか。
ところで、書院に説明書きがあったのであるが、幕末にはこの寺で西郷隆盛と勤王の僧の月照が密議を交わしたといわれている。それだけでなく、日露戦争当時にはロシア兵の捕虜収容所ともなったそうで、50人のロシア兵が8ヶ月間ここで生活したそうだ。また、彼らが使った弦楽器が展示されていたが、これは立ち去るときにお世話になったといって、ここに置いていったという。そんな歴史の舞台であるとは思わなかった。良い庭と深い歴史、ここに来て、本当に良かったと思った次第である。 2.東福寺の紅葉の海 霊雲院の重森三玲作の庭を見学して、東福寺の門前まで来たところ、物売りの店があちこちにあって、非常に賑わっている。その中で、東福寺御用達という鯖ずしの店を見つけた。ちょうどこの日、祇園の「いずう」に行って、京都名物の鯖ずしでも食べようかと思っていたところだから、これは好都合と思い、ひとつ購入した。後で家内とともに、それをいただいたところ、「いずう」ほど塩っぱくなく、それでいて鯖の生身がほどよく柔らかくて、とても美味しかった。 すぐ、花より団子になってしまう我々であるが、この日のひとつのハイライトは、やはりここ臨済宗大本山 東福寺の紅葉である。境内の臥雲橋を渡るときに、一面の紅葉の真っ赤な海が眼前に広がる。いやはや、見物人から思わず「わあぁ・・・これは凄い!」というため息まじりの声が飛び交う。その赤い海の向こうに有名な通天橋があって、そこから鈴なりの人々が眼下の紅葉の海を眺めおろしている。言葉にも出ない美しさとは、まさにこのことだなぁと実感する。もう少し進むと、紅葉の赤い海がぽっかりと空間が開いて、そこには川が流れている。その両岸には緑の苔、川面には青い空が写っていて、それが紅葉の真っ赤な色と相互に映えて綺麗なことといったら、この上ない。紅葉を見て、こんなに興奮したことはないと思うほどである。しかし、これがまた、東福寺の中から見ると、ますます素晴らしいのであるから、これはまだ導入部にすぎないのである。 お寺に入れていただき、さっそく通天橋に向かう。長蛇の列であったが、何とか橋を渡り始める位置に着いた。下を見下ろすと、どこを見ても、紅葉の赤、赤、赤で埋まっている。しかも、その紅葉は、真っ赤なものもあれば、たまに黄色い色も混じっており、その枯れ葉が緑の苔の絨毯の上に落ち重なって、その色の対比がモダン・アートを見ているようである。いったい、何という美しさかと思わず感激するほどだ。 通天橋をどんどん進んでいき、真ん中ほどの出窓のようなところで、紅葉の谷を見下ろした。さきほど我々が来たときに見上げていたところである。そこからの青い空、紅葉の赤と黄色、それに緑の松の木が互いに響き合って、この上ない美の世界を作り出している。観光客は皆、我を忘れたように携帯やデジカメを取り出して写真を撮っている。これを前にして、写真を残さないで、おられようかといっているがごとくである。実は私もそのひとりであるから、何をかいわんやである。 まるで夢うつつのようになりながら、通天橋そのものは通り過ぎた。そこから上へとあがって行き、開山堂(別名:常楽庵)に至った。ここは、屋上に楼閣があるような見たことのない造りの建物であるが、その前には丸く刈り込まれたサツキのような木々で埋まっている庭園がある。本来なら、ゆっくりと見たいところではあるが、この日はたくさんの見物人がいたので、それもかなわず、トコロテンのように押し出されてすぐ左手の普門院まで行ってしまった。その前庭は、四角く掃かれた枯山水で、見ているとなかなか面白いのであるが、それを横目に見ているうちに、もう出てしまった。そこからは再び紅葉の世界に戻り、今度は通天橋から離れて谷のところへ降りていった。橋から見下ろすのも良いが、こうして谷から見上げるのも、なかなか一興である。 それから、方丈へと戻り、入ったとたんに、東庭に出た。なにやら、丸い石が6~7個並んでいる枯山水だなと思って通り過ぎた。しかし、あとから東福寺のHPを見ると、「北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間」とあった。それなら、そのつもりでもっとじっくり見たのにと思ったが、後の祭りである。 次に、いきなり大きな石がいくつも並んでいる枯山水に出た。方丈西庭である。その大胆で勇壮な感じ・・・これはもしかしてと思ったら、やはり、八相の庭といって重森三玲が作ったものであった。それにしても、寝ている赤い石といい、立っている緑っぽい石といい、見事なものだ。その向こうには、木を市松模様に刈り込んだところがあり、これも特徴的な造作である。方丈北庭は、石と苔を使って、やはり市松を表現しているが、こちらの方がもっと小ぶりである。ちょうど通天橋方向の紅葉の景観が借景となって、非常に美しい。 これで、本日のメイン・イベントが終わってしまったという気分になったが、実はこれからまだまだ紅葉見物は続くことになるのである。なお、東福寺のHPによると、「東山月輪山麓、渓谷美を抱く広々とした寺域に、由緒ある大伽藍が勇壮に甍をならべ佇む....東福寺の名は、『洪基を東大に亜(つ)ぎ、盛業を興福に取る』と、奈良の二大寺にちなんで名付けられました。諸堂の完成は1271(文永8)年。以来、京都五山文化の一角を担う禅林・巨刹です。」とあった。いやもう、この紅葉の海の美しさを現代の日本に残していただいたことだけでも、たいしたお寺であると思う。 3.永観堂の晶子歌碑 これで今回、京の古刹を訪ねるのは五つ目であるが、それぞれに特徴があることが次第にわかるようになった。誤解をおそれずにいえば、あたかも客商売のように、それぞれがターゲットとする顧客層・・・寺社の場合はもちろん信者層・・・がいるようだ。たとえば、今熊野観音寺は、ボケ封じや巡礼などの民間信仰のお寺であるから、これはこれでその種の素朴な信仰を持つ人々を対象としているものと思われる。ところがその隣に鎮座する泉涌寺は、皇族ゆかりの御寺であるだけに、そういう高貴な方々を対象としていることがよくわかる。たとえば現代アートのような生け花ひとつをとっても、敢えていえばいささか高等趣味のようなものを感じる。東福寺は、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康などの名だたる武将の庇護下にあったようで、枯山水など武家好みの禅宗らしさが目に付き、何事もさっぱり恬淡としているといったところである。もちろん、これらは信仰の内容もロクに知らない者による戯言の類であるから、関係の方々は、あまり気にしないでいただきたい。 その点、この永観堂はどうかというと、ああ、これが浄土宗かとすぐにわかる。阿弥陀如来の慈悲に導かれるというので、先の私の分類では民間信仰であるから、今熊野観音寺に近い。というのは、拝観するときにいただいたパンフレットの中の文章に次のように書かれていたからである。「永保2年(1082年)2月15日早朝。阿弥陀堂に人影が動く。夜を徹して念仏行に励んでいる僧侶がいるらしい。東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気がついて、足が止まった。『永観、遅し』ふりかえりざま、その方は、まっすぐ永観の眼を見つめられた。」そしてそのふりかえったお姿をもって永観堂のご本尊とし、「みかえり阿弥陀」というのである。しかし、なぜ阿弥陀様がそんな早朝、永観和尚の前にお姿をあらわして「遅い」などといわれるのか、その状況設定がさっぱりわからない。もっとも、理屈が先にたつ現代の分析的な頭でそんな感想を持つ者には、そもそも民間信仰は向かないということだろう。 理屈はその程度にして、このお寺の歴史をひも解くと、いま話題に上った永観律師をさかのぼること200年前の863年に、こちらは真言密教の寺の禅林寺として始まったそうだ。そして永観さんのときに大きく発展し、そのため禅林寺はいつしか永観堂と呼ばれるようになったとの由。先ほどの説明によれば永観さんはとても社会慈善活動にも熱心で、「禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて『悲田梅』と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられた」ということである。ところが鎌倉時代に住職となった静遍僧都は真言宗の僧侶だったが、法然上人の教えに深く帰依し、その愛弟子の証空上人を次の住職に招いたことから、そのうちに浄土宗西山禅林寺派の総本山となったという。なるほど、宗派がここで抜本的に変わってしまったのか・・・。「以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています」とされる。 永観堂の特徴と見どころというパンフレットの文章によれば、「東山を背景に、阿弥陀堂をはじめとする古建築が、緑と水に恵まれた庭に調和しています。古来、都びとに愛された優美な景観のなかで静かなひとときを過ごしていただきます」とある。私もそうしたかったが、紅葉目当てでものすごい数の観光客が押し寄せていて、たいへんだった。その紅葉については、「もみじの永観堂は、全国にその名を知られています。境内を染め上げる紅葉はもちろん、お堂や回廊のすぐ目の前にせまってくる鮮やかな岩垣紅葉は、ここでしか見られないものです」とある。 それで、さあどうかと思って総門をくぐり境内に入らせていただくと、なるほど、永観堂のHPやパンフレットで自慢されるほどのことは十分にある。東山の緑の山々を背景にして、道の両脇には、まるで燃えるように鮮やかな赤い紅葉と、炎の先のような鮮烈なオレンジ色をした紅葉が立ち誇っているようだ。その中を歩くと、紅蓮の炎が両脇でめらめらと燃えているような気さえする。そのような中を進んでいって中門をくぐり、それから玄関から釈迦堂に入らせていただく。その建物には、中庭として、ちょっとした池があって、それまでは紅葉の赤の世界だったので、その池の周りの緑色に、目が安まったような気さえしたほどである。そこから、唐門を眺めると、門の前には、大きな小判型をした白砂が敷かれていて、その中が市松模様になっている。これは勅使門で、天皇の使いである勅使が来たときは、この白砂を踏んで身を清めてから釈迦堂に入ったそうだ。 阿弥陀堂まで行って、写真に撮ることはできなかったものの、みかえり阿弥陀様の像をチラリと見せていただき、そこから退出した。途中、悲田の梅といって永観さんがその実を施したという梅の木、三鈷の松といって葉先が三つに分かれていて三鈷すなわち「知恵」「慈悲」「まごころ」を表すという永観堂の名所があったが、大勢の観光客に押し出されるようになってしまい、じっくりと見ることができなかった。あ、そうそう、多宝塔につながる臥龍廊というウナギの寝床のような廊下があったが、ここも行きそびれた。また次回、人が少ないときにでも、行ってみたい。 建物から出て、放生池の周りを廻っていると、非常に不思議な感覚に襲われた。なぜだろうと考えてみたら、こういうことである。つまり、池の水面に晴れた青空が写っていて、その回りを紅蓮の炎のような紅葉の木々が取り巻いていて、まるでこの世のものとも思えない風景だったからである。この二つ上の写真を見ていただくと、よくわかると思うが、どうだろう、この美しさは・・・。そもそも、青と赤は対比色だから、ただでさえお互いに引き立つのに、それに加えて、白い雲、緑の松や苔、黄色い紅葉などが取り囲んで、まるで絵の具をパレットにぶちまけたような風景なのである。しばし、その場にたたずんでいた。そして、今の風景を目に焼き付けて、ゆっくりと歩いていくと、池の中に弁天島へと続く石橋があった。その下を数羽の鴨が泳いでいる。そこで、鴨が目の前に来たときをねらって写真を撮ったが、今日という日を代表する写真が撮れた。さて、そのすぐ先には、一本の歌碑があり、よく見ると与謝野晶子の歌ではないか。 「秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき」と刻まれている。帰って調べてみると、これは与謝野鉄幹をめぐる三角関係の歌らしい。1900年の8月、鳳晶子は初めて鉄幹と出会い、急速に惹かれていく。その年の11月、それを知ってか知らずしてか鉄幹は晶子と山川登美子の三人で、この永観堂の紅葉見物をした。そのとき、この弁天池に三人で無邪気に椎の実を投げ込んだりして遊ぶが、池には鯉(「恋」と掛けているのかもしれない)が見当たらないし、たまに触れる手と手はお互いに冷たい。まさに、恋のさや当てを詠んだ歌である。ちなみにそれから十日後、山川登美子は郷里の小浜に戻り、そこで意に沿まぬ結婚をすることを晶子に告げに来たとのことである。まさに紅蓮の炎のような今日の紅葉にふさわしい話である。 (注)「三人」は(みたり)と読むらしい。 4.高台寺のライトアップ 永観堂で思わず時間を使ったので、そこを出る頃には、もう午後4時半を回っていた。そこで出口にもうひとつ、観光客の列が出来ていることに気付いた。午後5時半から行われるライトアップのために並んでいるらしい。我々は今、拝観したばかりであるから、別のところ見ようということで、前回9月に来たときに見逃した高台寺に行くことにした。こちらも、ライトアップで有名である。タクシーで向かったのだが、運転手が生粋の京都弁で、こんなことを言うのである。「お客さん、知ってまっか? お寺って、税金タダなんでっせ。だから、紅葉だライトアップだ何だとと言いよって、観光客からぎょうさんお金を巻き上げて、それで祇園で遊ぶんですわ。ほれで、街の噂になったら、今度は大阪のキタへ行って遊んどんのですわ。ひどいもんでっせ。だから、税金をがっぽりとらな、あきまへんなぁ」・・・私たちは、ただただ、苦笑するのみだった。 ところで、目指す高台寺は、臨済宗建仁寺派の禅寺で、秀吉とねねの寺として知られている。そのHPによれば「正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたという。しかし寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で国の重要文化財に指定されている」とのことである。要するに、亡くなった秀吉を弔うため、ねね夫人が家康に頼んで金を惜しまない援助を受けたものだから、豪華絢爛たるお寺となったが、その後たびたびの火災にもかかわらず、これだけの建物が現存しているというわけだ。そういうわけで、桃山期の絢爛さと、武士が好んだ禅宗様式が混然と一体になっている。 高台寺には、夕暮れ時に着いた。夕焼けに映えてちょうど八坂の五重塔が見え、その右手にはやはり夕日の残照に照らされて雲が見えると思ったら、夕焼け空に不思議なものを発見した。ピンク色に染まった縦の棒のようなものが、宙に浮いているではないか。それは動いていないから、雲のかけらだろうと思われるが、ただ事ではない。自分で勝手に、これは瑞兆だと信じておこう。その方が幸せである。 さて、観光客の列の中に混じってしばし並んで、いよいよ高台寺のライトアップを拝見することとなった。いやまあ、一言でいえば、闇夜にぽっかりと浮かぶ灯りを見ているようで、とても幻想的な風景である。紅葉の庭園は、もちろん赤く染まっているが、暗いところはあくまでも暗いままである。そういう中にあってまず方丈に入れていただき、前庭から勅使門を見た。暗い中を発光ダイオードの青やら緑やらの光が走っている。あたかも前衛劇場のようであるが、それで何か始まるのかと期待していたら、本当にたったそれだけだったので、私も含めて皆さん、いささか拍子抜けした。これでは高台寺の名が泣く。こんなことなら、ちゃんとしたアーティストに依頼すべきだろう。 それから、お庭に出て、偃月池と臥龍池の周りを廻ると、水面に紅葉が反射して、とても美しい眺めとなっている。その池には、臥龍廊という、まるで龍が伏せたときの胴体を模したような長い廊下が架けられていて、それがそのまま秀吉とねね様をお祭りしている霊屋(みたまや)につながっている。その臥龍廊もまた、池の水面に反射して、幻想的な景観を造り出している。それからさらに坂を上がっていくと、そこは竹林で、これもまた、緑色がとてもよくライトに映えて、奥行きのある深遠な空間を現出していた。それから、出口へと向かったのである。 なお、たいそう残念なことに、境内では三脚の使用が禁じられているから、夜景の写真をブレないで撮るのが難しかった。カメラを動かないよう一生懸命に構え、しかも2秒タイマーで撮ったのであるが、それでも使える写真は、撮った写真のほんの2~3割程度であった。その2秒タイマーでシャッターが切れるまでの間、暗い中で大勢の観光客に体が押されて、動いてしまったことも少なからずあった。まあ、文化財保護と通行の円滑化のためには、これは仕方がないところである ついでにいえば、こうして高台寺のライトアップを見終わって、たぶん午後7時前だと思うが、境内の外に出たところ、そこに長蛇の列が出来ていたのには、びっくりした。ざっと見渡して、少なくとも2~3000人はいようかと思われるほどである。この方々たちはすべて、この高台寺のライトアップを見に来ているのだという。ははぁ、すごいものだと驚いたのである。ちなみに、そこから「ねねの道」を通り、祇園神社の境内に出てから、四条通り沿いの蕎麦屋で、京都名物のニシン蕎麦をいただき、宿の新都ホテルへと戻った。 5.長岡京の光明寺 翌日、朝早く起きてホテルの朝食をおいしくいただき、それから歩いてすぐ近くの京都駅に向かった。32番線から嵯峨野行きに乗ろうとして、駅の通路を歩いていたとき、「あれあれっ、通路に知った顔が並んでいる」と思った瞬間、向こうも気がついた。私と同級生のグループで、友達と誘いあって関西にゴルフに来たそうだ。世の中は狭い。まったく予想もしなかったところで会うものだ。でも、そのときの立ち話で、長岡京の光明寺の紅葉が素晴らしいと聞き、すぐに行き先を変えてそのまま関西線へと飛び乗った。こういう場合に、Suicaは便利である。もっとも、それはJR系の鉄道だけの話で、私鉄系のPasmoは関西では使えないから不便になる。まあ、それはともかくとして、電車に乗ったと思ったら、長岡京にはすぐに着いてしまった。こんなに近いとは思わなかった。 光明寺へは直通の臨時バスが出ていて、それに乗ると、ものの20分くらいで着いてしまった。降りた辺りは、見事なほど一面の野菜畑である。ああ、田舎に来てしまったという感がする。半世紀以上前の小さい頃の自分に戻ったような世界で、どこか懐かしい。その道を歩いて行くと、前方に「西山忌 総本山光明寺」と書かれた木札と、総門の前に「浄土門根元地」と書かれた石碑が見える。「根元地」とはこれいかにと思ったが、いただいたパンフレットによれば、「京都の西南、西山連峰がたおやかな稜線を描き、美しい竹林や杉、松の森に囲まれた粟生の里は、法然上人がはじめて『お念仏』のお教えを説かれたところです。それから800年、当本山は西山浄土宗の総本山で、報国山光明寺として法然上人の教えを受け継いできました。総門の前に立つ『浄土門根元地』という石標はそのことを表しているのです」とある。ははぁ、だから「根元」という言葉が使われているのかと納得した。 ところでこの光明寺は、最近のJRのポスターに「そうだ、京都に行こう」などと書かれている標語の背景となっている写真で、紅葉が一面に散り敷いているものがあるが、まさにその写真が撮られたお寺である。さきほど、京都駅でばったり会った友人も、そのポスターに惹かれてわざわざ拝観に行ってきたという話をしていた。 実は、光明寺はそのほかにも歴史好きの人の間では、大変有名なお寺なのである。それは、このお寺のパンフレットにも載っていた。すなわち「当山の開山第一世は法然上人ですが、建久9年(1198年)の創建に力を尽くしたのは、平家物話や敦盛に登場する熊谷次郎直実です。武士として戦乱に生きた直実は、自らの罪の深さにおののいていました。しかし、法然上人の『どんなに罪が深かろうとも念仏を一心に申せばかならず救われる』というお言葉に、その場で出家を決意したといわれています。その直実が熊谷蓮生法師として、念仏一筋に暮らした念仏三味院こそが光明寺の前身なのです」とある。 ちなみに、一昨年、私は親子三代で家族そろって神戸を訪れたことがあるが、そのときのエッセイで、須磨区にある須磨寺にも言及した。こちらは、源平ゆかりの寺としてよく知られていて、平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭がある。いうまでもなく、当時16歳だった平敦盛が、一の谷の浜辺で源氏の武将であった熊谷直実に討たれた話であるが、その直実が一生その罪を背負って、この長岡京の地でその余生を過ごしたかと思うと、まさに涙して余りあるところである。 光明寺へは総門から入り、表参道の階段を一歩一歩登って行くと、立派な燈籠があった。その回りには、赤い紅葉、黄色い紅葉、青い常緑樹の木々がとりまいていて、バランスといい、形といい、色といい、本当に美しかったので、それを写真に収めた。ううむ、これは見事だとしか言いようがない。まだまだ続く参道の階段を見上げると、あまり紅葉は見当たらなかったので、どうやらポスターの写真の場所はここではないらしい。たまたま、参道脇の緑したたるような苔の上に、落ち葉が散り敷いていて素晴らしかったので、それを一枚、写真に撮った。 そうこうしているうちに、御影堂の前にたどり着き、左手の法然上人像を見上げた。なるほど、知的で優しそうなお顔をしている。直実が帰依したのは、むべなるかなという気がする。もっとも、このお顔が本人そっくりという証拠はないのは、その通りではあるが・・・。その後、御影堂でお参りした後、釈迦堂の方へと行き、勅使門のある信楽庭を拝見した。小ぢんまりとしていながら、左右の石組みと緑の苔、真ん中の白い枯山水とが非常によく調和しているので、しばらく落ち着いて眺めていたいと思わせるほどの庭であった。 それから表に出てみると、真っ赤な紅葉、青々とした木々の緑、そして真っ青な空に、一筋の飛行機雲が見えて、まるで絵に描かれたような光景に出合ったことから、そこでまた一枚の写真をものしたのである。これもまた、今回の旅行を代表する一枚となった。また、信楽庭の勅使門を表から見たところ、その両脇から紅葉の木が張り出してきていて、なかなか風情のある景色である。その写真も、長い歴史を感じさせるこのお寺を訪問した素晴らしい記念となったというわけである。 さてそれから、「もみじ参道」を通って、帰途に着いた。この道がまさしく、JRのポスターにあったところで、途中の薬医門を中心として、その手前もこちら側も、紅葉・紅葉・紅葉がトンネルをなしていて、いやまあ、こういうのを言葉では表しきれない美しさというのかもしれない。本当に来てよかった。しかし、あの時、京都駅で友人と出合わなかったら、一生来ることもなかったかもしれない。まさにこういうことを、一期一会の縁というのかもしれない。そういうことで、まずはこの一連の写真を見ていただきたい。これを見終わった後、そのあまりの美しさに、おそらくは、言うべき言葉が直ちには出てこないのではないだろうか。 6.嵯峨野の常寂光寺 光明寺を見学した後、京都に戻ってお昼の食事をいただいたら、もう午後1時となった。慌ただしいが、この季節の日暮れは早いから、このまますぐに嵯峨野へ行ってみようということになり、京都駅からJRで嵯峨嵐山駅に向かった。快速電車だったせいか10分足らずで着き、その足で駅前の観光案内所に立ち寄った。そこで常寂光寺に行く所要時間を聞いたところ、係の女性は、歩いて30分ほどかかるという。それでは貴重な時間が無駄になると思って、タクシーではどうかと聞いたら、本日は混雑しているから歩いた方が早いという。では仕方がないので、常寂光寺への道順を教えてもらった。すると、「竹林の脇を歩くのですが、よろしいですか」と聞く。そのときは、あまり考えずに「はい、もちろん」などと答えていたのだが、現地へ行ってみて、その意味がようやくわかった。 要するに、物寂しいところなのである。大げさに言うと、これが中世だったら確実に追いはぎでも出そうな感じの佇まいのところである、しかしこの日は幸いにも、大勢の観光客がぞろぞろと歩いていたので、なかなか快適な散歩であった。でも、少し歩いているうちに、後ろから「どいて、どいてください」という声がする。何事やあらんと思って振り向くと、何とまあ、人力車が二人の客を乗せて走ってくるではないか。しかし、歩いている観光客が多いので、それをかき分けるようにしてである。これは・・・物寂しいどころではない。 そのままのんびりと歩いていると、野宮神社(ののみやしんじゃ)というお社があり、嵯峨野巡りの起点の神社というキャッチフレーズがかかっていた。その中で、大勢の参拝客がお参りをしている。野宮神社のHPによると、「野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです」とある。ははぁ、ここから未婚の皇女さんたちが、はるばる伊勢へと下っていかはったんか・・・それにしても、当時は今よりはるかに侘びしいところだったのではないかと、その心細さたるやいかほどのものだったかと案じてしまう。 お参りしてから、再び嵯峨野を歩きだした。途中、道端の杭の上に、ニワトリの像があった。妙なところにあるものだと思って近づいたら、突然それが動き出したので、びっくりした。ああ、生きている本物のトリなんだ・・・。でもどうして、こんなところにいるのだろう。人騒がせな・・・。
ところで、小倉山といえば、保津川を挟んで嵐山と対峙する山であるが、高校でこんな歌を習ったことを思い出した。私の頭の記憶の中から45年ぶりに手繰り寄せて甦ってきたというわけであるが、高校教育というのも、決して馬鹿にしてはいけない。こういうときに、役に立つという例証のようなものである。 をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびのみゆきまたなむ [藤原忠平] 夕されば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かずい寝にけらしも [舒明天皇] そうこうしているうちに、いよいよ、常寂光寺に着いた。左右に美しい紅葉の木が紅葉した葉の付いた枝を広げている。ちょうど、見ごろの時期を迎えているようだ。地面には、落ちた紅葉が一面に広がっている。「ああ、これこそ、京都だ!」といいたくなるような美しい風景である。こちらは、小倉山の山裾に位置しているだけに、苔が実に美しくて目にしみるがごとくである。その上に、赤い紅葉が散り敷かれているので、ますますもって、苔の緑色が引き立っている。紅葉の赤に目を奪われ、次いで苔の緑に目を休めるという感じで、その対比がなんともいえなく心地よい。この苔の美しさは、京都の特有のもので、鎌倉など関東の各地では、いかに努力しても、なかなか追随できないものである。私はかつて、苔寺に行ったこともあるが、苔の緑に引き込まれそうになったほどである。次の機会を見つけて、梅雨の季節にでも、ぜひ再訪したいものである。 境内を進んでいく・・・といっても、階段ばかりを上がって行くという感じであるが、どこへ行っても、紅葉の木々と、地面の苔の絨毯の上に散った紅葉の葉という組み合わせが美しい。そこを上へ上へと階段を登っていき、ようやく本堂に着いた。ところで、事前に常寂光寺のHPを見て、その完成度の高さに驚いた。良く出来ているのである。つまり、最初にイントロのショートムービーが出てきて、まず白黒画面でお坊様がしずしずと境内を歩いている。これがまた、山奥のお寺らしい雰囲気なのであるが、それを下から見上げるアングルで撮っているからますます厳粛な感じがする。そして、お坊様が画面からふっと消えるとともに、紅葉に半分ほど囲まれたお堂の端が現れ、そのとき白黒からカラーの写真となって、紅葉の赤と空の青さの対比が美しく照らし出される。しばらくして再び、境内を歩いているお坊様が出てくるという具合である。いやはや、ちょっとしたCMを見ているようなのである。 そんなわけで、あまりに出来がよいものだから、ついつい何回も見てしまったほどである。それはともかくとして、そのHPによると、このお寺は、「古来、紅葉の名所として知られる小倉山の中腹に寺域を占める日蓮宗の寺院。慶長元年(1596)、大本山本圀寺十六世究竟院日禛上人が、この地に隠棲して開創した。寺域が幽雅閑寂で、天台四土にいう常寂光土の観があるところから寺号となる」ということである。確かに、境内は山裾にあって、普段は「幽雅閑寂」、言葉を換えれば、ほとんど誰もいない状態なのだろう。 本堂の脇の木に何かぶら下がっていると思って近づくと、ああ、柿ではないか・・・。それを見つけて、何となくうれしくなる。そしてその前には、黄色くなった銀杏の葉が一面に散っていて、それと紅葉の木々の赤色との対比が素晴らしい景観を作り出している。たまさか、もと来た道を振り返ると、おお、京都市内が一望の下に見えるではないか。しばらく眺めていたが、もっと上に行く道がある。ここまで来たら、もう山登りと同じで、頂上にたどり着くしかあるまい。 ところが、ちょっと登ったところで、右に行く道が見えた。そちらへ行ってみたところ、小さな池が現れた、実はこれは、伏見城の客殿を移したといわれる本堂に付属する細長い小池だということである。この季節は、水面に紅葉が一面に降り重なっている。その眺めもなかなか良いものである。そこを離れてさらに登っていくと、左手に生前とした竹林が見え、その脇を通って行くと、やっと多宝塔に出た。 この多宝塔というのは、写真でもわかる通り、屋根の形といい、全体の立ち姿といい、本当に優美という表現がそのまま当てはまるような外見である。特に、重層の屋根の線がわずかに跳ね上がっているのが、非常に優雅な雰囲気を醸し出しているし、また真ん中にある白い部分、正式には「亀腹 (かめばら) 」というらしいが、これもなかなか魅力的である。この建物を下から見上げてもよいし、上から見下ろしてもまた美しい。それが京都市内に向けてちんまりと建っているから、素晴らしいの一言である。 降りていく途中、ひとつの石碑があり「女ひとり生き、ここに平和を希う」とある。説明を読むと、先の大戦で多くの男性が亡くなったことから、独り身で生きざるを得ない女性が50万人もいたと推定される。この碑は、そうした女性が建てたものであるという。一瞬、厳粛な気持ちになってしまった。私も、ぎりぎりの戦後世代であるが、そういえば、近所にも夫や息子が戦死したとかいう母子家庭がたくさんあったことを思い出した。戦後の日本の発展は、こういう方々の犠牲の上にあるという事実を決して忘れてはなるまい。 7.嵯峨野の祇王寺・落柿舎 常寂光寺においとまをし、再び嵯峨野巡りに戻った。さて次は、前々から行ってみたかった祇王寺である。常寂光寺からは、ほど近いところにある。いうまでもなく祇王寺の元となった祇王は、平家物語にも出てくる悲しい物語で、お寺のHPに詳しく書かれている。その要旨をかいつまんで述べれば、都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹がいて、時の権力者である平清盛の寵愛を受けて安穏に暮らしていた。ところがある時、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて、清盛の館へ行って、舞をお目にかけたいと申し出た。当初、清盛はこれを断ったが、祗王の取りなしで呼び入れて、今様を歌わせたところ、清盛自身がたちまち仏御前に心を動かされた。そこで仏御前が祗王の地位を乗っ取った形となり、祇王は館を追い出された。そのとき祇王は、「萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋にあわではつべき」と障子に書き残して去って行ったという。 それから祇王は、再び清盛の前で舞を見せるなどのつらい経験を経て、結局のところ、姉妹と母の三人で剃髪して尼となった。そして、ここ嵯峨の地の世捨人となり、仏門に入ったのである。そうして母子三人が念仏している所へ、竹の編戸を叩く者があった。誰かと出て見ると、思いもかけぬ剃髪姿の仏御前であった。そこで、四人一緒に籠って仏教の修行をし、往生の本懐を遂げたという話である。それ以来、祇王寺は、平家物語の尼寺としてよく知られるようになった。ちなみに現在の祇王寺は、明治初年にいったん廃寺となったときに残った墓と木像が大覚寺によって保管され、その後復興したが、そういう経緯もあって、今は大覚寺の塔頭で宗派は真言宗となっている。 祇王寺の入口近くにそっと、嵯峨菊が植えられている。ああ、確かにここが嵯峨菊の発祥の地だと思い出した。茶室の門のようなところをくぐって境内に入ってみると、ざっと見渡せるほど、狭い。しかし、中央には紅葉の木々が植えられている苔むした庭があり、その奥には、本堂というのか庵といった方がよいのか、素朴な建物がある。羊歯が美しく植えられているし、垣や手水の配置もよく考えられている。確かに、尼寺の艶やかさと侘びしさが感じられる。 庵の中は撮影できなかったが、控えの間の大きな丸い窓が印象的だった。そこを出て、裏手に回ってみると、一基の燈籠がポツンと立っていた。それを見て、ふと、寂しさを感じてしまったのは、私だけではないと思う。そういう、諦観を伴った寂しさというのは、やはり祇王の物語から来ているのだろう。 それから、嵯峨野巡りの最終段階に入る。というのは、大覚寺へ行くか、それとも落柿舎に戻るかという選択を迫られたからである。何しろ、時刻はもう午後4時を回っていた。いずれにせよ、大覚寺の拝観時間に間に合っても、たいして見学はできないから、落柿舎に戻ることにした。また嵯峨野を歩き、落柿舎前の野菜畑に出た。人力車を引いている車夫のお兄さんによると、この畑は、落柿舎前に建物を立てさせないために、京都市が土地そのものを買って、地元の人に畑の世話をお願いしているということらしい。いいことだ。 さて、落柿舎に入らせていただいた。建物の中や脇には、もちろん柿の木があって、実際に柿の実が生っている。門をくぐって建物の中に足を踏み入れると、その正面には、傘と蓑が掛かっている。ここ落柿舎は、松尾芭蕉の第一の門人であった向井去来の住まいであった。「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわれたほどの人で、芭蕉は、元禄二年(1689)以来ここに三度も訪問して、嵯峨日記を表したほどである。落柿舎のHPによると、去来は武芸に通じ、軍学、有職故実、神道を学んだ。芭蕉の教えに忠実でありたいと、「一紙の伝書をも著さず、一人の門人をももとめざれば、ましてその発句の書集むべき人もなし。この寥々たるこそ、蕉翁の風雅の骨髄たるべ」しと云ってたようである。まあともかく、ここで芭蕉と交流し、好きな俳句仲間と句会を開いて、趣味に生きた人に違いない。ああ、羨ましい限りである。ただ、ちょっと寂しすぎる地ではあるが・・・。 裏手から、トーンというか、カーンというか、まあそれが合わさったような音が聞こえてくるので行ってみると、鹿威し(ししおどし)であった。水がたまるまで1分くらいあって、それをじっと待っている必要があるが、いよいよ重たくなって竹筒が傾き始めると早くて、あっという間に竹筒の先が下の石に触れ、その際にカターンという甲高い音を響かせて水を放出し、そしてすぐに元の位置に戻る。これは、電子回路の説明にも使えそうだ。コンデンサーにため込む電子がいっぱいになって閾値を超えると、フブーッという音とともに一挙にそれを放出するなんていう回路なら、これで説明できそうだ。・・・そんなことを考えているから、俳句を作りそこねてしまったではないか・・・。そこで、遅ればせながら一句。 落柿舎や 鹿威し響く 日暮れかな [悠々人生] 8.宝厳院のライトアップ 落柿舎を離れる頃には、そろそろ暗くなりかけてきた。そこで、そのまま嵯峨嵐山駅に歩いて戻ったが、途中の天龍寺の辺りで、真っ暗となってしまった。しかも、間の悪いときに空は雨模様で、とぎどき雨粒が落ちてくるではないか。そこで、このまま京都の街中まで戻って、たとえば青蓮院のライトアップを見に行こうとしても、大雨となったら意味がない。そこで、5年前に行ったことがある天龍寺の塔頭のひとつ、宝厳院のライトアップの時間まで待つことにした。少し小腹がすいたので、そのあたりで蕎麦でも食べていれば、30分くらいは楽に待てそうだということで、近くに見つけた蕎麦屋に入った。 宝厳院は、そのHPによれば「寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公により、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されました」ということで、獅子吼(ししく)の庭が有名である。その由来については、同じくHPは「『獅子吼」とは『仏が説法する』の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを『無言の説法』という」としている。その中心となるのは、中央に置かれた「獅子岩」で、その形状だけでなく、付着した苔の美しさなど、なるほどこれは確かに天下の逸品?である。5年前にこちらのビデオを撮ったとき、とても感動したことを思い出した。 それを今回は、ライトアップという形で再訪したというわけである。入っていくと、ああ、暗い中をあちこちで紅葉が光の下で浮き上がっている。ああ、あちらでは、紅葉だけでなく、ススキも光に浮き上がっている。どんどん進んでいくと、小さな門があって、その周囲の紅葉は誠に美しい。この写真だけは、ブレないで撮りたいと思って、カメラをしっかり構えたら、何とか一枚は使える写真が撮れた。また周囲の庭に目をやると、地面の苔の絨毯と中空の紅葉が素晴らしい対比を見せている。 ああ、やっと獅子岩まで来た。暗い中ながら、灰緑色の岩肌に緑の苔が乗り、それが光に当たってこの岩をますます神秘的にさせている。しばらく見ていたが、どんどんやってくる観光客の波に押されて、その場を離れざるを得なかった。しばらく進むと、もう真っ赤というよりは、まるで血のしたたるような赤さの紅葉の木が印象的だった。 9.二条城の秋景色 朝早く起きて、二条城へ行った。私は、学生のときに行ったきりだったので、それからもう40年余も経ってしまったことから、そのうち機会があれば見学してみたいと思っていたからである。二条城は、そのHPによると、「慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です」とある。また、いただいたパンフレットには、「慶応3年(1868年)の大政奉還によって二条城は朝廷のものとなり、明治17年(1884年)に離宮になり、昭和14年(1939年)に京都市に下賜されたとのこと。平成6年(1994年)には世界文化遺産に登録され、平成15年(2003年)には築城400年を迎えた」とのこと。ははぁ、いまは京都市の持ち物なんだ・・・。 まずは唐門をくぐって二の丸御殿に入る。いやあ、大きい、大きい。だからというわけでもないが、清々としている。庭園内を含めて、紅葉などはついぞ見かけず、もっぱら松の木ばかりである。やはり、貴族や僧侶ではなく、ここは武士の館であることが一見してわかるというものだ。さて、その二の丸御殿であるが、全体として、四角い部屋を左上にどんどん継ぎ足していったような形状をしている、なかなか面白い建て方である。建築の図面を見ると、神社の神に奉納する幣帛として使われる白い紙を思い出してしまった。 入り口は「遠侍(とおざむらい)」の棟で、その車寄の正面が柳の間と若松の間である。ここは来訪者の受付けらしい。そこで受付けを済ませた大名は、虎の間つまり虎の絵が描かれた三つの部屋に通され、そこで控えていたようだ。次は「式台(しきだい)」の棟で、参上した大名はここで老中に挨拶をし、献上品を取り次いでもらった。それから「大広間」の棟に上がって、ここで諸大名は将軍と対面することになる。時代劇でよく見かけるシーンで、烏帽子直垂姿の大勢の大名たちが、将軍に向かって一斉に座りながら平服している場面があるが、あの舞台がまさにここらしい。しかも面白いことに、外様と譜代大名とで控えと対面する部屋を使い分けられていたようだ。外様の場合は、大広間の一の間限りであるが、親藩と譜代の場合は、次の黒書院の棟において内輪の話をすることができた。その黒書院の隣は白書院の棟で、ここは将軍の日常の居間と寝室である。 大広間の一の間は、幕末に第15代将軍徳川慶喜が、ここに諸大名を集めて大政奉還を発表したところである。金地に豪放で立派な松が描かれていると思ったら、狩野派の手によるものだからそれは当然なのであるが、本物の障壁画は別に収納されていて、これは模写作品らしい。天井には、四方が丸く折り上がった「折上格天井」で、一の間は将軍が座るところであるからさらにもう一段折り上がった「二重折上格天井」となっている。また、二の丸御殿の床板は、これを踏むと音が成るように出来ていて、「うぐいす張りの天井」といわれている。これは、敵が侵入したときに、それがわかるように造られているからである。 残念なことに、二の丸御殿の中は撮影禁止であったのでお見せできるような写真はないが、幸い二条城は京都の街中にあることから、来ようと思えば、いつでも可能である。それはともかく、二の丸庭園は、書院造庭園で、池の中央には蓬莱島を、その左右には鶴亀の島を配してある。あの小堀遠州の作という。煩雑な装飾はあまりなくて、きれいさっぱりしている感じである。さすが武士というところである。 (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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