金曜日の夜、テレビで、横浜の本牧にある「三渓園」の番組を家内とともに見た。そして「これは素晴らしい。それではひとつ、行ってみよう」ということになった。ちょうど今は菊花展を開催しているらしい。私も家内も、思い立ったら吉日、善は急げという主義だからから、もうその翌日の土曜日に出かけたのである。本牧に行くには自宅から大手町経由で半蔵門線の直通で行く方法と、二重橋駅経由で東京駅から東海道線で行く方法とがあるが、出発時間が遅かったので、多少は早く行ける後者の方を選んだ。 三渓園は、明治期に生糸貿易で多大の財をなした実業家の原 富太郎(「三渓」と号する)が自邸として造り、明治36年(1906年)にこれを公開したことに始まる日本庭園である。三渓は、その財力にものを言わせて京都や鎌倉等の古刹から17棟の歴史的建物を移築し、園内のあちらこちらには配置し、自らも絵画骨董の収集や漢詩、茶の湯を能くし、嗜んだという。かつては数千点に及んだという三渓の美術品のコレクションの中では、「孔雀明王像」、「伎楽面・迦楼羅」、「地獄草紙」、「木製多宝塔」などが著名で、いずれも国宝や重文級である。これらは今回、特別に展示されていたので、しっかりと見ることができた。 園内に入ってみると、ともかく広い。真ん中に大きな池があり、それを見下ろすように、「旧燈明寺の五重塔」が高台に建っている。この池を「大池」といい、それに沿って歩いて行くと、右手には蓮池と睡蓮池があって、その辺りには有名な藤棚がある。その右手の内苑地区には、一連の建物が配置されている。たとえば、三渓の自宅だった「鶴翔閣」、「御門」(元々は、京都東山の西方寺にあった薬医門で、1708年建築)、「臨春閣」(紀州徳川家初代が和歌山の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘で、1649年建築)、「天授院」(鎌倉建長寺付近の心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂で、1651年建築)、「聴秋閣」(京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築で、1623年建築)、「月華殿」(徳川家康時代の伏見城内にあった大名伺候の際の控え所の建物で、1603年建築)、「春草廬」(織田信長の弟の有楽斎の作と伝わる三畳台目の茶室)、「旧天瑞寺寿塔覆堂」(豊臣秀吉が大徳寺内に母の長寿を願って建てた寿塔の覆堂で、1591年建築)といった具合である。 これらの建物を外からちょっと眺めると、単に古い建物で何の変哲もないもののように見えるが、こうして徳川家ゆかりのものだとか、豊臣秀吉が建てたとか、それぞれの由来や歴史を聞くと、ははぁこれはすごいことだと驚いてしまう。ただし、歴史にあまり関心のない人にとっては、何のことやら、チンプンカンプンといったところだろう。しかし、このあたりが、ヒルズ族などと称して宇宙旅行や高級車などにお金を浪費するだけの、平成の俄か成り金のような輩と、原 三渓とが抜本的に違うところである。 しかし、三渓だって要するにお金を使って日本各地の歴史的な建物を集めてきたりしただけではないか、という見方も成り立つ。でも、廃仏毀釈や武家の没落などといった時代の激動期にあって、こういう奇特な人がいなければ、これほどの建物や美術品がそもそも残らなかっただろうし、更にいえばひょっとして今頃は海を渡ってボストンやニューヨークの美術館などに納まっていた美術品であったものを、日本国内にとどめるという功績があったかもしれないのである。 三渓園のちょうど真ん中、大池の北の「月影の茶屋」あたりで、菊花展の展示があり、美しい大菊などの展示があった。そこで仕入れた大菊の知識を、備忘録としてここに記しておきたい。これを見て知るまでは、「厚物」と「厚走り」との区別がついていなかったのは、誠に恥ずかしい限りである。 @ 厚 物(あつもの)・・・・鱗状の花弁が中心に向かって整然と組み盛り上がって球状になる花 A 厚走り(あつばしり)・・・厚物と良く似た花形で、下部より走りと呼ばれる花弁が放射状に出ている花 B 管 物(くだもの)・・・・傘状に整然と玉巻のある花弁が放出され中心部がちょこ状になり、下部にやや太めの走り弁がある花 C 大掴み(おおつかみ)・・・入道雲のように盛り上がった花弁の裾に長い走り弁がある花 D 一文字(いちもんじ)・・・一重の大きな花弁が14〜16枚、放射状に並んでいる花 E 美濃菊(みのぎく)・・・・一文字の花形の中心部に帆立と呼ばれる花弁が2〜3段ある花 ところで、菊の中に京都の嵯峨で栽培が続けれていたことから、その名を「嵯峨菊」といわれる種類がある。その菊の花弁は、まるで箒の先のようになっている形をしている。その反面、中には、その花弁がダラリと広がっていて、だらしがない感じのする花もある。私はてっきり、そのダラリと広がっている方が、満開の花だと思っていたが、それは逆で、むしろ箒の形となっている方が、満開状態なのだそうだ。何事も専門家に聞いてみるものである。 菊をさんざん見て十分に堪能した後、今度は外苑の方へと足を伸ばした。少し行くと「初音茶屋」という東屋があり、そこから階段を上って「旧燈明寺の三重塔」があるところへ行った。ここが一番高いところらしくて、園内の全域はもちろん、遠く横浜の本牧埠頭方面まで望むことが出来、はるかベイ・ブリッジの橋脚まで見えたのには、驚いた。 そこを降りて、梅林の横を通った。この梅林には、「臥竜梅」なる名前が付いている由緒正しげな梅の木などがあったが、残念ながら季節ではないので、次回来たときの楽しみとしよう。その先に進むと、そこには「旧東慶寺仏殿」があった。江戸時代に女性の間で頼りにされたさすがの縁切り寺も、明治以降は苦難の時代を経ていたようで、その結果、ここに納まっているらしい。 そんなことを考えながら、どんどん先に進むと、今度は合掌造りの古民家である「旧矢箆原家住宅」が現れたのには、びっくりした。これは、白川郷にあった古民家で、江戸時代の1750年頃(宝暦年間)建てられたものを移築したという。説明によれば、「岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に『宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ』(普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした」とのこと。建物内部を公開していたので、入らせてもらうと、非常に立派な建物で、半分が板張りだったのに、来客用のところは畳敷きだった。これは格式の高い建物である。屋内には民具があり、また囲炉裏に薪がくべられていたが、これは虫よけのためだろう。 合掌造り民家から出て、今度は大池の南側を迂回することにした。途中、小さな「天満宮神社」があったが、これは大阪から持ってきたという。この神社はその後、空襲で焼けてしまったとのこと。結果的に、助かったというわけだ・・・。そこを過ぎ、出発点の正門近くに戻ると、そこでは小菊盆栽展が行われていて、小さな菊の花だけでなくミニチュア付きのもので、三渓園の情景はもちろんのこと、横浜や神奈川の風景などが表現されていた。なかなかに、面白いものである。 以上のようなことで、我々もそれなりの感銘を受けたので、これからは、できれば春夏秋冬と、いろいろな季節に訪れてみたい。東京の六義園、新宿御苑、小石川後楽園などの名だたる大名庭園の遺構などと比べてみると、どうやら三渓園は、運営主体がいろいろな会を組織していて、その人たちが主体的な活動をしているからこそ、こうしてしっかりと整備され、運営されているようである。ちなみに、再訪するときのために、ここで備忘録として、一年を通じての行事予定を記しておきたい。 正月三日 鶴翔閣で過ごすお正月 1月中旬 盆栽展 2〜3月 観梅会 3〜4月 俳句展 3〜4月 観桜の夕べ 4〜5月 新緑の古建築公開 4月中旬 さくらそう展 4〜5月 新緑の夕べ 5〜6月 さつき盆栽展 6月中 蛍の夕べ 7月早朝 早朝観蓮会 7〜8月 朝顔展 9〜10月 フォトコンテスト 10月初旬 観月会 10〜11月 菊花展 11〜12月 紅葉の古建築公開 11〜12月 紅葉の夕べ (平成21年11月17日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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