This is my essay.








 先日の休みの日に、パソコンの中の写真でも整理しようと、ふと思いついた。そして最初に開けた写真フォルダーが、私が昔ミュンヘンを訪れたときのものである。この年は現地で日米欧の会議があって、日がな一日、ホテルで缶詰めが続いた後、話がやっとまとまった。その週末、いわばご褒美のようなものとして、その会議に参加した全員で、近郊のロマンチック街道に繰り出したのである。ノイシュバン・シュタイン城に行く途中の道端にあったレストランには、その店の壁に村人たちの様子が描かれていて、いやいや実に「これぞ中世」という趣があった。

 そのドイツの田舎の写真を見ていて、ふと思い出したことがある。私が大学生のころ、ホイジンガー著の「中世の秋」という本を読んだ。それは、暗黒というイメージが強かった中世についての常識を覆すもので、中世というのは、実は次代に飛躍する種がいろいろと播かれていた時代なのだと納得した。次いで画家の東山魁夷著のドイツ旅行記を読み、今度はああドイツに行きたいなと思った。今なら海外旅行など何でもないが、当時は大学生の身であり、その高額な費用を親に頼むというのも気が引けて、卒業記念海外旅行など夢のまた夢、そのまま社会に出てしまった。ところがそれから何年かして、その私がこんなドイツの田舎道を、なかば仕事でうろうろしているとはと、おかしかった記憶がある。

 ところで、東山魁夷著のその本の題名は何だったかなと思って、ネットのウィキペディアを調べてみたところ「馬車よ ゆっくり走れ」というらしい。「マイスター田崎のクラシックさすらい人」によれば、次のように書かれている。

 「このちょっと不思議な題名は、ティル・オイレンシュピーゲルのエピソードから採られています。ある朝、田舎道を走ってきた馬車がティルの前で止まりました。馬車の男が尋ねます。『次の町までどのくらいかかるかね。』 馬車の様子を見ていたティルが答えます。『そうだな、ゆっくり行けば4、5時間。急いで行ったら1日がかりだ。』 男はからかわれたと腹を立て、馬にむち打って全速力で去って行きました。2時間ほどで馬車の車輪は壊れ、町に着いたのは真夜中でした。ティル・オイレンシュピーゲルは単なるいたずら者ではなく、彼の話には諧謔と風刺がちりばめられています。そこに大衆の夢を満たす痛快さがあって、人気者として語り継がれてきたのだろうと東山さんは書いています。」

 ほほう、その「ティル・オイレンシュピーゲル」とは何者かと興味が広がり、再びウィキペディアに戻ってみた。すると、「ティル・オイレンシュピーゲル(Till Eulenspiegel)(1300年〜1350年)は、14世紀に北ドイツで存在していたとされる、伝説の奇人(トリックスター)。様々ないたずらで人々を翻弄したが、最期は病死したとされる。リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の題材であり、その作品内では絞首刑にされている。彼の最期の地とされる北ドイツの都市メルン(Moelln)には彼の銅像や博物館が存在している。彼のいたずら話やとんち話はヨーロッパでは日本でいうところの一休さんのように非常に有名である。」

 ティル・オイレンシュピーゲルについては、岩波文庫に阿部謹也著「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という和訳があるらしいので、さっそく丸の内のオアゾ丸善を訪ねた。端末に題名を打ち込むと、三階のI12100にあるという。そこに行ってみると、一面、岩波文庫だらけである。並べ方はアイウエオ順ではなく、いわゆる内容順というもので、ドイツ文学のところを探してもない。店員さんに聞いて一緒に探してもらっても、見当たらない。しばらくしてその店員さん、どこかへ走って行って戻ると、今度は一発で見つけた。それがなんと、私の目の前にあったので、大笑い。これぞ灯台もと暗しというわけである。いたずら者の本にふさわしい。

 その本を読んでみると、これは、スカトロジーそのものであり、現代の日本人が読むとすれば、とにもかくにも、汚くって、あまりお勧めしない。その名も「謹也」さん、よくもこんな本を真面目に訳したものだと変なことに感心したほどであるが、中世の人には、これくらいでなければ、感銘を与えなかったのかもしれない。それでも、2〜3の比較的きれいなエピソードを拾うと、こんなところである。幼い頃は悪ふざけの天才、長じて詐欺師というところであるが、単なるいたずら者ではなく、権威に反抗してそれを笑い者にしたり、意外なトンチを働かすところが、人々の間に語り継がれている背景らしい。その幾つかをご紹介すると、次の通り。


第09話 オイレンシュピーゲルが、まだ青年だった頃、自宅の高窓からザーレ川の対岸に綱を渡して、綱渡りの練習をしていた。ところが、それを見た母親が、曲芸師の真似なんかするなと怒って、その綱を切ってしまった。オイレンシュピーゲルは、ザンブとばかりに川の中に落ちてずぶぬれとなり、村の皆の笑いものとなった。オイレンシュピーゲルには、それが我慢ならなかった。

 そしてある日、もう一度、家の高窓から川の対岸の木に綱を張って、再び綱渡りをしようとした。前のことがあるので、今回は大人も子供も、また面白いことになるに違いないと思って、大勢が集まってきた。そして、オイレンシュピーゲルが呼びかけた。「面白いことをやるから、みんな、左足の靴を脱いで、貸してくれ。」

 皆は、こもごも靴を脱いで、オイレンシュピーゲルに渡した。彼はそれを一本の紐にくくりつけて、綱の上にあがった。そして、しばらく綱渡りをした後で、「さあて、皆さん、自分の靴を探したり・・・、探したり・・・」と言いながら、その紐を切って、たくさんの靴を地面にばら撒いた。

 皆は、自分の靴がどれかわからず、ある者は人の靴を取り合い、引きちぎり、突き飛ばし、喧嘩をし・・・、その場は大混乱に陥った。オイレンシュピーゲルは、綱の上から高みの見物とばかりに、「おーい、みな、自分の靴をしっかり探せよーっ。この間、おいらがたっぷり水浴びをしたようになぁ。」と言ったという。


第17話 大人になったオイレンシュピーゲルが、ドイツの大都市、ニュルンベルクに来たときのことである。彼は大きな紙を張り出して、自分はどんな病気でも治せる名医であると宣伝した。ニュルンベルクには新しい病院があったが、病人にあふれていて、院長は早く退院させたがっていた。そこで院長は、オイレンシュピーゲルを訪ねて、本当に直してくれるならたっぷりお礼をすると言い、オイレンシュピーゲルは約束の日までに直せなかったら、ビタ一文もいらないと言って、話がまとまった。院長は安心して手付金を支払ったのである。

 オイレンシュピーゲルは下僕を連れて患者ひとりひとりに会い、どこが悪いのかと尋ねた後、こう言った。「お前たちを直して歩けるようにするには、お前たちの中で誰か一人を黒こげにして、それを他の者に飲ませるしか方法がないのだよ。だから私は、お前たちの中で一番、歩けない者を黒こげにしようと思う。そうすれば、皆が助かるというものだ。私が院長を連れてきて、『病気が治った者は、出ておいで』と言うから、遅れないようにしろよ。最後の者が身代わりになるからな。ただし、この話は、誰にもしないようにしろよ。」

 約束の日となり、オイレンシュピーゲルは院長を伴ってやってきて、病室に向って、「病気が治った者は、さあ出てこーい。」と怒鳴った。すると、病人は誰も彼も、松葉杖をついた者であろうと、10年間も歩けなかった者でも、我さきにと出口に殺到して走り去り、病室には人っ子一人、いなくなってしまった。

 院長はたいそう感心して、オイレンシュピーゲルに約束した大金を与えた。彼はそれを受け取った後、馬に乗ってすぐに出発した。やがて、病院に三々五々戻ってきた病人から事情を告げられた院長は、騙されたと地団太を踏んだが、後の祭りであった。


第80話 オイレンシュピーゲルがケルンの旅籠に滞在していたときのことである。オイレンシュピーゲルは、たまたま朝食が遅かったので、昼食時には、かまどのそばまで行ったのものの、食べられないでいた。そこに、主人が「あんたは食べないのか」と声をかけてきた。オイレンシュピーゲルは、「いや、食べたくないのさ。焼肉の匂いで、腹いっぱいになったからさ。」と答えたのである。

 ところが、出発時に旅籠代を払おうとして、その昼食代も請求されていることに気がついた。そこでオイレンシュピーゲルは、「ご主人、あんたは食べてもいない昼食代をとるのかね。」と言った。すると主人は、「食べなくとも、焼肉の匂いで腹いっぱいになったのだから、当たり前だ。」と答えた。

 オイレンシュピーゲルは、懐から白銅貨を取り出して台の上に投げた。チャリーンという音がした。そして、「ご主人、この音が聞こえたかい。」と聞いた。主人は、「聞こえたさ。」と言った。すると、オイレンシュピーゲルは、素早くその白銅貨を拾って財布にしまい、こう言ったのである。「ご主人、この銅貨の音があんたのためになったのと同じくらい、焼肉の匂いは、俺の腹の足しになった。ありがとよ。」

(いずれも、原文の訳に少し手を加えてある。)




(平成20年10月16日著)
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