私が赤ん坊から小学校の低学年までの一時期、つまり今から50年ほど前に、神戸に住んでいたことがある。何と、半世紀も前のことになる。私の両親は、赤ん坊の私を抱いて初めて三宮の駅前に立ったときは、行き交う大勢の人々でびっくりしたという。とまあ、そういうわけで、神戸は私が物心のついた土地でもあり、まだ若かった私の両親にとっては最初の任地であったことから、いつも懐かしがっていた。折しも、私の子がちょうど修習で神戸に一時的に滞在していることもあって、では皆で神戸に行ってみようということになった。残念ながら、家内は急な用で行けなくなってしまったものの、五月の連休の後半、私の両親、私、息子が神戸で落ち合い、三世代によるセンチメンタル・ジャーニーが始まった。
神戸では、途中で一度引っ越しをしたので、二つの家に住んだことになる。その最初の家は、住所をたどると、新神戸駅の近くにあった。神戸というのは、ちょうど長崎のように坂の多い土地柄で、その昔住んでいたところも、たいへんな坂道の途中にある。阪神淡路大震災の影響で、相当変わっているかと思ったら、基本的な構造は昔のままであった。母が「あれ、ここには貯水池があったのに」といったところは公園になっていたが、その管理者は神戸市水道局だったので、埋め立てたに違いないということになった。住んでいた家はもうないが、近くの神社の庭に立って神戸の市街を眺め回すと、小さい頃の記憶がよみがえってきた。そうそう、この急な坂道が大変だった。母も、Tさんはどうで、Nさんはどうだったとか、半世紀前の記憶が生き生きと甦ってきたようだ。
その夜は、新神戸駅にあるクラウンプラザ・ホテルに泊まり、最上階の37階から百万ドルの夜景を見ながら、昔話に花を咲かせた。母がせっかくカレーライスを作って、さあ皆で食べようとしたら、強風が吹いて壁の一部が落ちてきて食べられなくなった話とか、父が喉にタイの小骨がささって咽喉科の医院で取り除いてもらった話とか、まあ色々なエピソードが次から次へと、とめどもなく出てきた。こういう話は、過去50年も頭の隅に封印されてきたのであるから、人間の記憶というのは、実にすごいものである。
それから両親には休んでもらって、息子と二人で、まず異人館を見物に行った。イギリス館、フランス館とあって、びっくりしたのはベンの家である。家の中は、シロクマ、バッファロー、ガゼル、トラなど、剥製の山である。何でも、貿易商だったベン氏は、商売を番頭に任せて、もっぱら趣味の狩猟に打ち込んだという。人生の理想というか………、とんでもないというか………、現代ではありえない生き方である。次に行ったうろこの館というのも、入口に天灯鬼、竜灯鬼がいたり、建物の中にはドンキホーテとサンチョパンサの像があったり、ガンダーラの仏があったりで、統一性がなく何が何だかわからない趣味であるが、どうやら像一般を見境なく集めるのが性癖だったらしい人の館である。こんなものを見て頭が混乱したあと、緑豊かな庭に出て、一瞬ほっとしたが、ふと横を見るとアンコールワットにある仏頭があったし、反対側を見ると、19世紀ロンドンで使われていた赤い電話ボックスがあった。もう夕暮れが迫っていたので、残念ながら、風見鶏の館にはたどり着けなかった。
それから、一度ホテルに戻って皆で神戸のしゃぶしゃぶを食べた。なかなか洗練されていて、おいしかった。それから港の方に夜景を見に行ったのである。跳ね橋、観覧車、マリンタワー、客船、台形のオリエンタルホテルなどが色とりどりに輝き、本当に美しい。見物人が散策する赤煉瓦倉庫もある。これらの要素はいずれも横浜にもあるが、息子にいわせれば横浜の場合はなまじ土地のスペースがあるために、それらが横に長く配置されている。それでかえって、すべてを一堂に見ることができないということになっている。その点、神戸の場合は土地が狭くてコンパクトなために、一度にすべてを見ることが可能だという。なるほどと納得した。それにしても、市販のデジカメで夜景を撮るのは難しい。両手で持って、夜景モードで撮るのだが、どうしても手ぶれがする。タイマーで撮ると少しはマシだが、まだ手ぶれが残る。さりとて三脚はないので、手すりに乗せて写真を撮るしかなかった。
翌日は、朝から須磨に行った。ここが第二の家があったところで、この地における生活が長かったので、思い出一杯の街である。駅に降りると、父がさっさと歩き出した。これが80歳をとうに過ぎている人の歩きかと思うほどのすごいスピードである。やがて、見慣れた陸橋が見えてきた。ああ、これこれと両親と私がうなずき、傍で息子がニコニコとしている。そして、まず綱敷天満宮に入った。震災のせいで相当の被害を受けたらしく、様子がまるで変わってしまっていたのは残念なことであったものの、それでも境内は昔を思い出してくれる縁となった。
そこを出て、かつての家があった場所に行くと、まあ何と、その土地には私たちと同じ姓の人が住んでいてびっくりした。母がお隣さんだったお友達の奥さんの消息を知りたいと思ったちょうどその時、近くの人が通りかかって、もう亡くなったとしらされて、残念がっていた。そのお母さんを含めて、いろいろとお世話になったらしい。さてそれから、また父が猛然と歩き出した。その早いこと、早いこと、ついていくのが大変である。山陽電車の駅の近くの公設市場に出て、まだ残っていると感心した。そして、須磨寺に着き、ようやく一服した。母がお参りの冊子にお寺の名前と印鑑を押してもらっていた。まるで、高齢者用のスタンプラリーである。それにしてもこのお寺、平家物語の平敦盛と熊谷直実を売り出していて、その騎馬像があったり、音楽まで流しているなど、関東の地味なお寺と比べて、その派手やかさが際だっていた。
そこからタクシーで、元町の南京町に出た。人がものすごく出ていて、著名なお店には長い列ができている。われわれも、昔よく食べた高砂屋の金つばを買った。そして父が銀行通りと呼んでいた通りに向かって、再びさっさと歩き出した。昔の道は、体で覚えているらしくて、以前通っていた銀行の位置がわかり、昼食によく行ったうどん屋が、まだ残っていたと喜んでいた。この間、50年の歳月が経っていることを考えると、まさに奇跡のような話である。
今夜の宿である一ノ谷の花月旅館に行った。箱根の老舗旅館のようなところで、つつじが美しかったが、桜の季節はこれにも増して素晴らしいという。通された部屋からは、須磨海つり公園が一望できて、父は「昔、あの辺でよく釣りをしたものだ」と言っていた。その脇をロープウェイが通り過ぎていく。
夕食まで時間があるので、また両親には休みをとってもらい、私は息子の案内で、明石海峡にかかる明石大橋を見に出かけた。垂水のポルトバザールから、橋が一望できた。それから明石に行き、今度は反対側から橋を見て、そして港を見に行った。途中で通った市場では、玉子焼という看板があるので何だと思ったら、関東でいうタコ焼きである。港のフェリーもタコフェリーというくらいで、面白かった。今度、試しに乗ってみたいものである。それから旅館に帰ると、ちょうど5月5日の日だったので、お風呂は菖蒲湯にしていてくれた。体の芯から暖まった気がする。それから始まった懐石料理は、いずれも薄味で、我々の趣味に合い、なかなか楽しいひとときであった。
最後の日は、残念ながら大雨であったが、もう既に行きたいところに行きつくしていたことから、昔通ったデパートの大丸に行ってみようということになった。関東で大丸といえば駅のデパート程度という印象であるが、こちらではたいそう格の高いデパートらしくて、なかなかの品揃えである。母はおみやげにまた金つばを買い込んでいた。10個入っているものを4箱、手に取ると暖かくてずっしりと重い。これだけのものが人の胃に入るのかと思うと、我ながらびっくりする。
これで、センチメンタル・ジャーニーのゴールデン・ウィークは終わった。私は、50年前のことが頭の中を走馬灯のように横切って、こんな記憶が出てくるとは、自分でも信じられないほどである。父も母も全く同様だったらしくて、本当に懐かしいひとときを過ごさせてもらった。全行程を忍耐強くお付き合いしてもらった息子にも我々一同深く感謝をして、この三世代にわたる神戸の旅を長く記憶に残していきたい。
この旅の続き・・・
(平成19年5月 7日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |